第一章「ベレンズへ」

川辺の出会い(1)

 旅立ちには困難が付きまとうものだ、と誰かが言っていたのを聞いたことがあるが、行く手を遮るほどの困難もあるのか。


 澄み切った空には、少しの雲が浮かぶだけ。やっと暖かくなってきたそよ風が、その真っ白な雲を溶かし込んだようなやわらかい金色の髪と、対照的にくすんだうぐいす色の外套を揺らしていた。馬を下りることも忘れ、光を内に秘めたような碧眼をしばたたかせて、青年はその惨状を目の当たりにしていた。


 彼の眼前に横たわっていたのは川だった。泳いで渡れぬこともないが、尋常ならざる労力が必要なのは明らかな広さだ。しかし実際に彼を足止めしていたのは川ではなく、その川を渡るための橋であった。


「これは……よわったな」


 木造でありながら堅固であったはずの長い橋は、無残な有様になっていた。川を渡る道となっていた板は所々に大きな口を開け、その下の水流を容赦なく見せつけている。街道を支えていた何本もの頑丈な柱は、折れかかっているもの、砕けたものばかりに目が行ってしまうほどに崩れていた。経た年月が味方しなかったのもあるだろうが、主たる原因はまた違うものであることは疑いようはなかった。


 もちろん、そんな崩壊寸前の橋を渡る者などいなく、渡らせるわけにいくはずがない。橋の入り口は、固く縛られた縄で閉鎖されていた。おそらく向こう側も同じ状態だろう。


「これじゃ、渡し舟が出てるとこまで行かなきゃならないな」


 同年代と比べると、まだ少年らしさが残る顔をややしかめ、ため息をつく。どの道を行こうかと思案しながら、川向こうに広がる深い森を眺めていた時だった。

 ふと、しばらく蹄の音しか聞かなかった耳に、人の声と水音が届いた。見ると、土手を下った川辺で、数人の子ども達が水遊びをしている。子どもの親とみえる大人もそばにいた。


 しばらく寒い日が続いていたが、今日は一段と暖かい。はしゃぐ彼らに、青年は自分を元気に送り出してくれた村の子ども達を重ねていた。


「そちらのお方ー。向こうにご用ですか?」


 眺めていた場所よりもさらに手前、橋のほぼ真下から、その声は聞こえた。覗きこむように見やれば、舟が数隻浮かんでいる。青年に呼びかけた男は、ちょうど舟から川辺に足を踏み下ろしたところだった。


「ええ、でもまさか橋が壊れてしまってるとは。……あの、もしかしてそちらは」


 地に足を降ろして、青年は舟の男に声を張り上げた。手綱を引き土手を下りながら、川に揺られる舟に視線を向け、彼は男におそるおそる問いかける。


「ああ、わたしたちゃ上流で渡し舟を出してるもんです。こないだの大雨の増水に加えて、どでかい流木やらが橋をぶっ壊しちまったって聞いたんでね、ここを通る人が不便だろうってことで、数人こっちへよこされたんですよ」


 長年この仕事に従事しているのだろう。親しみを感じさせる笑顔で、船頭の男は事の次第を話した。青年はと言えば、目的の日まで到着できないのでは、とさえ憂慮していたので、彼の話を聞くなりぱっと顔を輝かせた。


「よかった! 向こうまで行かなくてはと思ってたところだったんです。すぐに出して頂けるんですか?」

「もちろん。今しがた、お客さんと同じ年頃の旅人さんが行ったところですよ。ほら」


 川の中腹へと差し出された手の先には、ゆったりと進む一隻の舟があった。舟を漕ぐ男の他に、頭がもう一つ。背が高く、大きな体躯なのが、遠目でもはっきりわかった。


「お客さんはここを超えて、どこまで行きなさるんで?」


 青年が馬と共に船へ乗り込んだのを見て、船を漕ぎ出した船頭が口を開いた。


「そう遠くじゃありませんよ。王都までです」

「ほお! ではさっきの方と同じですな」


 まるで級友を見つけたかのような、嬉しげな口調だった。


「あの人も?」

「ええ。それに格好も似てなさる。とすると……確か、兵役は二年でしたかな」

「はい。無茶はするなって念押しされました」


 苦笑する青年に、船頭は微笑んで目を細めた。


「親御さんはそういうもんですよ。応援もしたいけど心配もする」

「きっと、やりすぎるんじゃないかって思ってるんです。小さい頃の夢を、今日までずっと持ち続けて、兵士になる今、とうとう何かやらかすんじゃないかって」

「そんなに荒っぽい夢なんですかい?」

「そんなところです。ぼくは貴族になりたくて。父が、あと一歩のところで叶えられなかったことを、自分がやり遂げたいと思ったんです。そして――」


 青年の言葉は、川をつんざいた金切り声に打ち消された。


 声の主は、先ほど彼が目を向けた集団の中にいた、一人の女性だった。その驚愕と悲愴に歪んだ顔を見つめることもなく、彼の目はその女性の直視する先に向けられる。


 子どもがいた。しかし集団ではなく、一人である。その上子どもは、あろうことか川のほぼ真ん中へと流されそうになっていたのだ。


「なんてこった、あんなとこまで行くなんて! あそこは下手したら大人だって危ないんだぞ」


 にわかに船頭の顔つきが変わった。女性の叫び声で止まっていた腕に、再び力がこもる。幸い川の流れは急ではなかったが、早く助け上げなければ子どもの体力が持たないのは必至だ。ゆっくりと舳先が子どもへ向けられた、その時だった。小さいがはっきりと、何かが水に飛び込む音が響いたのは。


 音がしたのは、水遊びをしていた子どものいる川岸とは反対側からだった。糸に引かれるように、青年と彼が乗る船頭の首が回された先には、もう少しで岸に着こうとしていた舟と、そこにたたずむ一頭の馬、そして川を突き進む白い波に向かって叫ぶ船頭がいた。


「あれ……もしかして、先に乗ってたっていう人じゃ」

「どうもそうらしい。勇気は買うが、泳いで助けるにゃ危険すぎる。お客さん、ちょいと寄り道してもいいですか」

「もちろんですよ! ぼくも手伝います」

「すいませんねえ。おぉい、デーズ! おまえも馬降ろして来い!」


 馬だけぽつんと舟に残されていた船頭は、この呼びかけに大きく頷くと、対岸に待機していた別の船頭に馬を任せ、舟の向きを変え救出に向かった。そのあいだに、勇敢な旅人は溺れていた子どもにたどり着き、その腕に抱えようとしていた。しかし子どもは相当怖かったと見え、差し出された両腕に見向きもせず、覆いかぶさるようにその頭にしがみついてしまった。


「まずい! 今度はあの兄ちゃんが溺れちまうぞ!」


 救出者が第二の被害者になってしまった現場まで、まだかなりの距離があった。船頭だけが乗った舟も向かっては来ているが、子どもにおぶさられて足の着かぬ川で、どれだけ持ちこたえられるのか。焦ったように水をかく櫂が、身を乗り出した青年の頬に飛沫を散らした。


「……すいません、先に行ってます!」

「え? お、おい兄ちゃん!」


 かなぐり捨てた外套に姿をくらましたように見えたのは、ほんの一時だった。次の瞬間には、青年の身は大きな水柱を立てて、水中に消えていた。

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