僕と彼女と、月と鯨と

こたこゆ

僕と彼女と

 日が暮れた。


 走る、走る、走る。ひたすら走ると、だんだん息は切れて来て、肺に空気が入るのが分かるようになる。喉を息が通って、肺から血管に酸素が渡され、空気が体の外へと絞り出される。


 僕が走るのには理由があった。

 もう月の出からどれほど経ったのだろう。まだ、彼女はいるだろうか。


 走る、走る、月が照らしていなければ見えないほど黒い道を、走る。ひたすら走ると、耳に波の音が届いてくる。遥か下で鳴る潮騒の音は、奏でられては消えることを繰り返し、絶え間なく響いている。


 丸く満ちた月が高く登って行くにつれて、僕の心には焦りが生まれる。

 もう月の出からどれほど経ったのだろう。彼女が遠ざかる水音が、杞憂であることを願ってしまう。


 走る、まるで家から逃げるように走る、何かから逃げるように走る。ひたすら走ると、やがて、足の運びは緩やかになってくる。黒い海、黒い空、そこに浮かぶ大きな青白い月は、不思議なほど共存している。


 ようやく辿り着いた岬で、僕は近くに生えた一本の松に手をつく。

 良かった、まだ彼女はいる。こんな時間に抜け出せる家庭環境に、今だけは感謝する。



 走りもせず、願いもしない僕は、ただその景色を見つめている。


 星も見えない黒い空。星が見えないのは、浮かんだ月が大きく明るすぎるせいだ。どんなに目を凝らしても、人間の僕では月以外を見ることはできない。

 波も見えない黒い海。波が見えないのは、ここからあの海までが遠すぎるせいだ。この岬から飛び込んだとしても、あんな先までは決して行けない。


 息を切らした自分の息が、夜の静かさに吸い取られる。まるで脆いガラスのように、バランスを崩しやすいシーソーのように、こんな夜が不安定なのを、僕は知っている。だから、乱れた息も、呼吸も、心音ですら、僕は消してしまいたくなる。



 彼女は見えない。

 もしかして、もう行ってしまったのだろうか。

 もしかして、もうここには来ないのだろうか。

 もしかして、病気にでもなったのだろうか。

 もしかして、死んでしまったのだろうか。

 そう思っただけで、僕の心は潰れそうになる。


 暗い闇が、息苦しくなる。この夜は、脆いガラスなんて綺麗なものじゃない。もっと重くて悲しくて辛くて痛くて黒い穢れたものだ。

 誰もいないひとりぼっちの部屋みたいな。

 口論の声だけが響いて耳を塞ぐ夜みたいな。

 そんなものだ。


 そう思った途端、僕の心は、目は、息は、黒く塗りつぶされそうになる。


 このまま、死んでしまうんじゃないかと思う。


 でもいつも、そうはならない。



 パシャンと響く、空耳のお陰だ。



 顔を上げて目を向けた先には、きらりと光る水しぶきが見えた。遠すぎて見えるはずもない、暗いばかりの海に、彼女はいる。


 僕は知っている。彼女の、海に広がる長い髪を。

 僕は知っている。彼女の、月に光る宇宙色の鱗を。

 僕は知っている。彼女の、孤独な夜に響く歌声を。

 僕は知らない。月に向かって泳ぐ彼女の顔を。

 僕には知る方法もない。満月の度に現れる彼女の思いなど。


 僕は、気づかないふりをしている。

 あんな遠くにいる彼女のことを、髪を、鱗を、歌声を。僕が知れるはずも無いことを。



 月が登る。彼女は進む。僕はそれを、ただ眺めることしかできない。

 星が見えてくる。彼女はもう見えない。僕はそれを、ただ受け入れることしかできない。

 夜が明ける。彼女は既にいなくなってしまった。僕はそれを、ただ諦めることしかできない。


 夢と現の間で、僕は僕の居場所へ帰り、目を覚ます。


 夜は、完全に明けていた。空想を照らして、消してしまう様な眩しい朝日が、僕のガランとした部屋を染めていた。

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