紺碧のキャンパス

司馬波 風太郎

第1話

 私ーー綾瀬未来は手に持った筆を絵の具に浸し、心を込めてキャンバスに触れる。筆から生み出される色彩は、私の心を映し出すかのように鮮やかに広がっていく。 私にとって絵を書くことが唯一の心の救いだった。両親の仲が悪く、幼い頃に離婚した。私は母が親権を持ち、育てることになったが新しく出来た男にうつつを抜かして半ば育児放棄のような状態だった。私が大学までは親の責任として面倒を見るが就職したらもう関係を切り、関係を絶つと宣言された。

 まあこちらとしては幼い頃から男に現を抜かして育児放棄のような状態で自分を放置していたクソババアになんの未練もない。こちらとしても関係が切れるのなら願ったり叶ったりだ、せいせいするしね。

 そんな環境で育ったから私は他人に対して心を閉ざしがちであまり他人との交流をしなくなった。恋愛なんて持っての他で唯一好きと思える絵を書くことにのめりこんでいった。

 今日も私は大学に通うために借りた家で引きこもって絵を書いていた。家賃は母親が出している。本当に大学までは金銭面での面倒を見るつもりなのだ。

 ま、あの母親のことはどうでもいい、今は絵を書くことに集中したい。今度大事なコンテストがあるんだ。ちゃんと仕上げないと。

 そんなふうに思っているとインターホンがなった。誰だ、こんな時にと少し苛つきながら私は来客を確認する。


「なんだ、美咲か」


「なんだとはご挨拶だなー、いいから開けろー」


 やってきたのは私の数少ない友人の美咲だった。私はエントランスのロックを解除し、彼女を中に入れる。今自分が住んでいるマンションはオートロック完備のセキュリティの高い場所だ。あの母親、金は持っているので私が迷惑をかけてこないようにこういうものは与えてくるのだ。

 しばらくすると玄関の呼び鈴がなったので私は扉をあける。そこには私の唯一と言える友人が立っていた。


「よ、暇だったから遊びに来た~」


 明るい声で部屋に上がる私の友人。髪を金髪に染め、服を着崩した彼女は私のような根暗な人間と普通は関わることはないと思う。

 が、ある時彼女がテストの対策で困っている時に私を尋ねてきた時から交流が始まった。私の成績がいいことをどこからか聞いて助けてくれ~と泣きついてきたのである。

 それ以来の不思議な交流が私達の間で続いている。こんな風な人間だけど人がいやがることはしてこないのだ。後、助けたらきちんと恩を返すという義理堅い面もある。

 私はバイトをする必要がないくらい、母親がお金を出してくれているけど社会経験としてしておきたいといったら出来そうなバイトを紹介してくれたのだ。

 そして私の描いている絵を褒めてくれるところ、我ながらちょろいと思うがあまり友人がおらず褒められるということに慣れていなかった私にとってこれはとても嬉しいことだった。

