【01】

 僕が三十路になる前に担当編集者は変わり、女性から男性になる。そこの出版社はBL以外も勿論出しているけれど、BL部門の社員はやはりというべきか偶然なのか、とにかく女性が多くて、だから彼は珍しがられている。

 朝霞大紀は冷たい目をした理知的な男だった。

「私はゲイではないですよ」

 引き継ぎの打ち合わせの際、朝霞は僕にそう言った。職場でも何度も同じ説明をしているのであろう、台詞のようなことを淡々と捲(まく)し立てた。自身がヘテロセクシャルであり、しかしBL好きな男性のことを、腐男子というらしい。朝霞はつまりそれだった。前担当の女性は、作家と編集者がどちらも男性なら、恋愛的に一悶着あれと願っているようだった。実際、そう言って、僕らをからかった。これはネタになると僕は思ったが、エロ作家と編集者がどうこうなる作品は、既に大量生産されているらしい。そんなジャンルもあるのだと、他人の作品を読まない僕は初めて知る。

 朝霞と二人で打ち合わせをするとき、僕は何故だか変に緊張した。銀色の縁の眼鏡をかけた男が、僕より少しばかり背が高いことや、ジムで鍛練している、引き締まった細身の体つきが、彼を神経質そうに見せているからかもしれなかった。実際の彼はとことん文系で、本業は税理士である僕のほうが、脳内は数理的なものごとの考え方をするのだった。

「朝霞さんは、BL本でヌきますか?」

「いえ。仕事の目線で見てしまいますね。……普段は」

「普段は」

 僕は朝霞の言葉を繰り返す。喫茶店の椅子に座り直して、朝霞は少し首を傾げる。

「うーん。つまり、……そりゃ好きなわけですから、多少は興奮するというか、……でも、違うんです。大雑把にいえば、BLは女性が女性向けに書く場合が多いですよね。それなのに作品には男性しかほとんど出てこない。その奇妙さに私は惹かれるんです。それが楽しい」

「楽しい? ですか?」

「ええ。設定としては登場人物は男性なのに、その内面や言動や反応は極端に女性的で、やはり女性のために描かれているんだなあと思うわけですよ。……男性向けのエロ本が、リアルな女性を描かないのと似ていて。……上手く伝わりますかね」

「あなたが変な人だというのは、よく分かりました」

「多能さんこそ、」

 どうしてBL作家になったんですかと、聞かれても困る。今度は逆に僕が首をひねって、唸る。書けるから書いたと答えたら、朝霞は頷いた。

「多能さんは、どうなんですか」

「どう、とは」

「つまり、その」

 いくら周りに客や従業員のいない、物静かな喫茶店とはいえ、公共の場で露骨な表現を用いることはためらわれて、朝霞は目線だけで自分の言いたいことを僕に伝えてくる。

 筆が乗っているときの楽しさは勿論あるが、濡れ場を書いていて、性的興奮を感じたことはない。より精密な描写をするために、ひとり、部屋で、自分の肩や唇、指先などに触れることはあっても。いや、もっとはっきり言うならば、書くために自慰したことはある。しかしそれは文字として脳内変換するための作業であり、やはり自分で書いたものに自分で興奮したことはない。

「やはり、書けるものを書いてるだけですよ。情動はありません」

「男性との経験は?」

「…………………………………僕は女性が好きですよ」

 夜詩くんのことをつい考えてしまう僕のためらいを、朝霞は僕が嘘をついたのだと勘違いする。僕は朝霞の隣に夜詩くんが座っていたら、と考える。そんなやり方をする映画が、あったような気がする。いや、映画ではなくて、なにかのミュージックビデオだったかもしれない。あなたを想うとき、あなたはそこにいる。それを上手く切なく表現した映像を、僕は思い出す。

「多様性の時代ですから、べつになんでもいいんですけど」

「いや、あの、本当に僕も、ノーマルです」

 ただ、叔父と色々あっただけで。


 今も、忘れられないだけで。


「ただ、その、男性とキスをしたことがある、だけです」

 僕は朝霞の反応を見てみたくて、そんなことを言う。彼は中身がとうに冷めているであろうコーヒーカップに口をつけて、私もですよと応えた。

「えっ」

「そりゃ、BL好きですからね。中学生のとき、もしかしたら自分はゲイなんじゃないかと疑いました。それで、友達としたんですけど」

「どうでした?」

「べつに。子供同士のキスでしたから」

 あと、それから。朝霞は言葉を途中で区切り、すまなさそうな表情を浮かべた。

「……すみません。煙草、吸ってもいいですか」

 僕は朝霞が喫煙者なのを、そのとき初めて知った。

「いいですよ」

 そこは煙草が吸える純喫茶だったので、テーブルの隅にある灰皿を自分のほうに引き寄せ、朝霞は煙草に火をつけた。鞄の中からピースの箱を取り出し、ライターで火をつける仕草は、手慣れていて、彼によく似合う行動だった。

「喫煙者だったんですね。言ってくれればよかったのに」

「言いませんよ。先生にお会いしてるときに吸うなんて、失礼ですから。作家さんが喫煙者のときは、一緒に吸いながら打ち合わせするんですけどね」

「吸えなくてすいません」

 言葉のおかしさを二人で笑ったあと、朝霞は話を戻した。

「……なんでしたっけ。そう、その友達と。……それ以上のこともしようとしたんです。でも、無理でした」

「無理とは」

 僕はネタになるかなと思いながら聞く。朝霞も僕の創作の糧になればいいなと思っているから話してくれるのだろう。

「勃ちはしたんですけど、イケませんでした」

「緊張で?」

「いや、やっぱり。…………男の身体に、興奮しなくて。相手の尻を見た瞬間に。……萎えたのを頑張って勃たせて。……向こうも、そんな感じでした。……………いや、子供でしたしね。下手だったんでしょう。色々。それで二人で、普通のAV観て、ヌいて終わりました」

 朝霞がここまで話してくれたのなら、僕も言わないわけにはいかなくて、さすがに親族だということは伝えないけれど、好きだった男性に、自分からキスした話をする。夜詩くんがとうに亡くなっていることも、僕は言わない。好きが、恋愛のそれだったのかどうかも、今ですら僕は分からない。

 ただ、すこぶる大切な人だった。かけがえのない、という表現では足りないくらいの、唯一無二の存在だった。

 打ち合わせの終わったあと、僕は一人で家路を辿りながら、言わなきゃよかったと後悔する。誰にも、言いたくない。言うべきではなかった。誰にも知られたくない。心の柔らかい部分。僕自身の、核に一番近いところ。朝霞は今後、僕を見る目が変わるだろうか。それが特に許せない。身勝手に、怒りすら感じる。

 わかってくれるな。あれは僕と夜詩くんだけの物語だった。人生なのに、物語だった。

 こうして、文字としては打ち明けているくせに。

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