第2話 偽典 正也の妹②

 思い返してみると、兄貴は普通の男とは違っていたと思う。

 だらしなくて、無愛想で、いつだって不機嫌そうな顔をして、友達も数少なく、とてもじゃないが一人で生きていけるとは思えない男だったけど、数少ない友人や親しい人に対しては、誰よりも強く想いを寄せていた。

 兄貴と出会ってから数年間、会話どころか目を合わせる事すら避けていた私を、兄貴はすんなりと受け入れてくれた。

 なんでも無い事だと思っていたが、今ではとてもとても、優しい出来事のように思える。

 そう、優しい出来事だったんだ。優しさの正体は、人と人の間にあるもの。一人じゃ作り出せないもの。時には空間だったり、空気だったり、気持ちだったり、心だったり。

 それが「優しい」という事。

 だけど気付いた時には、もう遅い。私には、優しさを作り出せる相手が居ない。

 人間として特別だと思っていた兄貴は、あっさりとこの世を去ってしまった。


 今日も私は同じ服を着ている。

 生前、兄貴が部屋着としてよく着用していた、黒い無地のパーカーだ。これを着ていると、少しだけ心が落ち着く。

 昼の十一時に目が覚めて、生前兄貴が使用していた布団の上から天井を見上げた。

 兄貴が毎日見ていた景色を、今は私が見ている。

 誰に言うでもなく、私は独り言で「おはよう」と呟いた。

 しばらくそのままボーッとしてみる。特にこれと言ってやる事は無い。

 こうして寝転がりながら、ただただ、時間が過ぎるのを感じている。そして、焦る。胸の中で、無数の虫がうごめいているかのような感覚。不快。

「あぁっ……! もう!」

 私は思い切り目をつぶり、頭を三度ほど振って胸の焦りを鎮めようとする。

しかしこんな行動じゃ胸の虫が治まる訳が無い。何度も何度も繰り返しているから、その事は知っていた。

 知ってはいたのだが、毎朝繰り返してしまう。これはもう、どうしようもない。

 だから私は、どうしようもなく、布団の上でもがいていた。

「ああっ! ももぉっ! もおおおっ!」

 焦る自分に腹を立て、手足をばたつかせ、まるで死に掛けの虫のように、うごめいた。


 落ち着かない心にイライラしながら、私は仕方なく布団から身を起こす。それは頭が覚醒してから一時間後の事だった。

 私はどうしようもなく、キッチンに立つ。そして仕方なく冷蔵庫を開け、ヤキソバを取り出した。

 フライパンをコンロの上に置き、火にかける。そして適当に油を布き、ヤキソバの麺を放り込んだ。

 兄貴の好物だった、ヤキソバ。だけど今は誰に食べさせる訳でもないので、適当でいい。肉もキャベツもタマネギもニンジンも紅ショウガも必要ない。私しか食べる人間が居ないんだから。

