Day011 「月はこんなに明るいのですね」

 眠る私のこめかみにそっとふれたのは、静かすぎる夜だった。荒天が当たり前の山では珍しく風も雪も雨も眠り込んでいるような、何者も窓を叩いていかない夜は初めてかもしれない。

 こんな夜にベッドで大人しくしているなんて勿体ない。どこからか湧き上がる衝動に突き動かされて、私はお気に入りの靴を履いてお部屋からそっと抜け出した。もう日付も変わる頃なのにベッドから出ているだなんて、見つかってしまえばお父様とお母様や彼にもきっと叱られてしまうけれど、高鳴る鼓動と手を繋いだ私は自分で止まることなんて出来ない。

 お屋敷で一番大きな窓を目指して、私は明かりもなしに長くて暗くて、本当に静かな廊下を進む。このまま誰にも会わずにいられたら。そう小さく願った瞬間、何かが目の前に立ち塞がって私は顔からその何かに飛び込んでしまった。

「……お嬢様、こんな夜更けにベッドから出てはいけません」

 長い脚にぶつかってよろめいた私が倒れないように肩に冷えきった手を添えてくれたのは、我が家で一番の働き者たった。考えた瞬間に会ってしまうなんて、私たち本当に仲良しだわ、と心の中で溜め息をつく。

「ごめんなさい、でもこんなに良い夜なんだから。今日だけ、少し見逃して? ね?」

「いけません。明日は朝から温室のお世話です。しっかり休まなければお辛いでしょう」

 ぐいぐい、と部屋の方へ背中を押す彼の力は決して強くはない。しかし、お父様譲りの彼の頑固は普段からよくよく身にしみて知っていたから、このままではすぐにベッドに連れ戻されてしまうことは分かりきっていた。なんとかして彼が納得するだけの理由を今、ここで作り上げなければ。

「わ、私! 今から月の観察をしに行くところだったの」

「月?」

「ええ、だってこんなに晴れた夜、初めてなんですもの。今夜を逃したら次はいつになるか分からないわ」

 我ながら必死すぎる上にかなり強引だと思う。だけど、彼を納得させられる理由がこれしか思いつかなかった。事実、勉強のためではないけれど、月を見に行こうとしていたのは本当なのだから嘘はついていない。

 少しの間、固まって考えている様子の彼を眺めていると一つ大きくまばたきをして、ゆっくり首肯をしてくれた。

「……分かりました。しかし、日付が変わるまでの37分だけです」

「ありがとう!」

 思わず高くなりそうな声を潜めて彼の手を取ると、不思議そうな顔で小首を傾げられた。最近たまに見せてくれるようになったその仕草は、彼の年相応の幼さを感じられて私は好きだ。完璧を求めるお父様には決して言えないけれど。

「さあ、あなたも行きましょう。私、お父様の御本でお勉強したから、月のことはよく知っているのよ」

「承知しました、お供いたします」

 手を引けば彼は素直に後をついてきてくれた。心なしか頭上にある彼の横顔も暗い中で分かる程度に落ち着きがない。

 忍び足の私たちが辿り着いた大窓はまるでそこだけランタンがついているみたいに明るく照らされていた。胸の高鳴りが最高潮になった瞬間に見上げた外の景色、そして彼が呟いた言葉はきっとずっと忘れないだろう。

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