空へ指を
衣純糖度
空へ指を
幽霊になって、俺は一年と一秒を間違えたりしながら、ずっと橋の上にいた。
死んだと思った次の瞬間にはもう、橋の上にいた。橋は長くない。細い川を繋ぐ小さい橋だから、三十歩も歩けば端から端を移動できる。橋の中央は車道になっていて幅は車が二台すれ違えるぐらいで、その両脇に歩道があった。栄えている地域だから、毎日多くの人々が自分の目的地へ行くために橋の上を進んでいた。俺から見て右手の方に駅があるから、朝になると左手の住宅地から多くの人々が歩いていく。俺はそれを橋のちょうど真ん中の手すりに座って眺めていた。
毎朝眺めていれば自然と歩く人々を覚えてしまう。早朝に走っていく目に痛い色のパーカーを着たおじさんや、犬の連れて歩くマダム、すさまじい勢いで自転車を漕ぐ学生やとびきり美しい人。目立つ人々は自然と覚えてしまう。だから、その人々が通れば、なんとなく一日のうちのどの時間か把握できるようになった。
けど、幽霊になると時間の感覚を失ってしまうようで、一秒と一分の違いがわからくなってくる。気を抜いてしまうと、一ヶ月が一秒のようにすぎてしまうし、じっくりと見てしまうと、一秒を一ヶ月かけて過ごしてしまうこともある。
気を抜いて橋から人を眺めていると時間はいつの間にか過ぎていて、パーカーのおじさんもマダムも学生も美しい人も、橋を通らなくなってしまう。引っ越したのか、道を変えたのか、死んでしまったのか。理由はわからない。けど、いなくなってしまう。昨日まで歩いていた人が突然橋を通らなくなったりして、俺は寂しい気持ちになったりする。
けど、それに代わるように新しく橋を渡る人が現れる。人間二人分ぐらい太っている男性や、全身が真っ赤な洋服を身に着けているおばさん、犬を連れて歩く小学生や、恐ろしく歩くのが遅い若い女性などやはり目立つ人物はいつの間にか覚えてしまっていた。そして、またその人々がいなくなり、新しく橋を渡る人が現れる。
俺はそんな事を繰り返しながら、なんで自分がここにいるのか分からないまま、百年ぐらいを過ごしていた。
事故は時々起こっていた。けどそれは、言っちゃ悪いが小さい事故だ。自転車と歩行者がぶつかったり、自転車と自動車が軽くぶつかったりして、どちらかが軽い怪我をすることはよくあった。一度だけ、自動車同士がぶつかっていた時は、俺は驚きのあまり、十秒を一年かけて見てしまった。
けど、誰も亡くなるところは見たことがなかった。
だから、女の子が自動車に跳ねられた時、俺は初めて人が亡くなるところを見てしまった。
四月だった。川に沿った道には桜並木があり、橋から見える桜の木が満開で俺はその花びらが落ちる瞬間を堪能したくって、一秒に一年くらいの時間をかけてみていた。
桜の木に気を取られていれば、いつの間にか目の前で女の子が宙に舞っていた。
俺から見て橋の左手の方には横断歩道があって、そこには信号機がついてなかった。たぶん、そこを渡っている女の子をスピードを出していた水色の車が跳ねてしまった、と女の子が宙に舞っている場面をじっと見つめて考察した。女の子は奥から俺のいる手前の方に横断歩道を進んでいたみたいで、顔がこちらを向いていた。女の子は右に車の衝撃を受けて橋の中央付近まで飛ばされてしまっていた。体をくの字に反らして、目を見開いて宙から地面に落ちてく。
俺は一秒に一年かけて、その場面を見つめていた。
その少女は始めて見る女の子だった。歳は制服をきているから中学生か高校生ぐらい。顔も地味であまり特徴がない。たぶん橋を通っていても、群衆に紛れて見逃してしまうようなタイプ。
女の子が地面に落ちて、大量の血が流れだせば場面は通常の時間の流れに戻った。周りにいる人々が女の子にかけより、車の運転手は青白い顔で車から降りてくる。女の子は救急車に乗せられ運ばれていく。
警察が来て、騒がしくなれば俺は無意識に一日を一秒にしてしまって、時間が一週間ほど過ぎていた。
女の子はどうなったのかと考える間もなく、彼女は俺の目の前にいた。厳密に言えば、車道を挟んだ向こう側の歩道に女の子は俺に顔を向けて立っていた。道を歩く人が彼女を通り抜けて進んでいく場面を見れば、俺と同じく幽霊になってしまったことがわかった。
