Day020 椿
静かだ。
宮の外は轟音が響き、美しい庭は踏み荒らされ、今にも賊どもが白亜の宮を打ち壊さんとしているというのに、まるでそれは悪い夢のように遠く思えてしまう。それはきっと目の前の美丈夫が私に──この宮の主の喉元に刃を立てている、非現実的な光景のせいでもあるだろう。
乱雑に取り払われた御簾を興味なさげに踏み、顔を隠す面の合間からただまっすぐに私を見下ろす瞳はまるで泥水のように濁り、何を映しているやも知れぬ色をしていた。顔の半分が見えずとも分かるほど、見目は宮に使える誰よりも麗しいというのに勿体ないことだ。おおかた生まれ育つ間に片時も側を離れなかった絶望が本来の色と光とを奪い去ってしまったのだろうが、それを問うたところで、あるいは歴々と続く悪政を悔いたところで最早遅すぎる。
それにしても、随分と悠長な死だ。憎くて仕方のない相手を前に罵詈雑言を浴びせることもなく、動きを留めるためだけに刃を抜いているとは。どれ、最期に言葉遊びにでも興じてやろう。折角ならばこの美しい死の声を聞いてから旅路に就こうではないか。
「これ、やるならば一思いにせよ。動けぬままでは肩が凝るわ」
まさか声をかけられるとも思わなかったのだろう、武人はぱちり、と眠たげな子どものようなまばたきをした。薄い唇が何言かを漏らしかけたがすぐに真一文字に引き結ばれる。惜しい。こうなれば声を聞くまで死にきれん。
相手が何に食いつくか分からぬのならば、一方的にでも我が玉言を聞かせ続けるしかないだろう。
「誰の命で、とは訊くまい。その得物の鍔、我が叔母上の銘だな」
まずは装飾品を褒める。人の世を渡るには相手に興味を持っていることを示す、これが肝要。たちまち武人は口元をひくつかせるという反応を見せた。首尾は上々らしい。
「良いよい。最早誰がこの座を獲ろうと興味はない」
次いで、少しでも本心を明かす。実際、この状況で助かる見込は万に一つもない。なれば、この先がどうなろうと知ったことではない。いずれ近いうちに腐り落ちる国であったのだから。
「なあ、最期に訊かせよ。お前、名を何という」
そして、その者自身に言葉を向ける。更には最期の願いの駄目押し付きだ。余程の鬼畜生でなければ言葉を返さぬことはないだろう。だが、武人は一瞬の逡巡の後に首を横に振るばかり。声は聞けず仕舞いだ。
「……まさか、名もないと言うのか? なんとまあ三文芝居のような生い立ちと見える」
同情。その三文芝居の舞台を整え、数多の民草を幕の袖から押し出したのは私とその血縁たちだというのに。全く、笑わせる。
「お前を殺した国の主を討ち取るものに名もないとは格好がつかん。私が付けてやう」
動揺からか真一文字に、カ引き絞られた口元から緊張の吐息が逃げ出してくる。チャキ、と握り直された獲物。その鍔に叔母のけばけばしい紋が彫られていた。もし私の配下にあれば、この者に似合いの美しく繊細な刀を持たせるだろう。
たとえば、花のような銘を入れた。
「椿、つばきとしよう。時期になるとな、庭が椿で埋め尽くされてそれは壮観なのだ……最早焼け落ちて再び見ることも叶わんがな」
一面の赤と白の花の中を駆ける武人を思い描く。きっとそれはさぞ美しく、この宮でも類を見ぬほどの麗しい光景となっただろうに。
「……つばき」
名を考える間もずっと首元に刃はあったが、佳き土産を渡せて満足した私の耳に心地良い音が届く。美しい見目に違わぬ、春を告げる鳥のような溌剌とした声音というよりは、秋風のような胸に染み渡るような音だ。
ああ、最期に聴く声がこの者の声で良かった。
「これで思い残すこともなし。ほれ、早うやりや」
「与えられた分は返す」
「……は?」
言うが早いか、武人は私の喉元に突きつけていた刃を返して私の後ろ髪を刈り取った。僅かに散ったものを除いて、紐で結わえていた髪が武人の手に握られている。よもや切り落とした髪を以て暗殺を終えた証にしようというつもりか。
「共に行くぞ、立て」
美しい死に腕を取られ、あれよあれよという間に抱え上げられた我が身は蹴り開けられた窓から混沌の戦場に紛れて消えた。肌にふれる戦火の熱風が確かに当世の王は死んだことを普く人々に報せるまでそう時間は要さないだろう。
やがて訪れた新たな世に花の名を聞かぬ日はない。
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