華やかなる学院にようこそ
三船十矢
第1話 お前には奉公に出てもらう
「
お父さんが珍しく呼んでくれたなあ、と思って父の書斎に向かうと、いきなりそんなことを言われた。
奉公。
いくらなんでも時代錯誤な言葉じゃないですか? 今って令和ですよ?
そんな言葉が浮かぶのだけど、それほど不思議でもない。
私たちは旧華族の家柄で、陸郷家はその中でも特別な名家だから。
……え、華族って何かって?
大昔、日本にもヨーロッパの貴族みたいな制度があって、その家のことだよ。昔は偉かったってことかな。歴史とか伝統を大事にする雰囲気があるから、奉公なんて古ぼけた言葉が生き残っていても変じゃない。
私の返事すら待たず、お父さんは言葉を続けた。
「すでに手配はすんでいる。明日の朝、先方から迎えがくる。準備を整えておけ」
一瞬の間を置いてから、お父さんが続けた。
「もう、うちの敷居をまたぐことはない――そういうつもりでいろ」
話は終わったとばかりにお父さんが口をつぐむ。
私は一礼すると、自分の部屋に戻っていった。
世間では春休みである。同年代の少年少女たちは小学校を卒業して、もうすぐ始まる中学校生活への思いを馳せているというのに。
私は家を追い出されて奉公生活である。
うん、わくわくしちゃう!
何かが変わるのってそれだけで楽しい。別にこの家の生活に不満があるわけではないけれど、特等の名家で働くとなると胸が高鳴っちゃう。私の春は何も変わらんのかなー、なんて思っていたら、そんなことはなかった!
私の部屋は屋根裏部屋にある。
オンボロだけど大きなお屋敷だけあって、屋根裏の部屋でも寝て勉強するくらいなら充分だ。ハシゴを登らないといけないので、好きなことをしていてもバレないのもいい。
さて、持っていくものを選ばないとなー。
とはいえ、そんなにない!
うちは貧乏で、特にお小遣いはもらえていないので仕方がない。
私が奉公に出るのも、その辺の事情だろう。
部屋の半分を占めるベッドをぽんぽんと叩いた。シングルサイズだけど、木製のフレームのおかげで重厚感もあり、ガタつきもなくて寝付きやすかった。お気に入りだけど、ここでお別れ。長くお世話になった。きっと私がいなくなると撤去されると思うと、ちょっとかわいそうだね。
私は膝をおって、ベッド下の隙間に目を向けた。薄暗い壁際で寝そべる、でっぷりと太った猫の丸々とした背中が見える。
「お〜い、ヌシサマ?」
そう呼びかけるけど、猫――ヌシサマは動かない。
私を挑発するように、二つに割れた尻尾をぶらんぶらんと振るっている。
むむむ、無視か!
これはこれはいつも通りのつれないご様子――であるのなら、こちらも容赦しないぞ!
私は木製ベッドの脇に片膝をつく。そのままフレームの端っこを両手で下からつかみ、ひょいと持ち上げた。
しゃがんだ私の頭上くらいの高さにベッドがきて、ヌシサマの巨体がよく見えた。
「にゃにゃにゃにゃ〜?」
今度は猫語で話しかけてみよう。ちなみに、意味は『無視しないでよ〜』だ。
ヌシサマがメンドくさそうな仕草で体をこちらに向ける。
「にゃ〜」
めんどくさそうな声でヌシサマが首だけ振り返り、返事をする。意味は『なんだ?』とぶっきらぼうな感じだ。もうちょっと愛想よくしてよ!
そのまま、うんざりした様子でヌシサマが続ける。
『吾輩が言うのもなんだが、化け物みたいなやつだな。ベッドを軽く持ち上げるなんて』
『ええ……ひどくない? そんなの普通だよ?』
『吾輩はそう思わんなあ……』
私への興味を失ったのか、ヌシサマが視線を外す。こらこら、話は終わってないって!
『あのさ、私、この家を出ていくことになっちゃったの』
『そうか、良かったじゃないか』
『もう、人ごとだと思って! 陸郷の家でメイドをするんだって』
『はあ、陸郷か……それは悪くない話だな。まあ、ここにいるくらいなら、どこでもマシだろうが』
『ヌシサマ、お別れだね』
『吾輩も連れていけ。お前がいなくなると退屈で仕方がない』
『えええええ……いいのかなあ? ペット同伴で』
『大丈夫、大丈夫』
適当に言っちゃって!
ずっと一緒に暮らしていたから、ここでサヨナラもかわいそうだ。
『部屋の片付けとかするから、ちょっとうるさいかも』
『構うな。片付けるほどの荷物があるとは思えんがなあ……』
眠そうにあくびをすると、ヌシサマは今度こそ私に興味を失い、元の姿勢に戻った。
実際、片付けるほどの荷物はなかった。お気に入りのペンとかノートとか、本とか服とかを鞄に詰めたら、それでおしまい。もともとそんなに持っていないからね……。
よし、終わり。
いつでも出発オーケイ!