女の子は俺に気付かないで、戸惑った表情をして怯え、足を踏み出そうしたり、声をだして橋を歩む人に話かけようとしたけど、全て失敗した。思い付いた事を全て終えた彼女は、自分と目が合う向かいの橋の手すりに座っている男にようやく気付いたようで、手を伸ばして大きく振った。
それに俺は手を振り返す。自分のことを見える人物に安心を覚えたようで女の子は笑みを浮かべていた。
次に女の子は俺とコミュニケーションをとろうとして、大きな声で何かを叫んだ。けど、俺は知っている。俺たちの声が響くことはない。何度か叫んだ後、少女はそれに気づいたらしく、声を出すのを諦めた。
すると今度は大きく手を動かしだした。
人差し指をだけ残して右手を握って手を大きく動かす。最初は何をしているのかわからなかったが、必死に指を動かすその姿を見ていれば、文字を書いていることに気が付いた。鏡文字になってしまっているが、じっくりと見ていれば理解することができた。俺も返事のために、大きく腕を動かした。
「あ な た は」
「ゆ う れ い」
「い つ か ら」
「い つ の ま に か」
「わ た し は」
「き み も ゆ う れ い
き み が し ぬ の を み て い た」
そう文字を送ったところで女の子は黙ってしまった。もしかしたら自分が死んだことにきづいていなかったのかもしれない。
悪いことをしてしまったと思いながら俺は彼女を見つめていた。泣いてしまうかと思っていたが、彼女は泣かなかった。再度、手を大きく動かした。
「い つ か ら い る の」
「ず つ と ま え か ら」
「じ よ う ぶ つ し な い の」
「で き な い ん だ」
彼女は俺と手で会話をしながら互いの事を伝えあった。
それから幽霊の隣人は毎朝、俺に話しかけてきた。
「お は よ う」
「お は よ う」
文字の会話を通して分かったことがある。彼女の名前は「トウコ」と、言うらしい。漢字は分からない。そして、駅を使って、隣駅にある中学校に通っていたそうだった。歳は十三歳、中学二年生だった。
彼女は俺にも色々聞いていた。名前と、歳と、なんでここにいたのか。けど、俺は同じ言葉しか返せない。
「お ぼ え て い な い」
そんな事を繰り返していれば、彼女は俺について聞かなくなった。
彼女が死んでから一ヶ月程たった。
トウコの事故の後、橋にはお供え物が溢れていた。トウコがいる側の歩道の柵の始まりの部分に、花やジュース、食べ物が置かれていた。けど、トウコがいる場所は橋の真ん中だったから、微妙に位置がずれていたため、彼女は人が来るたび、首を捻って確認しなければならなかった。
彼女は慕われていたようだ。同い年ぐらいの、同級生らしき女の子が多く、手を合わせに来ていた。彼女の両親が来た時は、泣き崩れている母親を見て、俺も辛い気分になってしまった。彼女もその光景を見ながら俯いて泣いていた。
けど、それもだんだん落ち着いてきて、半年ほどすればお供えも、手を合わせる人もいなくなった。
トウコは少し寂しいと言って、幽霊の生活に順応していった。
その少年が現れたのは、一年後のトウコの命日だった。午前中にトウコの両親や何人かの友人が見えて、花を置いて手を合わせていた。けど、その少年が現れたのは、日が傾むき、暗くなってからだった。供えた花が置いてある場所のちょうど真上には街灯があって、現れた少年が照らされた。トウコは現れた少年に驚いているようで、じっと彼を見つめていた。少年の手には花があり、それを置いて長い間、手を合わせていた。もういいんじゃないかと思ってしまうぐらいには長い時間で、終わった後も離れがたそうにその場を動かなかった。
次の日、明るくなってから俺は彼女に問いかけた。
「き の う の こ は」
「と な り の く ら す の こ」
「か れ し」
「ち が う よ」
「じ や あ だ れ」
「す き だ つ た ひ と」
初恋の相手だと教えてくれて、彼女は涙を拭っていた。
