はじまりの旅立ち
零
第1話
その日、荻野原朔は机の上の書類の山を前に呆然としていた。
三流大卒。成績、中の中。卒業後、中小企業に入社。社会人三年目。
自分のこれまでの経歴が走馬燈のように目の前で回る。どこにでもあるような平々凡々とした人生だ。
就職の時も、多くは望まず、適当に、自分が行けそうなところを狙って数社面接に赴いて、確かに、内定をもらったのは一社だけだったけれど。
それでも、もらえただけいいと、それなり前向きに仕事に就いて、それなり前向きに仕事をしてきたはずだ。別段、やりたい仕事があったわけでは無い。それも幸いした。あれが嫌だ、これが嫌だと言えるような人間でもない。それもある意味幸いした。
そうして、大きな成功も無いが、大きな失敗も無くやって来たのだ。
これまで。
朔の脳裏を今の上司、同僚、先輩、後輩の顔が過った。今までは誰の顔を見たところで、思い出したところで、別段どうということも無い人生だった。
「何で……」
(じゃ、君、よろしく頼むよ)
(朔ならできるだろー、俺ら、馬鹿だからできねーしさぁ)
(先輩、よろしくお願いしまーす)
そんな言葉を思い出す。
朔の傍を通り過ぎて、先に帰っていった者たちが、去り際に残した言葉の数々。
パソコンから顔を上げて見渡せば、部署にはもう誰もいない。昼休みや休憩時間に今日は飲み会だとか、コンパだとか、そんなことを言っていた。
楽しそうに、笑いながら。
まるで仕事なんか、最初から無いかのように。
今日のメインはそっちなんだというように。
ああそうか、今日は金曜日かと思っても、自分には何も関係ないように思えた。
(月曜日までに)
金曜の終業近くにその指定が来るということは、休み返上でやれということか。お前ならできるというセリフは、自分の実力を認めたわけじゃなくて、単にそうやって休み返上で仕事をしても、誰にも文句は言われないだろうということだ。そして、お前なら文句を言わずにやるだろうという、身勝手なイメージ。
未婚、一人暮らし、恋人募集中。 確かにそんな境遇では、すべては自分の気持ち次第だ。
真面目、日和見、お人よし。そして都合のいいことに自分の気持ちはそんな感じだ。
「要は、押し付けやすいってことか」
境遇にしろ、性格にしろ。
そう思うと、むくむくと胸の中に何かが湧いてくる。あたかも、真夏の入道雲のように。
「ふ、ざけんなよ、」
低く呻いて立ち上がり、朔は天を仰いで眼鏡をはずした。
「押し付けやすかったら押し付けていいのかよ、断れないやつになら押し付けていいのかよ、真面目でやさしいっていうのは損するフラグかよ。できるわけないだろ、僕一人でなんて、考えりゃわかるだろ、お前らやれんのかよ、やれるってならやれよ!僕に押し付けるなよ!馬鹿じゃないのか、馬鹿じゃないのか、馬鹿なんだろうよ!」
息継ぎなしでまくしたてる。
「そうやって人のいい奴が全員過労死するまで続ける気かよ、冗談じゃない冗談じゃない冗談じゃない!お前らが死ねよ!役立たずが!仕事する気ないなら会社に来るなよ!ニートやってりゃいいじゃないか。そんで社会から見捨てられて勝手に孤独死してろよ!」
はぁはぁと肩で息をして、大きく息を吸い、
「うあああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
全力で叫んだ。
そしてまた、すぅっと息を吸って、今度は椅子にどっかりと座った。
「そうやって、いい人の遺伝子がどんどん受け継がれなくなって、少なくなっていってるんだな。それで、傲慢でずるがしこいやつの遺伝子だけがどんどん残って増えていくんだ……そうか、世の中がいつまでたってもよくならないのは、そうやって、純粋な遺伝子が淘汰されていくからなんだ……そして、残ったずるい遺伝子達が利権を争って不毛な戦いを繰り返しているからなんだそうなんだ。下らない……こんな下らない世界なんか、滅んでしまったほうがいいんだ」
今度はぶつぶつとネガティブな言葉を並べ始めた。くすくすくすと、不気味な笑い声を交えながら。それでも、頬を濡らすのは涙だった。
