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 加護越しに繋いだ視覚と聴覚のリンクを切る。

 併せ、分割させた思考を官邸の本体へ戻し、部屋の修繕中だった手を止めた。


「珍しい。ベルベット様が自分から僕を遠ざけるなんて」


 それだけ余裕の無い相手と判断したのだろうか。

 あの人の性格的に、自分が劣勢に陥った姿など見せたがらない筈だし。


「ま、いっか」


 元より僕に荒事を楽しむ趣味は非ず。

 ついでに言えば、意識を二つに割き続けるのは正直しんどいので、寧ろ好都合。


 降って湧いた休息。鬼の居ぬ間に洗濯。

 作業の続きは、一服入れた後に持ち越すとしよう。


〈始まったみたいだな〉


「ひゃっ」


 変な声出た。


 立ち上がって伸びをした頃合、壁越しに届いた口舌。

 完全に意識の外だったそれに、びっくりして肩を跳ねさせる。


〈ン、ああ、すまんすまん。驚かせちまったか〉


 伝法な喋り方に反し、理知的な音色を帯びた低い男声。

 どきどきと暴れる心臓を、何度か深く息を繰り返して落ち着かせる。


「……アベル様?」

〈よォ〉


 ぽっかり空いた壁の穴から覗いた横顔。

 大陸西部では非常に珍しい灰色の髪と褐色の肌。よく見れば目鼻立ちも僕達とは違う。

 まさしく異人という表現がピッタリ当て嵌まる、浮世離れした空気を纏った青年。


 …………。


「あの。始まった、とは?」

〈そりゃ勿論ドンパチさ。お前の主人と、の〉


 アイツ。それが影の女性を指し示していることは、わざわざ問い返すまでもない。


 が。別の部分で、喉を突く小骨にも似た引っ掛かりを感じる態度だった。


〈やる気を見せたのは、いつ以来になるか。しかもを緩めるために百蛇ビャクダまで片付けるとはな〉


 気安い間柄のようで、しかしどこか他人行儀な口振り。

 この人と彼女との関係性が、今ひとつ掴めない。

 

〈何せウルスラが倒されたのも、混穢レギオンと渡り合えるだけの力を持った奴が現れるのも久方振りだ。はしゃいでるのかね〉


 そう言って薄く笑い、身を引く彼。


 次いで、少しずつ遠ざかる気配と足音。

 唐突に現れ、姿を見せた理由も告げず去るとは、神出鬼没な。


「あ、待っ、アベルさ──」


 呼び止めるべく、ギリギリいけそうなサイズの穴から半身乗り出す。


 ほんの十歩足らず回り込めば、ちゃんと扉があったのに。

 その些細な不精が、良くなかった。


「──ま?」


 じたばた。


「え、ちょ」


 じたばたじたばた。


「嘘でしょ」


 じたばたじたばたじたばたじたばた。


〈……何やってんだ?〉


 こちらの異変を気取ったらしく、踵を返し戻って来たアベル様。

 ええ、まあ、はい。御覧の通りです。


「抜けなくなりました……」


 いくら痩せっぽちでも、流石に無理があった模様。

 助けて下さい。もしベルベット様に見られたら、一生このネタを擦られる羽目になる。











【Fragment】 アベル


 古い西方言語で『灰色』を意味する単語。

 名無しと語った灰髪の男に、イヴァンジェリンが付けた呼び名。





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