彼女の三年目の命日には、彼女の両親が来て、その母親の腕の中には赤ん坊がいた。トウコは衝撃を受けているようで、赤ん坊を見ようとして、動けないのに足を踏み出そうとしていた。
「み ん な か わ つ て し ま う」
両親が帰った後、トウコは寂しげに、俺にそんなメッセージを伝えた。
そして、またあの少年がきた。夜の街灯の下、献花をして帰っていった。
それから、俺とトウコは長い時間を隣人として過ごした。トウコもだんだん時間の感覚を失ってしまったようで、俺の呼びかけに反応しない場面が増えた。
それでも毎年、命日には彼女の両親とあの少年がやってくる。
少年は青年となり、そして大人になった。トウコの友人はもう来なくなったのに、あの少年だけが、献花を忘れたことはない。もやしのようにひょろひょろだった少年は、たくましい体つきの立派な大人へと成長した。制服をきた少女のままのトウコはその少年を見つめる。けど、少年はそれに気づかない。
少年が中年になった頃、彼女の両親は来なくなった。変わりに赤ん坊だった、トウコの妹が花を献花するようになり、彼女ももう中年の女性になっていて、子供らしき子を連れてきたこともあった。
そして、五〇回目のトウコの命日の日、両親に続いて、少年が来なくなった。
いつも彼は夜に来ていた。なのに、深夜になっても、未明になっても、空に朝焼けが滲んでも、誰も花を置きに来ない。
俺はトウコに手を振る。
「と う こ」
名前を呼びかける。けど、トウコは俺に反応を示さない。恐らく、異常に遅い時間を進んでいるのか、異常に早い時間を進んでいるのか、どちらかの状態になってしまっていた。
トウコは今、何を考えているのだろう。
それから一年後、真夏に妹は喪服で現れた。彼女の手には写真と、小さい骨壺があって、彼女の両親のどちらかが亡くなったことがわかった。
トウコは悲しそうにそれを見つめる。
それから二年後に、妹は同じような出で立ちで現れる。トウコは両親が二人とも亡くなったことを知ってしまった。妹が帰れば、トウコは妹を見つめるために横に向けていた顔を真っすぐに戻した。
トウコを見つめれば、目があった。彼女は笑う。その笑みに含まれているものを俺はすぐに理解した。
「い く ね」
トウコはここにいる意味を失ってしまった。両親も、少年も来ないなら、こんな橋にいる意味なんてない。
「あ り が と う」
お礼の言葉を示したあと、トウコは俺に笑い掛けながら人差し指を空に向けた。俺が一瞬、瞬きをしてしまえば、もうそこに、トウコはいなかった。
一人に戻ってしまえば、マシになっていた時間の感覚が狂い出す。俺は一分と一秒と一日と一年が混ざり合いながら日々を過ごす。
そんな中、花を持った初老の男性が現れた。すぐにあの少年だと気づけなかったのは、面影がないほど痩せてしまっていたからだった。少年は献花をやめたわけじゃなく、来ることが出来なかったのかと一人、考える。トウコに伝えたいと思ったけど、トウコはもういなくなっていた。
少年はトウコがいないのに、献花をする。その行為に意味なんてないと思う。トウコがいないのに、来るなんて意味がない。俺は初めての感覚を手にする。
トウコはよく泣いていた。手で涙を受け止めて、苦しい気持ちを吐き出していた。俺は幽霊でも涙が出るのだと、トウコを眺めていた。けど、実際に涙を流せばこんなにも苦しいのかと、驚いていた。トウコはどれだけ苦しかったのだろうか。突然こんなところで幽霊になって、変わっていく大切な人を眺めなければならないなんて。
それから何年後かに橋の補強工事が始まった。作業をするため、俺の向かいの歩道が閉鎖された。トウコの命日なのに、妹と少年が献花できないと憤怒していれば、もうおばあちゃんになっている妹がやってきて、いつもの場所に献花ができないことに困っている様子だった。
そして、同時にあの少年も現れた。杖をつきながらやってきた少年も、同様にお爺ちゃんで、歩くのもやっとなのに手には花があった。