自分の言っていることが滅裂なのはわかってる。それでも、言わずにおれない。そうでなければ、この気持ちをどこへやればいいのか。持っているには苦しすぎる。
「……やれやれ、聞くに堪えんな」
突然耳元にかけられた声に、朔はびくっとなって顔を上げた。
瞬間、ぐらりと視界が揺れて、足元がなくなった。
「な、なになに、地震?落ち……」
朔は慌てた。かといって、足元に何もないのではどうすることもできない。とりあえず、頭を庇ったが、衝撃は来なかった。
すると、
「落ちはせん。慌てるな」
聞き覚えのある声が聞こえた。
「その声、さっきの……」
そういって辺りを見回すが、誰の姿も見えない。手を振り回してみても、何にも触れない。
それでも、声は続く。
「そうだ。お前、ずいぶんな口をきいていたな。自分だけがいい人、とでも言わんばかりの」
「ぐっ……それは確かにそうだけど、でも、人間切れたい時だって……」
「そうやって、嫌な時は嫌だと断ればいい。それでも大量に押し付けられるなら、それこそ先ほどのように切れればいいだろう。にこにこ笑っているだけでは周りはつけあがるだけだ。断れないお前にも責任はあるのではないか?」
朔は言葉に詰まった。
「……正論ですね」
「……お前のそういうところは嫌いではないがな」
そういって、謎の男はくっくっと笑った。
「馬鹿にして……そういうお前も、何か僕に押し付けようっていうのか?そうだろう?そうに決まってる!僕に誰かが声をかけてくる時はいつだって面倒ごとを押し付けるときなんだ!」
最早支離滅裂の極みだと、朔は自分でも思った。
「何やらすっかり歪んでいるようだな」
相手の男もため息交じりだ。あきれているのだと思う。
思うけれど。
「歪んでないとは言わないよ……こんな僕に誰がした……」
「やれやれ……それでは、気分転換はどうだ?確かに、我がお前に声をかけたのは、一つの提案あってのことではあるが、」
「提案?っていうかあんた誰?もしかして、僕を助けに来た神様?」
阿呆なことを行ったと思う。だが、こうなったら誰にでも縋りたいという気分だった。
「残念ながら、神ではない。我は魔王レオナルド。まずは、我らの世界へようこそ、だな。」
そう、聞こえた瞬間、見知らぬ男の顔が、目の前で笑った
「おーい、生きてるかー」
またも男の声がして、朔は目を覚ました。
起き上がると、そこには知らない世界が広がっていた。少なくとも、自分の今の生活範囲にはこんな場所はない。
突き抜ける青い空。緑香る平原。深緑の森。遠くに霞む青い山々。
そして、見知らぬ青年。
「ここはどこ?君は誰?」
青年に向かって朔が半ば叫ぶように言うと青年はむっと顔を歪めた。
「その前にお前が名乗れよ」
不機嫌にそう言われ、そうか、と、納得する。
が、そもそも相手の青年の格好がおかしい。長い紫色のローブに背丈を超える長い杖。顔立ちはどことなく日本人っぽいが、髪の色は金色。緑色の大きな瞳。恐らくは、美青年の類に入るのだろう。年は朔と同じくらいか、少し年下に見えた。
「えっと、コスプレ?」
野外でのコスプレイベントでもしているのだろうか、などと考えた。普通にこれが現実だとすれば、そんなことくらいしか思い当たらない。なぜ自分がそんなところに紛れ込んでいるのかは分からないが。
「コスプレさん?って名前?」
うっかり相手を指さした朔に対抗するように相手も朔を指さしてくる。お互いに指さし合って止まっている。
間抜けな光景だと思った。間抜けだと思っているのは朔だけのようだったが。
「違ーう!僕は朔!えーと、サク・オギノハラ」
一瞬の沈黙の後、サクは相手が外国人であることを想定してファーストネームを先に自己紹介した。
まずは状況を知らなければならない。その情報を持っているのはおそらく目の前の彼だ。彼は名前を聞いてきた。それならそれに答えるのが先、という判断だった。
朔が名乗ると、意外にも青年はぱっと表情を変えて笑った。
「オレはシシル。シシル・ラインハルト。魔術師だ。よろしく」
そういってシシルは手を差し出した。
「ああ、ありがとう。よろしく」
その手を取ろうと手を伸ばすと、自分の手がおかしなものを装着していることに気づいた。
