第2話:青年は感情の荒野を駆ける

 ここはどこだろうか。

 何もなく、ただっ広い空間。全体的にもやのかかったような場所に俺は居た。

 場所が分からないどころか、全身の感覚さえあいまいだった。

 立っているのか座っているのかすらもわからない状況の中、遠くにグレーがかった髪の毛を風になびかせる少女が見えた。

 靄のせいで顔の造形はよくわからなかったが、その少女は妹のシャーロットだろうと見当をつけた。


 シャーロットと思しき少女は両膝を手で抱えて座っており、遠くから前だけを見つめていた。誰か来るのを待つかのように。

 声をかけてみようか。

 口を開きかかけたとき、俺に気づいたのか彼女は立ち上がるとこちらを向いた。


「————!」


何かを必死で訴えかけるように必死で叫んでいるが、距離のせいだろう。俺には全く聞こえなかった。

 その声を拾うため、俺は彼女の居る方向へ走りだす。すると、だんだんその声が聞こえてきた。


「兄さんは、まだ来ちゃだめだよ!」


「え?」


 必死の形相で訴えかけるシャーロットの姿が映る。

 そこで、俺の意識は言葉の意味を理解するよりも先に、今度は靄にかき消されていってしまった。


♢◆♢


 目を覚ますと、白い天井が広がっているのが見えた。ぼんやりとした視界の中で、自分がどこに居るのかを理解しようとする。

 胸には、ひどく嫌な感じが広がっている。胸騒ぎというのだろうか、俺の直感は底知れぬ気味の悪さを察知していた。

 先ほどまで見ていた夢のせいかもしれない。内容はよく覚えていないが、ひどく不安感を煽るような夢だった気がする。


 薬品や消毒液等の慣れない匂いがするこの部屋は、その不安感をより一層掻き立てていた。

 その鋭く刺激的な香りは鼻腔を刺し、嗅覚を通じて胸騒ぎに警報の意味を持たせていた。


 何が起こり、何が俺をここに連れてきたのか。頭の中は未だに混濁していた。

 記憶を探ろうにもノイズがひどく、断片的なものしか浮かんでこないのだった。


 まずは周辺の状況を探ろうと左手を動かそうとした。しかし、左手はギプスで固定されており、それは叶わなかった。

 だが、収穫として、俺は怪我をしているということが分かった。


 少し前にも同じような出来事があった気がしていた。その時はもっと状況が緊迫していて。ただ、左手が自由に動かせないという共通点があったはずだ。

 自身の今を知るために、記憶を辿っていたが、急に頭を動かしたからだろう。頭痛と嘔気がした。あるいは脳が思い出すことを拒んでいるのだろうか。


 しかし、そんなことには構っておられず、頭の中では記憶のパズルに挑戦していた。

 思い返すと、俺はさっきまで家族とともに車に乗っていたはずだ。しかし、今いる場所はどう考えても病院だった。


 まだ足りないな。順番に記憶を辿っていく。自身の中に確実にあるはずなのに記憶は易々とは出てきてはくれない。まるで厳重なセキュリティを突破しているかのように感じられた。


 少しづつ、パズルのピースがはまっていくかのように記憶が浮かび上がっていくのを感じた。脳内には、当時の緊迫感が蘇ってきた。

 何か重大な出来事や危機に直面していたのかもしれない。

 次第に、当時の不安と焦りが心を支配していた感覚が思い起こされていた。


 何が起きたのか、家族はどこへ行ったのか。

 記憶に手をかけていくごとに着々と侵食してくる不安感に、吐き気を我慢することもままならなくなっていた。

 ゆっくりと身を起こした俺は、比較的自由に動かすことのできた右手で口元をおさえた。それは、吐き気を和らげるための自己処理としての行動だった。

 嗚咽に対し、上半身のバランスが崩れた。反射的に左手で体を支えようとした。しかし、左手は固定されているわけで。


「っ――――!」


 バランスを崩し、転倒。という状況は避けることが出来たが、左手に負荷がかかってしまった。その負荷は苦痛とともに鋭い痛みを生じさせた。言葉にならないような声が出た。


 しかしながら、不幸中の幸いというべきか、痛みとともに脳裏には記憶の情景が走っていた。

 断片的だった記憶はさらに呼び起こされていく。誰かが痛みの記憶だの言っていた気がするが、本当にあるらしい。


 だが、それと同時に「思い出さなければよかった」と、後悔した。思い出せたことが不幸中の幸いというのならばその内容が最悪だったことは幸中の不幸とでもいうべきか。

 その記憶にはまだ靄がかかっている感じがして、不鮮明だが、それは確実に事実への糸口であった。

 よくない記憶だった。謎の胸騒ぎは当たっていたのだろう。

 淡々と、よくないビジョンがスライドショーのように頭の中で反芻されていった。


 深く濃い霧。

 衝撃。

 鉄の混じった生臭く——そして焦げた匂い。

 甲高い悲鳴。目の痛みと、咳。

 