二人が同時に現れたのは初めてだった。俺はじっと経過を見守れば、二人は互いに花を持って、立ちすくんいることに気が付いた。何やら話をしている、そう思って見守っていれば、なぜかふたりは横断歩道を渡り、俺がいる方の歩道へやってきた。
俺の座っている近くに二人は来る。そうすれば俺は会話を聞くことができた。少年はもう喋るのも大変そうで、大きな声で不明瞭な言葉は聞き取りづらかった。
「じゃあ、今年はここに、しますか」
「そうですね」
二人はそう言って、橋の手すりの下に花を添える。そして長い黙祷をした。
「もう、ずっと来てくださってますよね。何度か、私が置いたものじゃない花を見ていて誰が置いてくださってるのか気になってたんです。姉と、親しかったんですか?」
妹が少年に問う。
「そうですね、こんな話あれですが……」
「なんですか?」
「トウコさんのこと、好きだったんです」
「あら、そうだったんですか」
「トウコさんがどう思ってたかはわからないんですけども」
「姉も喜んでると思いますよ」
「そうだといいんですが。けど、トウコさんがここにいるような気がして、献花を続けていたんです。いつの間にか毎年の習慣になってしまって」
「あら、そうだったんですね。じゃあ、来年もこの時間に来ませんか? よければ一緒に黙祷しましょうよ」
「ええ、ぜひ」
二人は約束をして別れる。
俺は目を瞑って、時間を一年後に進める。
目を開ければ工事はもう終わっていた。桜が咲いている。いつもの場所に献花できる。けど、誰もやってこなかった。妹も少年も来ない。
俺はまた時間を一年後に進める。けど、誰も来ない。妹も少年も、誰も、来ない。
柵に花を置く人は誰もいない。橋にはそれぞれの行くべき場所へ歩みを進める人しかいない。けど、ここで、一人の女の子が亡くなったことを、もう誰も知らない。
トウコの死が、終わった。
俺はトウコが死んだ時のように橋から見える桜を眺めて、俺は自分がここにいる意味が分かった気がした。
なにもない。
俺は二十代の後半でいつも頭にあった不安は「なにもない」ということだった。両親もいない、恋人も友達もいない。仕事もできることをやっているだけ。俺が生きている意味がなにもないと、思っていた。
だから、俺はこの橋で手すりに座って自分で背中から川に落ちた。
少し酒が入っていて、思考がおかしくなっていた。孤独と焦燥が混ざって、苦しくて、誰かに会いたいのに、誰にも会いたくなかった。
橋を渡っていれば、ふとここから飛び降りてみようと思った。顔から落ちるのは怖いから、座って落ちようなんて、思いながら、背から川に落ちれば、高さはそれほどないのに、頭の打ちどころが悪く、死んでしまった。死ぬつもりなんて毛頭なくて、苦しさから逃れたかっただけだった。
そんな馬鹿な理由で死んでしまえば、俺はさらに自己嫌悪に陥る。なにもないまま、理由もなにもないまま、死んでしまった。橋を通る人を眺めて、彼らと自分を比べて自己嫌悪に陥る。苦しい、苦しい、苦しい。けど、俺はもう生きて希望に向かうことも、死へ逃げることもできない。くるしい。
そんなことばかり考えていればいつの間にか、思考することを放棄して、俺はただそこにいるだけの幽霊になった。
俺はなんにもないままだから、ここにいた。消えることもできないでここにいた。
なんでここにいるのだろうとずっと、考えていた。けど、俺はやっと理解した。
桜の花びらが散る中、車に轢かれて死ぬトウコ。幽霊になってしまったトウコ。変わっていく両親と少年を見る幽霊のトウコ。献花されることのないトウコ。空へ指を向けて行ってしまったトウコ。それから、献花をやめなかった妹と少年。
俺はトウコの物語を見るためにここにいたのだ。その死の終わりの瞬間まで、見ることが俺の役目だったんだ。
コップに水が溜まっていく感覚になる。そうだ、俺はこの感覚が欲しかった。
俺を介して物語が存在するために、俺はここにいたのだ。
満たされた気持ちに包み込まれ、俺は最後のやるべきことをする。
物語を終わらせるため人差し指を空へ向けた。
空へ指を 衣純糖度 @yurenai77
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