「……もぉ」

 私はたいして炒めていないヤキソバに見切りをつけ、火をとめて皿に盛り付ける。

 盛り付けるといっても、ただ乗せただけ。そこに大量のマヨネーズとケチャップとソースをかける。本当に、大量。調味料の水溜りのような状況になるまでかけた。

 それをテレビの前に敷いてある万年床の布団まで持って行く。そしてテレビをつけ、布団の上に座り、ヤキソバを口まで運ぶ作業をする。

 相変わらず、まずい。半分ナマの状態。しかも調味料が大量にかけられている。美味しい訳がない。

「おえっ……うえぇ……」

 私は何度もえずきながらも、それを胃へと流し込む。胃を馬鹿にさせるためだ。


 三十分かけて、一人前のヤキソバを平らげた。調味料の全てを舐め取ったから、皿はピカピカになっている。

 私は布団の横に皿を置き、再びキッチンへと向かう。そして蛇口をひねり、流れる水を直接飲んだ。

 大量に、大量に、水を飲む。冷たい水が喉を伝い、胃へと流れ込む。そして胃の許容量を超え、膨らむ。

 それでも私は飲む事をやめない。苦しくても飲み続ける。

 そして本当に本当に苦しくなったその時、ようやく私は水を止め、急いでトイレへと向かった。

 もう、寸前だった。


「オエェェッ……げほぉっ……げほっ……」

 私の口から流れ出る、大量の吐しゃ物。

 いや、口からだけでは無い。鼻の穴や、目からだって液体は漏れてくる。

「ゲボォッ……ぐほぉっ……はあぁ……はぁぅ……」

 ボチョボチョボチョという音を立てて、最後の嘔吐が終わった。胃の中が空っぽになった感覚があるが、空腹は感じない。大量の調味料により、私の胃が馬鹿になっている。

 私は吐いた後の口をパーカーの袖でぬぐう。そして便器に溜まっている吐しゃ物を見下ろし、しばらく眺めた後、流す事はせずにその場をフラフラと立ち去った。

「はぁ……はぁ……」

 息が乱れている。どうやら嘔吐は体力を消耗するようだ。だけど、同時にとても心地の良い脱力感を味わえる。

 最近気付いた。吐いている時は凄く苦しいが、今ではこれが快感に変わりつつある。

 脱力感だけじゃなく、この苦しい現象自体、私の楽しみのひとつになっていた。


 私は布団へと戻り、倒れ込むように横になる。そして天井を見上げ、また無為な時間に身をゆだねた。

 ご飯を作り、食べ、そして吐いたという行動をとったおかげで、焦りは多少和らいでいる。こんなこと、してもしなくても同じだと言うのに。

 本来この焦りは、私をもっと建設的な事をさせるために存在している筈。学校へ行くなり、部屋を片付けるなり、洗濯するなり、風呂に入るなり。やる事は沢山ある。

 馬鹿な本能だ。誤魔化されている。

 こんな事で誤魔化されるくらいなら、こんな感覚、存在しなければいいのに。面倒くさい。

「……部屋、汚いな」

 とは言っても、部屋はものすごく汚い。毎日ここで寝起きしているから気付かないが、おそらくニオイだって相当なもののはずだ。

 ニオイと言えば、服と体臭。兄貴が死んでから一ヶ月、私は一度だって洗濯をしていない。そして一度だって、このパーカーを脱いでいない。つまり一ヶ月もの間、同じものを着ており、一ヶ月もの間、体を洗っていない。

 夜中にヤキソバと調味料を買いに行く事が一週間に一度あるが、三日前にスーパーの店員さんが一瞬、汚いものを見る目を私に向けていた事に、私は気付いていた。

 その時は「そろそろお風呂に入らなくちゃ」と思ったものだが、三日経った今でも私は何もしていない。

 この気力の無さは、酷い。外見も内面も、もはや人間じゃない。


 ボーッとテレビを眺めていると、突然この部屋にチャイムの音が響く。

 毎日無視されるか追い返されていると言うのに、毎日この部屋へと足を運ぶなんて、彼女も相当な変わり者だ。

「ハルちゃん、居る?」

 私は部屋の外から聞こえてくる声を無視した。返事をしたくないし、関わりたくもない。

「居るんでしょ? ね、入れてくれないかな」

 この声の主は、兄貴の恋人だった女。

 兄貴の愛を一身に受け、兄貴に救われ、兄貴を狂わせ、兄貴を間接的に殺したと言っても過言じゃない、あの女。

 私と兄貴が出会う前に既に出会っており、その時からお互い支えあうように生きてきて、お互いが欠けた心の片割れ同士だと思っており、お互いが居なくちゃ生きてさえ行けないほどの仲だった。

