石狼(1)
廊下の壁際で、二人の貴族が立ち話をしている。その片方がフェルティアードだと認めた時、ゼルは心の中でゲルベンスに謝辞の雨を降らせながら、さらに駆け足を早めたい衝動に駆られた。だがここで音を立てて走ったら、また何か言われるに違いない。ゼルはやや速度を落とし、早足に切り替えた。
完全にこちらに背を向けているわけではないが、フェルティアードの視界にゼルは入っていないだろう。話しているもう一人が、一瞬だけゼルに目をくれる。フェルティアードは、それを追って振り向くことはなかった。
「フェルティアード卿」
ゼルは、そう口にしたところで立ち止まった。だが、少し早すぎたようだ。ゼルと彼との
呼ばれた大貴族は、まず瞳だけをゼルに向けた。足先から頭まで、凍えるような風が舐め上げてくるのにも似た感覚。回数は少ないにしても何度も会っているはずなのに、彼からあふれ出る重圧感は少しも減ってはいない。気軽にしてくれ、と言ってくれたゲルベンスと会った直後ということもあって、堅苦しさは倍に感じられた。
「何の用だね、ル・ウェール」
外套をゆらめかせ、フェルティアードはわずかに体の向きを変えた。真摯にゼルの話を聞こうとするようには見えない。その声にも、煩わしげな色が込められているようだ。
「
フェルティアードに負けじと、ゼルも背筋を伸ばした。伝言を述べるだけなら、いくら彼でも注意するところなど見つけられないはずだ。今日ばかりは、自分に礼を言うしかできないに決まっている。
ゆっくりと開いた口が、言葉を紡いだ。
「神殿に来て欲しいということなら、今しがた聞いたが」
今度は、内側から体を凍らせられたかと思った。開きかけていた口も閉じられていないゼルに、フェルティアードの話し相手が声をかけた。
「すまないね。そのことについては、たった今わたしが彼に伝えたのだ」
手柄を横取りしてしまったようだな、と申し訳なさそうに呟かれた台詞すら、理解するまでにじっくり二呼吸分は消費した。
あれだけ探し回って見つけたのに、すべて無駄に終わってしまったのか。フェルティアード卿に会い、用を伝え、礼をして彼の元を去る。その些細な、しかし何度も頭の中で反復した予定が、こうもたやすく崩れるとは。
「用はそれだけか」
「……はい」
声を張らせることなどできなかった。低い位置に落ちた視界には、すでにフェルティアードの顔は映っていない。村で暮らすだけなら一生必要としなさそうな、素人目にも高価だとわかる彼の軍服。それと壁の模様を見て気を紛らわせ、ゼルは早急にここから離れようとした。
「こんなに時間を要しては、至急の意味がないとは思わんか。ル・ウェール」
その一言に、今日これまでの行動を否定された気がした。そしてそれは、ゼルにとってはさらに気落ちさせるものにはなり得ず、逆に怒りの元となって、彼の顔を跳ね上げさせた。
こっちだって、できる限りの手を尽くしたんだ。わざとゆっくり来たわけでもないのに、理由も聞かずに言いたいことを言って。好きで急ぎの用を先延ばしにするやつがいるもんか!
そう言おうとして、一息に空気まで吸い込んだが、結局その感情が言葉を伴って出てくることはなかった。口にしたところで、もっと辛辣な答えが返ってくることは、なんとか耐え抜いた理性でも予想できたし、何より暴言以外の何物でもない。だからゼルは、唇が震えるのを隠すために歯を食いしばり、フェルティアードを睨み上げるに留まった。
いや、本人にそのつもりはなかった。だが二人の貴族の反応を見れば、睨むという行為に相違なかったことは明白だ。どちらとも、ゼルの表情に目を丸くしていた、という点では同じだったが、それぞれ微妙に違う部分もあった。
一足違いで伝言を先に告げてしまった貴族は、この大貴族に喧嘩を売る気か、とでも言いたげに、ゼルから目を離していなかった。そして当の大貴族は、まさかこの青年が、自分の言葉で怒りの表情を見せてくるとは思わなかったらしい。いつもよりも開かれた目で――おそらく意表を突かれたのだろう――彼はゼルを見下ろしていた。
しかしそれも一瞬で、身を切るような琥珀色の瞳がゼルを一瞥すると、フェルティアードは話していた貴族に短く別れのあいさつを残し、身を翻して行った。
逃げるのか、と後を追おうとした足を止めたのは、ゼル自身だった。逃げるも何もないではないか。フェルティアード卿は、自分も伝えようとしていた急用とやらに向かったに過ぎないのだ。
(何熱くなってるんだ。しっかりしろよ)
フェルティアードがいなくなって、ゼルはさざ波の立った心が穏やかになっていくのを感じていた。自分がしようとしていたことが、どんなに馬鹿らしいことだったかもわかってくる。何度目かわからぬため息をついたが、今のは自身を落ち着かせるためのものだ。
とにかく、もうここに残ってもしょうがない。多分デュレイとエリオも、それぞれの下宿に戻っているだろう。
「失礼、ル・ウェール君?」
ゼルは心臓が飛び出るかと思った。貴族が一人残っていたのを、すっかり忘れていたのだ。その振り向き様は、呼びかけた貴族までたじろぐほどだった。
「はっ、はい! 何でしょうか」
ゼルはその貴族を見上げた。フェルティアードより背は低かったが、平均的な身の丈だ。ゼルが小さいので、首を上に向けなくてはならなかっただけだ。
「わたしはシャルモールという。きみには本当に悪いことをしたね」
するりと音を立て、色の濃い茶髪が肩を滑った。ゼルに対し礼をしたのだ。目上の者にするような、深々とした礼ではなかったが、ゼルに驚きから来た鳥肌を立たせるには十分だった。
「そんな、とんでもないです! それに、頭を下げて頂かなくても」
どう言葉を選んでいいかわからないゼルに、
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