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「改めまして、助けて頂き、ありがとうございました」
〈たまさか通りがかっただけだ。畏まって感謝されるほど大層な話でもねぇさ〉
灰髪の青年を連れて官邸に戻り、服を着替え、ひと段落。
すぐ出せるものが紅茶とアルパンのサンドイッチくらいしか無くて申し訳ありません。
〈ン。やけに美味いな、このパン〉
それは重畳。
スラム暮らしだった頃、子供達によく焼いてあげていたから、味には少し自信がある。
〈つか、普通あの手のシチュエーションなら悲鳴のひとつも上げるもんだと思うが〉
向けられた疑問符を苦笑で誤魔化す。
抵抗より面倒の方が勝ってたとは、流石に言いにくい。
──と。そうそう。
「こちらを、お返し致します」
畳んで雑嚢に入れておいた、彼の上着を引っ張り出す。
亡霊達に捕まった際、荒っぽく投げ捨てられたけど、どうにか無事だったみたい。
〈あァ? なんだこ……あー、あーあー、そっか、あん時か。悪い悪い、探してたんだ〉
受け取った後、しげしげと生地を眺める灰髪の青年。
探してたと言いつつ、今の今まで存在を忘れてたっぽい。
〈……? なんか小綺麗になってやがる〉
「差し出がましいとは思いましたが、幾らか修繕を」
変わった材質で結構手こずったけど。
植物繊維とも動物繊維とも違った。似てるものを強いて挙げるなら……ポリエステル?
でも、そんなワケないか。少なくとも西方には、化学繊維の製造どころか石油や天然ガスの精製技術すら無い筈だし。
「拙い針仕事で申し訳ありません。余計、でしたか?」
〈いやいや、上手いもんだ。御厚意、有難く頂戴しとくぜ〉
なら、良かった。
〈そう言や、今回は随分と苦戦してるみたいだな〉
暫し、取り留めもない雑談に興じる最中、ふと彼がそう切り出す。
〈何度か遠目で見てたぜ。いくらなんでも
くつくつと愉快げに溢れる窃笑。
ベルベット様は悪口に敏感な方なので、就寝中とは言え聞き付けられたら大変ですよ。
〈……そうだな。ジャケットを繕ってくれた礼だ。お困りなら知恵を貸すぜ?〉
恩を受けたのは、寧ろ僕の方なんだけど。
かったるい上に無駄と分かり切ってたから抵抗しなかっただけで、犯されるの自体は普通に嫌だったし。
〈
口振りから察するに、つまりこの人、
ホント、何者なんだろう。
「僕もベルベット様もネタバレ許容派ですので、是非ともお願い申し上げます」
〈あいよ〉
でも、ひとまず疑念は置いておく。今はこの厄介な膠着を動かす方が先だ。
兎にも角にも、猶予が無い。
何せ持ち込んだ砂糖が尽きるまで、甘く見積もってもあと三日か四日。
そうなる前に
…………。
ただ。その前に、ひとつだけ別口で尋ねておきたいことがあった。
「あの」
〈ン?〉
「貴方の名前を、教えて下さいませんか?」
〈……あァ?〉
【Fragment】 灰髪の男(2)
嘗てウルスラは、彼のことを「
嘗てミハエルは、彼のことを「拳士殿」と呼んでいた。
ともあれ彼は、己の名など、とうに忘れてしまった。
或いは元より、そんなもの──
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