それは、金属の手甲そして、分厚い手袋。
「なー?」
改めて全身を見ると、西洋の鎧のようなものを着ている。
「おー、すげーよな、それ。アンタも魔王を倒しに行こうって感じ?」
「ま、おう?」
「そう、割といるんじゃないかな。魔王を倒しに行くぞーってやつ」
魔王。
聞いた覚えがある。
どこでだったか。
(我は魔王レオナルド)
「あー!」
サクは瞬時にそれまでの出来事を思い出した。
「へー、それで、魔王によってよその世界から飛ばされてきましたって話?」
シシルは木でできたジョッキに入っているエールを半分ほど飲んで言った。
二人はシシルの案内で出会った場所からほど近い小さな町の宿屋に来ていた。宿屋はレストランも併設していて、宿泊客はそこで食事をし、部屋に戻って寝泊まりする。
話を聞くと、どうやらこの世界は朔がいた世界とは全くの別世界であるらしい。朔の認識でいえば、ファンタジーの世界とか、剣と魔法の世界とか言われている世界だ。しかし、シシルに言わせれば逆にそれが普通で、パソコンだのテレビだの言ってもぽかんとされる。
そして、この世界には魔王がいる。正にゲームの世界のようなものだ。朔自身はゲームは小学生で卒業しているので、彼の頭の中のゲームの印象はそこで止まったままだ。
不思議なのは朔が最初から鎧と、旅用の軽装、剣、薬草、その他もろもろの基本的な装備を持っていて、あげくに結構な額の金貨まで所持していたことだ。もちろん、朔が元の世界から持ち込んだものではない。この世界にやって来た時に与えられたものというのが妥当な判断だろう。そうなれば、それを朔に与えたのは魔王ということなのかもしれない。あるいは、その魔王の何らかの思惑を退けた、誰か。
(どこの誰がくれたにしろ、その辺のロールプレイング・ゲームの王様より親切だ……)
どの程度の価値か知りたくて、金貨を見せた時のシシルのかなり驚いた反応を思い出しながら、サクはフォークの先でもてあそんでいたソーセージを口へ運んだ。
「うまっ」
パリッという音と共に肉汁が溢れ、絶妙な旨味を伴って口の中を満たす。思わず現状など全部忘れて、笑顔になる。食べ物の力は偉大だった。どんな状況でもやはり腹は減る。それが、美味しいもので満たされることの幸福感は本能的に心を潤す。食べ物の嗜好が自分の世界と似通っていたことは感謝以外にない。
「だろ?」
シシルが自慢げにそう言って、自分もソーセージを食べた。
「シシルはここの常連なの?」
自分のことのように得意げになるシシルを見て、朔が訊いた。
「まぁな。魔術師になる前は行商やっててさ。この辺はよく通ったから」
「行商人から魔術師に転職……何で?やっぱり、世界のために魔王を倒そう!とか?」
「いや、元々やりたかったんだよ。魔術師。で、その資金稼ぎに行商やってただけ」
「フリーターか……」
朔の呟きをシシルは適当にやり過ごした。元の世界ではそう言うのだろう、くらいには思ったのだが、口には出さなかった。
「なんつうか、ほら、魔術やりたくてもどこで何習えばいいかもわかんなかったし、その情報収集っていうかさ」
「そもそも何で魔術師?」
「小さい頃に見た魔術師の技が忘れられなくてさ。ほら、箱の中身をぱっと消すとか。逆に何もないところからハトが出てくるとか」
「………」
朔は、それは手品なんじゃないかと思ったが黙ってエールを飲んだ。
「うわ、これ、苦!」
思いのほか苦いそれに朔は思わずむせた。そもそもビールだってあまり得意ではない。苦味はまだ、朔にとって旨味にはならない。
「なんだー、酒弱いのかー。子供だなぁ」
そう言ってシシルは自分のジョッキを空にして追加をオーダーしていた。
酒自体に弱いわけじゃないと言いたかったが、そもそもまだ自分の限界量を知らないので黙った。余計なことを言うと、無駄に飲まされそうだったからだ。
「ま、それが魔術じゃなかったっていうのは早い段階で気づいたんだけどさ」
運ばれてきたエールを機嫌良さそうに口に運んでシシルは話を続けた。
(気づいたんだ)
朔は無言でビールより格段に苦いその酒をちびちびと口に入れた。
(実際に仕事してみたら、思ってたのと違った、っていうのは、どこにでもある話なんだなぁ)
