Day003 待っていてもいいよ

 穏やかに凪ぐ海と気持ち良さそうに翼を遊ばせる海鳥。

 男は舟の縁に腰かけて、己の雇い主が市場から戻るのをぼんやりと待っていた。ふわふわと大欠伸をしつつ、手持ち無沙汰なのかぶらりと投げ出された手で水面に渦を作って遊んでいる。

 男は船頭だ。昔話の時代に陸地の大半が海に飲み込まれた世界で、点在する島と島との間を安全に渡るための術を持つ人材は人々の暮らしに欠かせないものとして重宝される。生まれながらに波や風と親しいこの男も数えきれないほどの人やモノを運んできた。

 今回の雇い主からの依頼もその一環で、今時珍しい世界中を巡る船旅に帯同している途中だ。男が暇を持て余している港も、本来の旅程では必要な備品を調達してすぐに出発する予定だった。しかし、たまたま立ち寄ったその日に島の収穫祭が催されていたのが男にとっての運の尽きだ。好奇心旺盛な彼の雇い主が初めて訪れる土地の祭を見過ごせるはずもなく、日没までという約束で自由行動となった結果、男はひたすら穏やかな午後を過ごすことになった。

 人待ちの時間は相手への気持ちを自覚させる。男はただ無為に流れていく時間を少なくとも厭わしいとは感じていなかった。その気持ちの流れを不思議に思いながらも男は決してその源流へ遡ろうとはせず、ただ水と戯れるだけだ。

「ん?」

 とつ、と不意に現れた小さな気配とやわらかいものが腹を踏む。くったりと伸びていた上体を起こしてその正体を見れば、くるりとした青い瞳を持つ仔猫が男の上を通っているところだった。

「どうした、チビちゃん」

 声をかけても逃げ出さないどころか仔猫は小さく鳴いて、なお男の体を横断していた。小さな手足がちまちまと歩みを進める度、くすぐったさとわざわざ人の上を通っていく大胆さに笑みが湧き上がる。一体何が目的なのかとその歩みの先を見守っていると、小さな大陸を踏破した仔猫はやがて海に至った。仔猫が舟の縁から身を乗り出して水面を眺める姿を、その小さな旅人が海に落ちないように男は見ていた。

 あまりに熱心に眺めている様子にふと、男が何言か口の中で唱えると、手をふれることなく水面がひとりでに渦が巻く。すると、短い尻尾がピンと張り詰めたかと思えば、ゆるゆると振られた。

「気に入ったか?」

 仔猫は男の声に尻尾で返事をして小さく渦巻く海を眺め続けている。そっけない態度に気を良くした男は、好奇心旺盛な小さな旅人が飽きてしまうまで謳い続けるのも良いだろう、と潮風を吸い込んだ。

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