穢れなき百合に口付けを
透
第一章 牢獄の英雄は光をみる
一面深い闇の中でアルフレッドは、小さく身じろぎする。
それに伴い、彼を纏う闇も同じように動きをみせた。
暖炉すらないこの場所は年中を通して肌寒いものの、幼いころから鍛えている彼にとって特に問題はなかった。
彼の着ている服は、アスファルトのような鼠色で、月に数回しか水浴びをさせてもらえないこともあり、薄汚れている。
どれ位の時をこの暗闇の中で生きているのか、何年、いや何十年の月日が経ってしまったのか、それすらもわからない。
アルフレッドは、ふぅと溜息を洩らし、石で出来たベッドにもたれ掛る。
もっとも、それはベッドというには程遠く、ただ無造作に置かれた石だった。
最初はとても眠れたものではなかったが、慣れというものだろうかと思い暇つぶしに手を軽く動かした。
かしゃん、と手首から聞き慣れた鎖の音がする。
その行為に特に意味はなく、ただ生きていることを確かめる唯一の方法だが、どうやらやりすぎた所為で手首が擦り切れてしまい、わずかな熱を持っていた。
(儚く散るからこそ美しいなんて誰が決めた? それならきっと醜く足掻いてでも生きるほうが美しいに決まっている……か)
戦友の言葉を何度、この獄中の中で繰り返したかわからない。
潔く死を選ぶより、生きて罪を償え、という意味なのだろうか。
アルフレッドは、見えるはずもない瞳を開けて、目の前に広々と横たわる闇を睨めつけた。
闇は彼に安堵や優しさを与え、そして愛すらも与えているようだった。
その日もいつものように、終わりを迎える予定だったが、ある変化が訪れた。
建付けの悪さを象徴するようなギギィと音と共に、漆黒の闇に一筋の光を齎した。
「?」
牢獄に足を踏み入れるのは、一日に二回ほど訪れる食事係のみで、それ以外は誰も近づくことはない城壁で囲まれた要塞。
(一回目の食事は終わったはずだが……一体誰だ?)
アルフレッドは意を決し、闇の向こうにいる者へ声をかけた。
「誰か、いるのか?」
アルフレッドが口を開いたのは久しぶりで、喉が引きつっていてうまく声にならなかったが、コツリと足音がそれに応えた。
身体は無意識に緊張して強張るが、アルフレッドは辛抱強く相手の出方を窺がうことにした。
数秒、数十秒経った後に、聞こえてきたのは柔らかな声だった。
「誰?」
その声は長い間耳にすることのなかった若い娘の声で、谷の湧き水のように澄んでいた。
「あなたは、誰? ここは一体?」
その声は、甘く優しく、アルフレッドの脳内にじんわりと侵食していった。
(なんだこの感じ……)
アルフレッドは、経験したことのない安らぎのようなものを感じ、ほうと溜息を洩らし、肩の力を抜くものの、この娘が望んで来たのではないことに気づき、唾を呑み込んでゆっくりと口を開いた。
「ここは、淑女の来るようなところではない。早々に立ち去るが良い」
アルフレッドは努めて冷たく、そして拒絶の意味を込めてそう告げる。
彼女は光が似合う存在のような気がして、自分が触れていいような存在ではない、と直感的にそう感じ取った。
立ち去ると思い、力を抜いたアルフレッドに娘は問いかけるように話した。
「あら。何故あなたの指図を受けなきゃいけないの? 迷惑かけてないわ?」
「指図した覚えは……」
強く言えないのは彼が娘に甘い所があるためだった。
一言、迷惑だと告げればそれでこの娘は立ち去るはずだとわかっていても、不思議とその一言が出てこなかった。
「……」
続きになる言葉が言えず、沈黙を守っているとヒールが石畳を叩く音がした。
その音は、彼のいる牢屋の前で止まった。
「綺麗な顔……」
声と共にふわり、と甘い香りがアルフレッドの鼻腔を擽った。
花のような、淑女がつける香水のような、癖になるような甘い香り。
「……男に綺麗などというものではない……」
娘の言葉に思わず切り返したものの、声に少しの戸惑いがあった。それは、綺麗などとはじめて言われたこともあるし、自分の穢れた姿を知らないからそんなことがいえるのだと。
自分は綺麗などとはいえない。
罪、憎しみ、恨みで身も心も、魂ですら穢れ切っているのだから。
だが、そんなアルフレッドに娘は気にする様子もなく、破顔しながら言葉を続けた。
「ふふ……綺麗な男(ひと)に綺麗って言ってなにが悪いの?」
「……」
「ねぇ? あなたの名前は? 私は、フィオネ・ラザリュス・クリーエル・キャンディスよ」
「……長い名前だな……覚えられる自信がないぞ?」
「なら、フィオネって呼んで?」
「……気が向いたらな」
ぷい、と鉄格子に向けていた目線を地面に写した。
特に意味はなかったが、彼女の方を見ていると自分が汚いもののように思えてならなかったからだ。
「もう……で、あなたの名前は?」
どうやらフィオネは自分が名乗るまで帰る様子もなく、このまま居座わられても……という思いを抱き、しぶしぶ口を開いた。
「……俺、は……レリクリフ……だ」
「レリクリフ?」
「……」
規定通り、アルフレッドは国から定められた名前を名乗った。
フィオネは、小さく「あら?」と言葉を洩らし、戸惑いを含めた声色で話す。
「レリクリフってあなたの名前? 確か、ラザリュス語で……」
「咎人だ。よく知っているな……」
そう、この国ラザリュス語で罪人、咎人の意味を持っており、罪人たちは皆本来の名前を持つ資格を奪われ、死ぬまで真名を名乗ることを許されていない。
「ほんとの名前は?」
「……そんなもの当の昔に忘れてしまった」
アルフレッドは、感情を押し殺したような声でそう告げ、目を閉じて頭を下げた。
(嘘だ。本当の名前を忘れた日などない……それはただ過去の栄光に縋っているだけかもしれないが、俺自身が生きた証だから。だがそれをこの娘に話す理由なんてない)
「……そうなの」
フィオネの悲しみを含んだ声に、アルフレッドは首を傾げる仕草をした。
何故、他人に、それも罪人相手にそんな悲しい声を出すのか、いくら考えてもアルフレッドには理解出来なく、頭をゆるりと振り、顔を上げ言葉を紡いだ。
「さ、名前は言った。早くここから出て行き、二度と来てはいけない」
湿っぽい空気を拭うように、明るくアルフレッドは告げる。
罪人と仲良くなってもいいことはない。それが、王女様ならばなおのこと。
しかし、「ふふ」とフィオネの鈴を転がすような少し高い声に、下げかけていた頭を上げ、言葉を待った。
「また来るわ」
「はっ? な、に言って……」
フィオネの言葉に少し狼狽するように、言葉を紡いでみせた。
「イイじゃない。誰にも迷惑かけてないし……それに私、あなたのこともっと知りたくなっちゃったもん」
「いや、だから……」
英雄と呼ばれていた彼だが、もともとそんなに口が上手いわけではなく、声からして一回りは違うであろう娘に言い包められている気がして、内心焦っていた。
「じゃあ、また明日ね。さようなら」
「あ、ああ……さようなら。って、じゃなくて、だから、その……明日って……」
しどろもどろ言葉を探している間に、すでに娘の姿はそこにはなかった。
アルフレッドがそれに気が付いたのは、数分後のことで、一人の大人がおろおろしている情けない様子を見ていたのは誰もいなかった。
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