第3話 偽典 正也の妹③
もう二度と鳴らないチャイムを、私は待っていた。何故待っているのだろう。あんなにも嫌っていたのに。
「ユキさん……」
チャイムが鳴らなくなって、三日が経った。
この三日間、私は玄関のドアと、携帯電話の画面ばかり睨みつけている。
何度も迷ったけど、とてもじゃないがメールは送れない。もちろん、電話も。
私は来てくれる事を願ってる。
ありえない事なのに願ってる。
お風呂に入った。一ヶ月ぶりの事だった。何度も何度も体を洗い、何度も何度も髪の毛を洗った。
この程度の事で、私に染み付いている垢が落とせる訳が無いが、それでも洗わずには居られなかった。
「汚い……汚い……汚い……」
男に対して向けられていた嫌悪感が、とうとう自分に向いた。
あれだけ自分を正当化していたというのに、どうやら私は、私が嫌いらしい。
「ああぁっ……! なんでよっ! なんでよぉ!」
左腕の汚れが、落ちない。
それもその筈、左腕は醜いが、これは汚れて醜い訳じゃなく、傷だらけで醜いんだから。
そんな事は解っている。解っているけど、この醜い傷跡を、どうしても消してしまいたかった。恥ずかしいから。だから擦る。何度も何度も、擦る。かさぶたがはがれ、血が流れる。傷口がピリピリとしみる。
「うぐぅっ……! ううぅぅっ!」
私はスポンジを放り投げ、目の前にある鏡に頭突きをした。
すると突然、涙が溢れる。
とめどなく、溢れる。
「兄貴ぃっ! ユキさんっ! 啓二ぃっ! 助けて! 助けてぇっ!」
羨ましかった。本当は、この三人の関係が、とても羨ましかった。血のつながりの無い男女三人が、固い絆で結ばれ、困難に直面しても、お互いがお互いを支えあい、笑顔を作り合う。
流行らないし、格好悪い。けど、私も、その仲間に入れて欲しかった。
もう遅いけど、叫んだ。
「助けてよぉっ……! 啓二は英雄なんでしょ? 助けて!」
返事は、無い。貰いにいかなきゃ……。
扉の前で、佇む。ドアノブに手が伸びない。
このドアを開けると、もう二度と戻って来れなくなるような、そんな気がしている。
闇とサヨナラしなければいけないような、寂しいような、裏切ってしまうような、そんな感じ。
「……闇は、居心地良いよね」
一ヶ月、一人でも寂しくなかったのは、闇があったから。
私の中にある闇が、私の心を包み込んでくれていた。
闇は「何も要らない」と思わせてくれる。
闇は「ずっと浸っていい」と思わせてくれる。
闇は「私は悪くない」と思わせてくれる。
闇は優しいモノだと思わせてくれる。
だけど、実際はそうじゃない。
「何も要らない訳が無い。ずっと浸ってていい訳が無い。私が悪くない訳が無い。闇が優しいモノな訳が無い」
もう一ヶ月じゃないか。沢山、迷惑かけた。沢山、闇をばらまいた。沢山、悲しみを生んだ。いい加減、いいだろう。扉を開けよう。
手を伸ばし、鍵を開けた。ガチャリという、重たい音を立ててドアノブが回る。
昼間の外界を歩くのは、実に久しぶりの事だった。
雪が積もっており、それが太陽の光を反射して、とてもまぶしい。
蛍光灯の灯りとはやはり違う。本物の光は、まぶしいもの。
「目が痛いな……」
私はつい、光から目をそむける。
直視なんて出来るものじゃない。
アパートから歩いて五分の場所に、ユキさんのお屋敷がある。
大きな大きな、お屋敷。
私はお屋敷の門の前で、しゃがみこむ。
そして携帯電話の画面をにらみつけた。
もしかしたら、窓から顔を出したユキさんが私に気付いて、メールなり電話なりをしてくれるかも知れない。と、期待していた。
しかし、画面はいつもと同じ。兄貴の死に顔の待ち受け画面。
「どうしようかな」
電話をかけるべきだろうか。メールを送るべきだろうか。チャイムを押すべきだろうか。
そもそも、コンタクトを取っていいのだろうか。
私は絶交されたって文句が言えない事を言ったのだ。
それに、それ以前だって。毎日あの部屋に通ってくれていたのに、一度だって玄関のドアを開けはしなかった。