 とまあ、いろいろな要素が重なって私は美咲に好感を持っており、以来友人関係が続いている。


「お~、今度コンクールに出すって言ってた絵もう出来上がってるじゃん」

「まだよ。完成してない。今仕上げの作業をしてるから邪魔しないで」

「も~、綾瀬は絵を書き出すとそれに集中して構ってくれなくなる~」


 ぶつぶつと言いながらふてくされる友人を私は無視して絵を書き続ける。いくら仲がいい美咲でも絵を書くことを邪魔するのは許さない。


「へー、へー。ほんと、綾瀬って絵のこととなると一切妥協しないよね~、なんというか取り付かれたように取り組むっていうかさー」

「……」


 美咲の指摘に私は黙り込んでしまう。


「……あり? 私もしかして綾瀬を怒らせた?」

「……いいえ、確かにあなたが思っていることは正しいわ。だって私にはこれしかないもの。だからあなたが言った通り取り憑かれたように書くの」


 そう、私にはそれしかない。他人との関わりを避け、心を閉ざしている私には絵を描くことしか心を開けることがないから。


「……」


 美咲は私の言葉を黙って聞いていたが、やがてなにも言わなくなり私の家にある漫画を読み出した。

 私もそれ以上美咲と会話をすることはなく、黙々と絵を書き続けた。



 そして美咲と会話してから数日後、


「なんとか完成させることが出来た」


 私の目の下には酷い隈が出来ていた。ここ数日寝ずにこのコンテストに出す作品を仕上げていたからだ。


「まあ後は結果次第だね」


 私はそう言って作品を提出する用意を始める。ここまで来たら後はもうどうとでもなれと言ったところだ。


「受賞できますように」


 無駄だと分かっていても緊張から私は祈らずにはいられなかった。



「綾瀬、やったじゃん! 受賞おめでとう!」


 私の目の前ではしゃぐ美咲。こんなに喜んでくれるなんて思ってもみなかった。


「そんなにはしゃがなくても。でもありがとう、ちゃんと結果を出せてよかった」


 あの絵はなんとコンテストでトップの賞を取ってしまったのだ。これには私が驚いた。多分どんな人間よりもこの結果に驚いているが私だろう。

 だがきちんと結果が出たことに関しては素直に嬉しい。今まで絵に取り組んできたことが無駄にならないでよかった。


「ちゃんと結果を出せるなんて凄いことだって。よし! 今日は私が綾瀬に食事を驕ってやる! なんでも好きなものを食べさせてやるぞー!」

「いや……いいよ。なんか申し訳ないし」

「遠慮しなくていいの! 今回の主役は綾瀬なんだから!」


 嫌に上機嫌な美咲、ここまで言われると断るのもどうかと思うのでここは素直に彼女の好意に甘えることにした。


「じゃあ素直にその好意に甘えることにする」

「お、今日は珍しく機嫌がいいね」


 美咲が意外そうに声を上げる。まあ、普段の私の様子から見ると今日の私はかなり穏やかなほうだろう。


「……まあ、普段の私の性格からしたら今の回答は意外かもね」

「あ、自覚あったんだ」


 私の言葉を聞いて、美咲はこちらに笑いながら嫌みような言葉を投げかける。相手の発言に悪意がないのは分かる、がいざ人から指摘されるとやっぱり苛々するな。

「……自分で自覚するのはいいけど人から指摘されるとやっぱりいらいらするわね」

「ぷっ……日頃の行いのせいでしょー、これに懲りたら自分を見つめ直すんだよー」

「あー、はいはい。分かりました。これを反省してこれから私は頑張りますよー」


 美咲の言葉に生返事を返す。しかし気分は悪いものではなかった。



「綾瀬~、本当におめでとう~」

「ああ! もう! どうしてこうなるの!!」


 私達は美咲のおごりで居酒屋で飲んだ後、帰路に着いていた。べろんべろんに酔っ払った美咲を私が抱きかかえながら。


 ……本当にこういうところはだらしない!!


 まあなにが起きたか詳しく説明する必要はないだろう。要は私の受賞を喜んだ美咲が許容量を考えず飲みすぎたのだ。おかげで私が彼女を抱えて連れて帰る羽目になった。


「本当にあんたは後先考えないで行動するのをやめてよ! いっつも私が迷惑してるじゃない!!」

「あ~はっはっは。人生これくらいしないと楽しめないって~。綾瀬も~もうちょゅと飲めばよかったのに~」


 うん、飲みたいわ。お前がこんなふうに迷惑かけなきゃな!!


