王都ベレンズ(1)

 ――歌が聞こえる。

 霧がかかったようにおぼろげな、それでも男の声だとわかる歌。美しい、とは感じない。ただひたすらに暖かく、優しい声。


 時折夢で聞くこの歌は、例えるならなんだろうか。そう思った途端、ゼルの意識は急速に目覚めてきた。いつものあの声はあっという間に掻き消える。

 代わりに、朝を告げる鳥のさえずりと、男の声が聞こえてきた。叔父さんが起こしに来たんだろうか。そう思って身をよじると、素足が外気に触れた。


 ブランケットから足をはみ出すほど、自分は寝相が悪かったか。不思議に思って両目を開ける。木の天井が見えたが、それはまったく見覚えのないものだった。


 一瞬でも、ここはどこだろうと不安になった自分が、馬鹿らしく思えた。なんのことはない、ここは宿の一室だ。ウェールの村にいるはずの叔父が、ここにいるわけがない。川で助けたデュレイと共に、王都まであと少しというこの町の宿に泊まったのではないか。


 川での一件の後、この宿場町に着いた二人は泊まり先を探したのだが、どこの部屋も埋まっていることを知らされ、困り果てていた。そこに、一人の貴族とその従者が、救いの手を差し伸べてくれたのだ。この部屋は、その二人の親切心から譲られたものだった。


 半身を起こし、大きく背伸びをする。また男の声が聞こえた。廊下ではなく、宿の外で話をしているようだった。


 覚醒してきた頭が、この声はあの貴族のものだと判断する。途端に、悪寒に似た感触が腹の底から駆け上がってきた。見送りのあいさつの一つくらいはしなければ、という焦りと緊張から来たものだったが、それは不要だと当の貴族に言われていたことを思い出して、悪寒はため息と一緒に出ていった。


 今ではまるで荒風のように跳ねている頭をかきながら、ゼルは立ち上がる。窓の真ん中には、デュレイが寝ているベッドが横たわっていたので、ゼルは身を乗り出して窓から外を覗いた。さすがに、まだ眠っている彼をまたいでまで、外の様子を見ようとまでは思わなかったのだ。


 デュレイの足元からぐっと首を伸ばすと、馬の背に乗った男が二人、亭主らしき人物と話をしているのが見えた。話はほぼ終わっていたようで、二頭の馬は颯爽と走り出して行った。ゼル達がこれから向かう方向と同じだったので、やはり彼らも王都に行くのだろう。


 自分の寝台に腰を下ろし、大体の身支度を整えた頃、宿の使用人が朝食を運んできた。食欲をそそる芳香に、ようやくデュレイも覚醒し、出発の準備を始めた。


 朝食を終えて、二人は宿を出発した。速歩で馬を進めること、一時間は過ぎただろうか。平地となだらかな丘が続いた先、一面の緑豊かな農地と共に、ゼルが目指してきた場所がようやく現れた。


 そこに広がっていたのは、先ほどの宿場町の比ではない、広大な街並みであった。その大半は頑強そうな城壁で囲まれ、鮮やかな色の屋根が景色を彩っている。まるで蜘蛛の巣か細かい木の根のように、大小の道が街中に張り巡らされていた。その中で一際目立つた建造物に、ゼルは引きつけられていた。


 王都の街が華やかであるなら、それは清楚な美しさを放っていた。見る者に調和と安定感を与える左右対称の造りは、白を基調とした、光り輝いているようにさえ見える壁で築き上げられている。


 静かに、そして堂々と鎮座し、木々と庭園を従えたそれは、紛れもなくベレンズを治める王の館であった。


 王都にはまるで巨木の幹のように、長大な川が寄り添っていた。ゼルとデュレイが渡った川も大きい部類には入るが、これに比べればせいぜい細枝の一本程度だろう。


 いつの間にか馬の足をゆるめていたゼルに合わせ、デュレイは自分の馬の手綱を引き、歩みを止めた。それに気づいたゼルも馬を止めたが、その目は眼下に顕在する王都しか映していなかった。


 この旅路を、待ち望んでいた夢の始まりにしようとしていたことを、ゼルは改めて思い出していた。それはつまり、貴族になるという夢だ。この都からそれが始まる。いや、自分が始めなくてはいけない。


「……ここが王都なんだな」

「そうさ。ここがぼくらの国の都、べレンズだ。さあ、行こうゼル」


 再びデュレイの馬が駆け出す。その蹄の音で、ゼルは呆然とべレンズを見つめる自分に気づいた。デュレイを追うのに拍車をかけ、また街並みを見る。その瞳は、揺るぎない志気で輝いていた。

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