しかも、私は今、謝るためにここへ足を運んだ訳じゃない。更に甘えるために、ここに居る。都合が良すぎる。勝手すぎる。
それでも、私は携帯電話のボタンを押す。
「門の前に、居ます。出てきて、ください……」
書いた文章を口に出し、「ふぅ」とため息をついた後、送信ボタンを押した。
「都合が良くても、勝手すぎても、今更……」
今更、失うものは無い。
「ハルちゃん……」
ユキさんは小走りに私へと駆け寄ってきて、私へと話しかけた。急いで出てきたからか、肩で息をしていた。
学校から帰って来たばかりだったのだろう、ユキさんは制服を着用している。兄貴も啓二も居ない学校へと通っている事に、私は内心、驚いていた。
「……お久しぶり、です」
私はそう言って立ち上がる。
「……ハルちゃん、外に、出たんだね」
ユキさんは少し笑顔を見せてくれた。
だけどその笑顔が、どことなくぎこちない。
私もきっと、ぎこちない笑顔を作っているのだろうと、思う。
以前、どう接していたか、解らなくなっていた。
少し前、一ヶ月前、兄貴が死ぬ前までは、姉妹のように仲が良かった筈なのに。
今では、門の柵越しに会話をしている。
ドアがあった三日前と、距離感が変わらない。
「ハルちゃん、あのね、私、馬鹿だけど、色々考えてるよ」
ユキさんが真面目な表情を作り、私の目をチラッと見た。
私は思わず目をそむけ、うつむき地面を見る。
「……はい」
「どうしてハルちゃんが、ふさぎ込んじゃったのか、とか、あんな事を言ったのか、とか、色々考えてるんだよ」
思い出してきた。
少しだけ前置きが長いと感じるが、ユキさんはいつもこんな感じ。
ユキさんが話をしている間、私はずっとニコニコして「はい」と答えていた記憶がある。
だから私は「はい」と、答えた。
「えっと……ふさぎ込んじゃったのは……私も、ほら、イジメられてたから、解るんだ。辛い事があると、一人になりたいよね。だけどそんな時ね、タダ君が言ってくれたんだ。一人になった所で、考えるのは暗い事だって。だから私ね、ハルちゃんを一人にさせないように、毎日通ってたの」
支離滅裂とは言わないが、話に一貫性が無い。
けれど、ユキさんの言いたい事は、良く解る。
「はい」
「つまりどういう事かって言うと、私はハルちゃんを救いたかったんだよ」
「はい」
知ってた。解ってた。
けれど、イライラしてた。無視したかった。
関わりたくなかった。ユキさんを悪者にしたかった。
悪くないのに。
そうする事で、自分を保っていた。
私の中の「世界で一番不幸な少女」で、居たかった。
「はい……って……解らないかな……私ね、タダ君に」
「解ってます」
「お願いされたからじゃなくてね」
「解ってますってば!」
私は大声を上げた。
何度も繰り返し同じ話をするユキさんに、多少イラついていた。
自分の話ばかりしていないで、私の話も聞いて欲しい。
「ハルちゃん」
「……解っていますから。それより、私」
「ハルちゃんは、もうハルちゃんじゃ、無いんだね」
突然、ユキさんの声が小さくなった。
そして、なんだかとても冷たく感じた。
「え」
私は思わず、ユキさんの顔を見る。
そこには、恐ろしく冷たい表情をした、ユキさんらしき人間が立っていた。
いや、これはユキさんなんだろう。ユキさん本人なんだろう。
だけど、とてもじゃないけれど、私が良く知っている、ほんわかしたユキさんだとは思えなかった。
「私、諦めなかったタダ君にも、ケイ君にも、感謝してるんだよ。二年間、助けてもらってたから。だから恩返しって訳じゃないけど、ハルちゃんを助けようって思ったの」
「え」
だったら、ユキさんも二年くらい、私を見捨てないで欲しい。
この一ヶ月のようにして欲しいとは、言わない。今日からまた、普通に接してくれるだけでいい。
そして啓二とも、仲良くさせて欲しい。兄貴の変わりに私を入れてくれるだけで、それだけで私は救われる。