「たく……ほら、あなたの家までは送るからしっかりしなさい」

「は~い、やっぱり綾瀬はやさしいね~」

「キモい!! 猫なで声で話すな!」


 完全に酔いが回った美咲を苦労して家まで送り届けなければならないことに私は深く溜息をついた。



「ねえ、あなた鍵はどこ?」

「どこだろね~、あはは」

「もう! 真面目に答えて! 家には着いたけど鍵がないとかはやめてよ……」


 なんとか美咲の家まで彼女を送り届けた私。酔っ払って好き勝手する彼女をここまで連れてくるのは地獄だった。もう二度とごめんだこんなことは。


「悪いけどバッグとかポケットの中を調べさせてもらうわよ。このままあなたを玄関先に置くわけにもいかないし」

「いや~ん、綾瀬のエッチ~、おまわりさんここに変質者がいますよ~」

「いいから黙ってて!!」


 この……! 酔いに任せて好き勝手なことを……。


 ふざける美咲を私は怒鳴りつけ、彼女の服やバッグを探り、鍵がないかを探す。


「あ、あった」


 バッグの内ポケットの中に彼女の部屋の鍵は入っていた。私はそれを取り出し、美咲の部屋の鍵を開ける。


「ほら早く部屋の中に入って! もう! 人の腰に抱きついてこないで!」

「えへへ~、綾瀬~」

「だああああああああああああああああああああ、もう! 面倒くさい酔っ払いめえ!!」


 酔っ払って私の腰に抱きついてきた美咲を強引に引きずって私は部屋の中に入る。部屋の中にはゴミ袋が何個かおかれていて飲み終わった缶ビールや食べ終わったカップ麺の容器は捨てられたりしている。


「うわ……めっちゃ散らかってる……」


 この子はやはり片付けというものはできないらしい。前に来た時も散らかってはいたからな。


「あなた、少しは片付けできるようになりなさいよ」

「ええ~、だって片付け面倒くさいじゃん。一人暮らしだし普段誰も来ないよ~、問題なし、問題なし」

「いや、今私が来てるでしょ! 普段も!」


 まったく本当にずぼらなのはどうにかして欲しい。こっちは来た時に毎回片付けているのだからたまったもんじゃない。


「だってぇ、綾瀬がやってくれるじゃん~。好き、好き、大好き、超愛してる~」

「ええい、気持ち悪い! その気色悪いしゃべりはなによ! とりあえず水を飲んで酔いを覚ましなさい。で、せめてシャワーは浴びる! ほら、水はここについでおいてあげたから」

「はあい」


 私の言葉に彼女は生返事で返しながら水を飲む。


「ぷはぁ」

「どう? 少しは落ち着いた?」

「うん、ありがとう。綾瀬のおかげで酔いはある程度醒めた」


 さっきよりは落ち着いた口調で美咲は私の質問に受け答えする。水を飲ませたのは少しは落ち着いたみたい。

 これなら様子を見て帰っても問題ないか。


「それはよかった。じゃあ私はもう少ししたら帰るね」


 そういった私の腕を美咲は強く掴む。私は振りほどこうとするが力が強く出来なかった。


「ちょっ……美咲、離して」

「嫌」

「は?」

「綾瀬、今日は帰らないで。泊まっていって」


 また駄々をこね出したのか、この子は。本当に困るな。


「もう、一体どうしたの? 悪ふざけしてるならやめて」

「悪ふざけなんかじゃない」


 強い口調で私の言葉を否定する美咲。その気迫に私は気圧されてなにも言えなくなってしまう。

 美咲は私のほうに歩いて来て、私の肩を掴んで壁に押しつけた。彼女の目が据わっていて怖くなってしまった私は彼女の手を振りほどこうとした。しかし彼女の力は強く私では振りほどくことができない。


「ちょっ! 本当にどうしたの! 本当にやめて」

「どう言おうか迷ってた時にこんな絶好のタイミングが来るなんて思ってなかったから離すわけないじゃん」

「言うってなにを!? こんな人を拘束するような真似しておいて!」

「綾瀬が逃げようとするからだよ」

「じゃあ言いたいことを普通に伝えたらいいでしょう! こんなことはしなくてもいいはず!」

「そうだね、それはごめん」


 美咲は少ししゅんとした表情で私を解放するとじっとこちらを見つめる。なにかを迷っているようだったがやがて意を決したように話を始めた。


「綾瀬、わたしはあなたのことが好き」

「え……」


 今、美咲はなんて言った……?