 ————そして、ぬるりとした嫌な感触。あれは——。


 俺はその情景に錯乱し、呼吸は荒くなっていた。背中は冷や汗でびしょ濡れになり、心拍数が急上昇するのを感じた。

 頭にはズキズキと刺すような痛みが変わらず残っている。記憶が鮮明になりつつある一方で、より激しい痛みが頭部を刺激し、俺の脳はショート寸前だった。

 そのせいか身体はだるく、上手く身動きが取れそうになかった。俺は再びベッドに横たわることにした。


 少し落ち着こうか。と、少しの間ぼんやりして過ごした。

 しばらくすると、落ち着きを取り戻した俺の頭は、ようやくはっきりしてきた。

 脳内は次第にクリアになっていく。記憶の靄が取れ、鮮明になっていく一方で俺の深層意識がブレーキをかけるかのように眠りへと誘う。


 それにしてもやけに眠いな。


 自然の眠気というより、鎮静剤でも打たれて強制的に眠らされようとしているかのような、抗いがたい眠気だった。

 下がりそうになる瞼を制す中、俺は、あの状況が事故だったのだと完全に理解した。

 途端、心臓が早鐘を打ち出した。


「———————————っ!!」


 思わず漏れて出た俺の叫びは緊迫感と混乱を象徴していた。一過性のパニック症状が俺を襲う。


 胸を抑え、それを食い止め冷静になるよう試みた。

 今こそ、起きた出来事を整理し、事故がその後どうなったのか確認する必要がある。


 あの衝撃のあと、どうなったんだ。


 脈打つ心臓を抑えつつ、俺は自身の海馬に問いかける。心臓の鼓動はより激しく突き上がっていた。体全体に緊張が走り熱を発する中、記憶を整理するよう海馬に訴えかけた。

 海馬は脳の中でも記憶の保存と関連性を担当する領域であり、その中には過去の出来事が刻まれている筈だ。それが思い出し難い記憶だとしても。


 よりリアルな情景が海馬を通して映像として脳内に浮かび上がった。

 匂いの記憶はその生臭さで再び吐き気を感じさせる。


 あれが、あの生臭い匂いが。


 充満した血液の匂いだとしたら。


 あのぬるりとした感触が、血液のものだとしたら。


 だとしたら、それは——


 ————”誰の”だ?


 そんな嫌な考えを振り払おうとするが、手に残った感触が、鼻腔にこびりついた匂いが消えてくれない。

 身体は発汗しきっていて、俺は肩で息をしていた。俺の心身は耐えがたい苦痛に疲弊しきっており、限界を感じていた。


 防衛本能から瞼が閉じるのを感じる中、ふと思い出した。意識が途切れるほんの少し前、俺の名前を呼ぶ声がしたのを。その声の主はきっと————。


 そんな考えを巡らせているうちに、先ほどの叫び声に気づいたのか、看護士がやってきた。


「アルバートさんが目を覚ましました! 落ち着いてください! 私の声が聞こえますか?」


 その後、看護士は医師を引き連れ、俺の身の回りは一気に騒がしくなった。

 両者の慌ただしい動きや、周囲の騒音は俺を現実に引き戻していった。自分の状況を再確認し、今は周囲の助力に従うほかないということを理解する。

 身体の自由が利かない今、俺に選択肢はないに等しく、今は療養するしかないようだ。


♢◆♢


 あの思い出し難い出来事から数か月が経過していた。

 療養の甲斐もあり、俺の身体はあっさり元通りとなっていた。大規模な事故にあったとは思えない程だ。


 退院後、自分なりに情報を整理したところ、家族はあの事故で俺以外は全員死亡してしまったようだった。

 俺たち家族だけではなく、周囲でも多数の事故が重なったようだ。そして、大規模事故と定義づけられたその事故での生存者は俺だけだった。


 余談だが、俺の親権は叔父のものになった。

 そのあたりの詳しい説明を受けたはずなのだが、どうしてもよく覚えていない。あまり興味がなかったのもあるだろう。

 自分のことなのに、心底どうでもいいと感じていた。


 俺は生意気なガキだったので叔父に嫌われていた。その為、叔父も一緒に住もうなどとは言いださなかった。


「最低限の生活費はお前の家族の遺産から振り込んでおく……ったく。迷惑だけはかけてくれるなよ」


 叔父の吐き捨てた言葉が耳に残っていた。彼は俺に対してかなりの嫌悪感を持っているようだった。

 叔父の言葉に、生きていくだけであれば支障がないことを理解した。

 都合だけは良かったので、俺は家族が居なくなり、抜け殻のようになってしまった家にそのまま住んでいる。


 両親や妹の部屋に立ち入ることは一切なかった。

 部屋の主が居ないとはいえ、個々人的な空間であり、尊重すべきものだと感じたからだ。立ち入る勇気がなかったのもあるだろう。

 あるいは、もしかしたら事故は何かの冗談で、ふらっと三人で戻ってくるかもしれない。そんな淡い期待にすら届かないことを願っているのかもしれない。


 思い出が詰まった部屋の入り口を見る度に、寂しさと喪失感が胸を打つ。

 俺が抱いている期待や願いは、家族の存在を取り戻すことだった。しかし、そんなことは現実では起こりえない。そう、幻想に過ぎないのだろう。


 死んでしまったのだ。

 馬鹿だけど陽気で冗談好きな父も。

 家族のために、理想の母親になろうと努力していた母も。

 良くも悪くも鬱陶しかった妹も。


 みんな、死んでしまった。その事実を受け入れても、俺の心に清々しさなどあるわけがなかった。

 生意気な態度をとっていたとは思うが、憎くてとっていたわけではない。

 言い訳をするならば、年相応の反抗期を拗らせていただけだと思う。


 彼らの人格を全肯定できるわけではない。だが、俺でも人並みの愛情は持っているつもりだ。

 家族を失い悲しみを感じていた。心は虚しい思いで満たされている。家族がいかに大切な存在であったか。その重要性をこんな形で改めて気づかされることで、悲しみはますます深まっていった。


 この感情はきっと解けず、呪縛のように俺に纏わりついて一生ついてまわるのだろう。

 そう自分に言い聞かせているだけかもしれない。忘れないように——俺一人生き残ってしまった罪悪感を拭うかのように。


 喪失感と罪悪感。俺の感情から愛情を引いて残ったのはその二つだった。

 虚無を孕んだこの感情に、自分自身を喪失していくのを感じていた。きっと俺はあの事故で頭のねじをいくつも失くしてしまったのだろう。

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