「でもほら、オレ、魔術の才能あったから、このままでいいかーって」
そう言ってシシルはからからと笑った。
(軽い……)
何だか朔は自分が仕事のことで悶々としていたのがばかばかしくなってきた。
「それで?どうして魔王を倒そうとか?」
「んー、力試しっていうか、とりあえずの目標ってとこかな。一番は、」
そう言って、シシルは天井を仰いだ。しかし、その目はずっと遠くを見ているようだった。そして、ふっと目を閉じて、再び開いた。その目が静かに朔を見る。
「それと……世界を、見て見たかったから」
そう言って、急に少年のような顔で笑った。お前こそ、子供みたいじゃないか、と、朔は思ったが、何も言わなかった。
その顔が、あまりに眩しかったから。
自分も、そうやって元の世界の状況から飛び出せたらどんなにいいだろう。会社とか、実家とか、そんなものを全く気にせず、リュック一つ背負って旅に出てみたい。そんなことを思ったこともあった。もう忘れてしまっていたけれど。現実の何もかもが窮屈で、息苦しくて仕方なかった。誰かと繋がっている事は、安心するけど、淋しい。それは、誰かは居ても、自分を見ていないからだ。本当の、自分を。
「で?朔はこれからどうしたいんだ?」
考えているところに急に話を振られ、朔はびくっとして手にしていたエールを零した。それを慌てて拭きながらシシルを見る。
「どう?」
「だって、魔王のせいで他所からここへ来たとして、どうするんだ?魔王がお前に手下になれって言ったのでは無いようだし?」
「そりゃそうだ。だったら今頃魔王の手下だよな」
「そうそう。モンスター化して、今頃人を襲ってるかもなー」
そう言われて、朔は自分に牙や爪が生えて、マントをはためかせて人々を恐怖のどん底に突き落としている図を思い浮かべてしまった。
「まさかー、」
そう言いながらも、現実で自分を全く顧みない連中をそうやって追い詰めてやれたらどんなにいいかとか、うっかり思ってしまった。
「サク」
名前を呼ばれてはっとして
「お前、今、怖い顔してたぞ?」
そう言って、フォークでこちらを射すシシルを見た。
朔は息をつめ、無意識に顔をそらした。自分が情けなくなってきた。
いつからそんなことを思うようになったんだろう。これがゲームの世界だというのなら、幼いころゲームをしていたころの自分はどこへ行ったんだろう。
子供の頃、ゲームの世界ではいつも英雄だった。悪を倒して世界を平和に導く勇者。攫われたお姫様を助けに行く騎士。
ゲームだけじゃない。アニメだって、漫画だって、小説だって、自分が感情移入して、それが正しいと信じていたのは強くて優しい正義の味方。恐怖で人を支配するのは悪役のすることだ。それに、愉悦を覚えるのも。
シシルはあからさまに落ち込む朔にそれ以上何も言わなかった。代わりにフォークでソーセージを刺すと、そのまま朔の口に突っ込んだ。
「ふぐっ」
「難しいこと考えるより、今は美味い飯。そして、寝る。朝になったら、何かいい考えが浮かんでるさ」
そう言って、シシルはエールを飲み干した。朔はその様子をソーセージを飲み込みながら見ていた。
「……そもそもシシルが話を振ったんじゃないか……」
「そんな難しい顔になると思ってなかったんだ」
「そうか……」
「ほらまた難しい顔になる」
「そりゃなるさ。訳も分からず急に知らない所に来ちゃったんだから……そこでこれからどうするって言われても……」
自分の気持ちのことは隠してシシルの質問の件だけに答えた。
言いたくなかった。自分の内面の醜さなんて。
「大丈夫さ」
「何が……」
大丈夫なんだと言おうとして朔は目の前のシシルを見つめた。何がと問いかけながらも、何故だか、シシルが居れば大丈夫なような気がしていた。そんな朔の胸の内を知ってか知らずか、シシルは
「大丈夫だって。だって、俺がついてるんだからな」
と、得意げに言った。
見透かされたのかもしれないけれど、何故だか悪い気はしなくて、朔は思わず、小さく笑い声を漏らした。
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