「……今の言葉は友達として? それとも……恋愛感情のこと?」


 頭は混乱しているが私はなんとか美咲に問いかける。


「もちろん恋愛としてだよ。私は綾瀬のことが恋愛対象として好き」


 きっぱりと言い切る美咲。その言葉に迷いはなかった。


「……いきなりこんなことを伝えても戸惑うよね」


 ぽつりと呟く美咲。私はその場の空気と美咲からの告白をどう受け止めていいか分からず、その場から逃げ出した。



(好きって……そんなことを言われても)


 大学からの帰り道、私は上の空だった。あの一件から美咲とは会っていない。顔を会わせることが怖い。


「好きって言われても……どう答えたらいいか分かんないよ……」


 今までの人生ここまで直接的に好きと言われたことはなかった。親からは邪魔な存在として扱われ、絵を描くことばかりしていた私には好意を向けてくれる人なんていなかったから。


「どうしたらいいんだ、私」


 逃げるように去ってしまったことが美咲を傷つけていないだろうかと今更になって考えている自分に嫌気がさす。ここ数日はずっとこんな感じだ。


「はあ……」


 深く溜息をつく。もうなにも考えたくないな。


「あ……」


 誰かの声が聞こえたのでそちらを振り向く。今、一番顔を会わせたくない人物がそこにいた。


「美咲」



「……」

「……」


 私は結局美咲を追い返すことができず、そのまま近くのカフェに二人で入店した。しかし気まずい雰囲気が流れ、場を支配する。お互いに話を切り出せずに時間が過ぎていた。


「その……綾瀬、この前はごめん。急にあんなこと言って」


 勇気を出して先に口を開いたのは美咲だ。開口一番出た言葉は謝罪の言葉だ。


「どうかしてた。わたし、酔った勢いであんなことするなんて」

「……あの時言ってた好きってことは本当なの?」


 私の言葉に美咲は頷く。


「酔った勢いでもなかったらあんなこと言えなくてさ……あの後なんて言って謝ればいいか分からなくて」

「なんで……」

「え」


 しどろもどろになりながら話す美咲の言葉を遮って私は彼女に質問する。


「なんで私なんかを好きになったの?」

「……それは言わないと駄目?」

「聞きたい?」

「うん」

「……正直はっきりとこうっていうよりだんだんそうなって言ったっていうほうが正しいかもしれないけどさ。なんか絵を描くことを頑張ってる綾瀬を見てたらいいなって思えてきてさ。私みたいにちゃらんぽらんに生きてる人間にとってなにか一つに必死に取り組んでる綾瀬はかっこよく見えた」

「……それだけ」

「うん」


 恋愛的な意味で好きと今まで言われたことがない私には美咲の好意に対してどうすればいいのか分からない。


「ほ、本当にごめん。この前のことは迷惑だろうし忘れてくれると有り難いかな」


 そう言って美咲は席を立って去ろうとする。まずい、このままじゃ伝えたいことが伝えられない! 


「ま、待って!」


 少し強めに私は美咲を呼び止める。

 好きという感情は私は正直理解出来ていない、今まで無縁のものだったから理解なんて出来はしない。でもここで踏み出せば……なにか変わるかなと思ってしまった。

 なぜなら美咲の好きという言葉にーーひどく心が高鳴っていた自分がいたから。


「綾瀬……?」

「いやあの確かにこの前のことはびっくりしたけどさ。その……逃げ出したのは好きって言われて私もどう応じたらいいか分からなかっただけだから。ただあの時みたいに力づくはやめて欲しい」

「あ、うん。本当にそれはごめん……。そうだよね、わたしは綾瀬の気持ちを全然考えてなかった。だから」

「もう謝らなくていいよ。でもさ、美咲の告白に対しての私の回答をちゃんと伝えないなと思って」

「え」


 私の言葉に美咲は呆けた声を出す。どうやら私が自分の告白に答えてくれるとは思っていなかったみたいだ。


「正直に言えば私は好きって感情は分からない。でも、あなたの告白を受けて嬉しいと思っている自分はいる。だから……あなたの告白を受け入れるよ」


 私の答えを聞いた美咲は呆気にとられている。やがて内容を理解したのか彼女は笑顔になった。


「ありがとう、綾瀬。わたしの気持ちに応えてくれて。嬉しい」

「……まあ、あなたならいいかと思っただけ。私のことを否定しなかったし」

「それって絵のこと?」

「そうね。まあそういう人なら伝えられた気持ちに応えてあげてもいいかと思っただけ」

「ふふ、そっかー。本当にありがとう」


 今までこんな経験をしたことがないからこれから美咲とどうなっていくのかは分からない。だけどそのことに不思議と嫌な気分はしなかった。

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