あ、そうだ、もう一個だけ残っていた。私は立ち上がると、天井についている屋根を押し開けた。ここは屋根裏なので、この窓を開くと屋根直通になる。
『おい、吾輩も連れていけ』
のっそりとヌシサマがベッドから這い出てくる。
『もう、私をタクシー代わりにしないでよねー』
私はヌシサマをひょいと抱え上げると、そのまま窓を通り抜けて屋根に出た。
青空が広がり、春の柔らかい日差しと暖かな風が気持ちいい。ここは私のお気に入りスポットなのだ。
持ってきていた靴を履き、瓦を踏みしめながらひょいひょい歩いていく。
屋根の縁までやってきた。
下を眺めると、うちの庭が広がっていた。今でこそ貧乏だけど、ご先祖様が建ててくれたおかげでそれなりに広さがある。
ここは屋根で、2階建――12メートルくらいかな?
下に人はいない……よし、いいかな。
『いくよ? 舌を噛まないでね』
そう言ってから、続けた。
『よいしょ!』
ぴょーん。
私は飛んだ。どうしてかって? だって、庭に出るのなら玄関まで降りるより、こっちのほうが速いでしょ?
すとん。
綺麗に着地。
『はい、着いたよ〜』
私はヌシサマを地面に置いた。
『礼を言うぞ。しかし、あいかわらず、無茶苦茶だな』
『こっちのほうが近いんだから、別に変じゃないでしょ?』
無茶苦茶だなんて……近道を知っているんだから、これがいいに決まってるじゃない!
……まあ、ちょっと旧華族にしては無作法なのはわかっているけどさ。最初の頃、注意が足りなくてお母さんがいるのに気づかずに飛んだことがある。
――あ、あなた何やってるの!? 屋根から落ちたの!? 気をつけなさい! あなたを病院に連れていく余裕なんてないのよ!?
ものすごく怒られた。それからは見つからないように誰もいないことを確認してから飛んでいる。
はしたないのはわかっています。はい。でも、これが私なんです。
私はヌシサマを連れて庭を歩いていく。
この庭を歩くのもこれが最後なんだねー。よく夜な夜な抜け出して歩いていたものだ。この先にある家の裏手が私のお気に入りスポットだ。
そこには数本の木が植えられていて、その中で最も太い一本には柔道着が帯でくくり付けられている。
ボロボロになった柔道着を指で触った。
私の家――
そんな由来のせいで『柔道家として強くなければ小田原の人間にあらず』的なちょっと今の時代的にアレな考えが子育てに混入している。もう混ぜなくて良くない、それ?
ふいに記憶が蘇る。
家の道場で、柔道着を着た私は柔道着を着た妹と向かい合っていた。
顔も一緒の双子だから――
それはまるで鏡写しのようで。
勝負が決まったときの情景は今でも覚えている。不意に妹の姿が消えた。あっと思った瞬間にはお腹から突き上げる力に抗えなかった。
景色が回る。
そう思った直後、私の背中はドーンと大きな音を立てて柔道場に落ちた。
「一本!」
父親の声が遠くから聞こえる。
思えば、あの日が分岐点だったのだろう。今までずっと一緒、全て平等だった私と妹の関係が大きく変わっていったのは――
あれからずっと練習に明け暮れた。もう道場を使えなくなった私はここで黙々と。何度も打ち込みをしたせいで樹木の表皮はすり減って、周りの草原はすり足のせいで禿げてしまっている。
うーん……私、頑張ったなあ……!
そんな私を、いつも眠たげな目で横から眺めていたヌシサマが口を開く。
『柔道はどうするのだ?』
『うん? もちろん、終わりだよ?』
私はヌシサマのほうに体を向けて、優雅な仕草でスカートの端をつまみ、片膝を折って頭を下げた。
ちなみに、カーテシーというポーズらしいよ!
『これからは貞淑なメイドだからね』
『ふん、イメージに合わんな』
この猫ぉ……毒舌を吐いてくれるなぁ……。
『もう一度、戦ったらどうだ? 今なら妹にも勝てるんじゃないか? 吾輩の見る限り、お前の強さは人間を超えているが?』
表現! 表現が悪いよ、猫さん! 女の子なんだから、言い方を頑張ってほしいよね。
『無理だよ。あの子は天才だから。私じゃ勝てないかな……』
それにもう、終わったことだから。
『いいのいいの。今日で区切っちゃうから』
私は木にくくりつけた柔道着の襟を掴む。そして、背負い投げの要領で体を動かす。私の引き手に木がきしみ、
ごおん!
という音とともに、木が大きく揺れて、ザワザワと枝が揺れて、葉が落ちる。
……ふぅ。久しぶりの全力だったな。
私は樹木を撫でた。
「ごめんね、樹木さん。今まで痛いことしちゃって。もう今日からは大丈夫だから」
私はボロボロの柔道着をはぐ。
今の私は今日で終わり。
明日から、別の誰かに変わるのだ。
「よーし、頑張るぞー!」
翌日、少数の荷物とヌシサマを抱えた私は迎えの車に乗って、華族の名家へと向かったのだった。
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