「でもね、私、運命の人を亡くしてるんだよね」
ユキさんの言葉に、全身鳥肌が立つ。
寒いと感じる肌と半比例し、汗が吹き出るのを感じた。
そうだ。ユキさんは兄貴が死んで行く様を見ている。目の前で。
兄貴の肉体から魂が引っぺがされる現場を、この人は目の前で見ていた。
ユキさんは苦痛にゆがむ兄貴の顔を、生で見ていたんだ。
「私ね、もう何がなんだか、解らないんだよ。精一杯頑張って色々考えたけど、ゴチャゴチャしてて、もう解らないんだよ」
「解らない……って」
「でも、ひとつ解ってる事はね、三日前の事が、どうしても許せないって事」
心臓が打ち抜かれたような、脳天から電撃が落ちたような。
とにかく、死んでしまうような感覚が私を襲った。
「ハルは良く知りもしないくせに、私とタダ君、そして何よりケイ君を、侮辱した」
ユキさんの目が、表情を持たない。
冷たく、私を見抜く。
まるで私を見透かすかのように。私の後ろを見るかのように。
「ケイ君はね、英雄。神様みたいな人。ケイ君は、普通じゃないんだよ。ケイ君はね」
「あ……ユキさ」
私がユキさんの声を遮ろうと声を発するが、ユキさんは突然、門につかみかかり、思い切り揺らす。
ガシャガシャガシャという大きな音が鼓膜に届き、私は恐ろしくなってあとずさった。
「ケイ君はね! 自分よりもタダ君と私の事が大事だったの! なんでそれが抱かれるとか、そういう話になるの!? ケイ君はそういう人じゃない! お礼は私とタダ君の笑顔で良いって言ってくれた! 笑顔で言ってくれた!」
ユキさんはいつの間にか涙を流していた。
私を睨むために、渾身の力を瞳に込めている。
鬼の形相とでも言えばいいのだろうか、私はユキさんの行動と表情に恐怖した。
手足がブルブルと震えている。
「ご……ごめんなさい」
「ケイ君を侮辱するなぁっ! ケイ君は私なんかと釣り合わない! ケイ君は神様だから、女神じゃないと釣り合わないのっ! だからハルが啓二って呼び捨てにするのなんか、絶対にあっちゃいけない事なのっ!」
ユキさんはとうとう、門に頭を打ち付けた。
何度も、何度も、打ち付けた。
頬が切れ、血が流れている。
それでも止まる事無く、一心不乱に、頭を打ち付けた。
「あぁ、そうか。そうだよ。狂うしか、無いもんね」
私は狂っているユキさんを見て、自然と言葉が漏れた。
私も、同じだったじゃないか。狂うしか、無かった。
ユキさんは、十年間ずっと一緒に過ごしていた運命の人を、亡くしてる。
しかも、ただの運命の人じゃない。自分を救ってくれた、かけがえの無い人。
私より、辛いはず。
それなのに、私を心配し、毎日私の所に来ていた。
きっとそれは、ユキさんが自分らしさを繋ぎ止めておくための、行動だったんだ。
だから、何度も、何度も、自分をなぞり、混乱し続けている頭を精一杯整理し、懺悔をし続けていた。
それなのに、私が止めを刺した。
「ああぁぁああっ! ハルぅっ! 許さないっ! 許さないぃっ!」
「ユキさん、あのね」
「ハルぅっ! ハルぁああっ!」
私は頬を伝う涙をふき取った。
「啓二さんに、会いにいこぉ。一緒にいこぉ。私たち、もう、すがるしか無いよぉ」
私は、汚い左腕を、ユキさんに向けて伸ばした。
手を、取りたかった。
だけど、ユキさんは噛み付いた。
まるで獣のような顔で、私の指を噛む。
「うっ……ぐぁあ……ユキさん痛いよ……」
痛い。
痛い。
「痛い……痛いっ……ユキさんやめて……」
私はあまりの痛さに、膝をつく。
ユキさんはそれでも、私の指に噛み付き続けた。
ボロボロ、ボロボロ、私の瞳から涙がこぼれる。
ユキさんの瞳からも、沢山、沢山、流れている。
なんだろう……なんなんだろう、この状況。
「ユキさん……ユキさん……啓二さんに……会おうよ」
私の指から、血が流れ、ユキさんの口を、赤く染める。
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