 何故まだ生きているんだろうな、信じられない。

「ハルちゃん、生きてるよね? 死んでないよね……?」

 ウルサイ……ウルサイ……。

 早くどこかに行って欲しい。もう私に関わらないで欲しい。ここまで無視されているんだから、私は貴方に会いたくないって事に、いい加減気付いて欲しい。

「ご飯、食べてるかな? 私お料理下手だけど、作るよ。お部屋とかも、私が掃除するし……」

 返事の無い会話は、ただの独り言と変わらない事に気付いたらしく、どんどんと声が小さくなっていった。

 このまま諦めて帰ってくれると非常に助かるのだが、あの女はここを教会と勘違いしているらしく、毎日毎日、この部屋の玄関前で懺悔を始める。

「私さ、ハルちゃんに嫌われてるの、知ってるよ。タダ……お兄さんは、だって、私のせいで」

「うるさぁあああい!」

 心の中で何かが爆発するのを感じ、私は怒鳴った。どうやら今日の私は、イライラしているらしい。

「お兄さんって呼ばないでよ! 何他人事みたいに言ってんの! タダ君じゃなかったの! っていうか帰ってよ! もう二度と来ないで!」

 心の中に「早く死んでよ」という言葉が生まれたが、私の最後の理性がその言葉を口に出す事を止めた。

「ご……ごめん……ハルちゃ……ハルちゃん……」

 あの女の声が震えた。涙声になっている。

「ハルちゃんっ……私ぃ……私ね……タダ君に頼まれたの……ねぇ……だって私……タダ君にハルちゃんの事、頼まれたから……」

「はぁ? 頼まれたから来てるの? じゃあアンタの意思は? 来たく無いんでしょ! 二度と来なくていいから!!」

 玄関の前から、えずいているような泣き声が聞こえてくる。もはや声になっていない。

 兄貴は何故、泣き虫で弱っちく、一人では何も出来ないこの女に入れ込み、クラスの人間全てを敵に回してまで、イジメから救ったのだろう。そして悪魔との契約では、この女を殺せば自分の命は助かると言うのに、何故自らの命を投げ出してまで救ったのだろう。

 死ぬべきは、この女だった。そして私なら、次は兄貴の運命の人になれた。

 なれたのに。

 もし私が兄貴の運命の人になれていたのなら、契約が満了する前日、喜んで自殺をしていただろう。それなのにコイツは……兄貴を狂わせ、壊し、殺した。

「えぐぅっ……! ごめんっ……ごめんねぇハルちゃん……」

 懺悔の声は、鳴り止まない。懺悔される度に私の胸はズキズキと痛む。

 きっと私の中には「ユキさんを許したい気持ち」と「ユキさんを許したくない気持ち」があって、それらが戦っている。

 今のところ、かろうじて「ユキさんを許したくない気持ち」が連勝しており、なんとか自分を保っていたられた。

 もし「ユキさんを許したい気持ち」が勝ってしまうと、私は私じゃいられなくなる。壊れてしまう。


 私は立ち上がり、テレビの上に置いてあった剃刀を手にとった。

 そしてまず、軽く腕を切る。

 ほんの一瞬、痛みが走ったかのような錯覚に襲われたが、これは錯覚。私の腕はもはや痛みを感じない。

 じわっと、血がにじむ。それを見つめ、物足りなさが私の中に涌いた。

 もっと切らないといけない気になったので、私は剃刀を握る手にチカラを込め、腕に切りかかる。

 腕は大きくパッカリと裂け、白い肉が見えた。まずは傷口の左右から、丸い雫のような血がゆっくりと出てくる。

「はは……」

 良く切れた。なんだか満足だ。

 しかしここでボケッとしている訳にはいかない。私は急いで携帯電話を取り出し、カメラ機能を呼び出す。

 傷口にレンズを向け、ベストショットを逃さないよう、決定ボタンを押した。

「ハルちゃん聞いて……私ね……ひっくっ……私は自分の意思で……来てるから……」

 あの女の声が遠くに聞こえる。

 腕を切る事によって、あまり気にならなくなった。

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