壺の中の楽園  ~壺中天地シリーズ・番外編~

七緒亜美@壺中天地シリーズ 発売中

壺の中の楽園〔前編〕

〔1〕


 黒諏の自宅兼事務所がある雑居ビルの一階には、レトロな雰囲気の喫茶店『ヴァルハラ』が店を構えている。

 店内に入ると、昭和時代あたりにタイムスリップしたかのような温かく年月を感じさせる雰囲気が漂っている。

 ビロード調の臙脂色のソファー席で俺と黒諏は少し遅めのランチを楽しんでいた。

 お昼時を過ぎたせいか、珍しく店内は俺と黒諏しかいない。

 目の前の黒諏輝良は、いつも眠たげでやる気のなさそうな雰囲気を醸しているが、実は凄腕の魔術師ウィザードだったりする。

 そんな彼と出会ってから怪異な事件に巻き込まれていくのだが、その一件はいずれまた話す機会もあると思う。

「喫茶店のナポリタンって美味しい所が多いけどさ、ヴァルハラのは格別なんだよね。どうしてこんなに美味しいんだろう?」

 フォーク片手に感動しながら呟く俺に、向かいに座る黒諏もオムライスに頬を緩めながら頷いた。

「分かるわあ。巴ちゃんの作るものは何でも美味いけどさ、ナポリタンは鉄板だよね。このオムライスも絶品だよ」

「確かに、美味しそう」

「一口、食べる?」

「え、いいの? 良かったら、俺のも食べて」

 互いの皿に手を伸ばし、俺達は同時に「うまーい」と声を重ねる。

 黒諏がカウンターの奥でスポーツ新聞を読んでいる店主の巴さんを振り向く。

「巴ちゃん! 本当に今日も最高だよ!」

 黒諏の声に彼女は新聞から顔を上げ、こっくりと頷くと親指を立ててみせる。

 年齢は60代後半くらい、プラチナヘアが印象的な巴さんは寡黙な人で、黒諏曰く彼女は薙刀の範士なのだという。範士といえば武道の最高位の称号で、そう簡単になれるものじゃない。

 それだけでなく、若い頃は有名なレディースの総長だったなんて噂もあるらしい。

 常連のお客さんがその事を訊けば、彼女は「犯罪行為や喧嘩に明け暮れてたわけじゃないよ。アタシはただ単車を転がしていただけさ」と飄々とした様子で返されたようだ。

 まさに女傑という言葉がぴったりな巴さんだが、彼女の淹れる珈琲や、料理などはどれも美味しくて黒諏が足しげく通うのも分かる。

 食後の飲み物が運ばれてきて、黒諏はアイスコーヒー、俺はクリームソーダを味わう。

 ふと黒諏が思い出したように言う。

「そういえばさ、小鳥遊君がバーテンダーになるきっかけってあったの?」

「きっかけ、かあ……」

 ふいに小さい頃の記憶が甦った。いつも着流しで切子のお猪口を傾け、ほろ酔いでご機嫌な様子の祖父が俺の頭を撫でる姿が浮かぶ。

「涼は、小鳥遊家の血筋を濃く受け継いでるなあ」

 そうお祖父ちゃんが笑い、彼の小指につけられたヴィンテージのシグネットリングがキラリと光った――……

「……お祖父ちゃんだな」

 黒諏が僅かに首を傾げ、俺は少し溶けたバニラアイスをソーダスプーンで掬いながら言う。

「父方のお祖父ちゃんなんだけどさ。凄くお酒が好きな人で、お祖父ちゃんというとほろ酔いの姿を思い出すんだ」

 今思えばお酒に強い人だったのだろう。アルコール中毒といった感じではなく、お酒そのものが好きだったのだと思う。お酒が入るとニコニコと機嫌良く酔っていたのを覚えている。

「お祖父ちゃんの家は代々商売をやっていて、早いうちに俺の父さんの兄……伯父さんに事業を任せて、自分は隠居して、骨董品の店をやっていたんだ。その骨董店もほとんどお祖父ちゃんの趣味の延長でやっていたみたい」

「へえ、悠々自適って感じで羨ましいね」

 黒諏の言葉に俺は小さく肩を竦める。

「なんかすごく自由人だった気がする。お祖母ちゃんが『若い頃は、ほとほとあの人には手を焼いたのよ』って言ってたし……」

「小鳥遊君に似てるなら、きっとお祖父様も美丈夫だったろうし、色々な意味で手を焼いたのかもね」

 そう黒諏が悪戯っぽく笑みを浮かべ、俺は「そうなんだよ」と頷く。

「なんか、凄くモテたみたい。でも、お祖父ちゃんがよそ見をするとかじゃなくて、黙ってても女性が寄ってきてたらしくて、お祖母ちゃんがヤキモキした、って笑ってたなあ」

「それはお祖母様も大変だったね」

 そうだねと相槌を打ちつつ、お祖父ちゃんの営む骨董品店で、初めてカクテルブックを見た時のことを思い出す。

 色とりどりのカクテルの写真に「これ、ジュース? 美味しそう」とお祖父ちゃんに言ったのを覚えている。

 お祖父ちゃんは、俺を膝の上に乗せて「これはカクテルっていって、全部お酒だよ」と俺の頭に手を乗せてカクテルのことを教えてくれたのだ。

 グラスに注がれた色とりどりの美しいカクテルの数々に、俺はすっかり心を奪われてしまったのだ。

「お祖父ちゃん、これ飲んでみたい!」

 そうチェリーが飾られた夕焼けの色をしたカクテルを指させば、お祖父ちゃんは「ほう」と白いものが混じった整えられた顎鬚を撫でて頷く。

「涼は目が高いな。これはマンハッタンというカクテルの女王と言われるお酒だ。こいつは、バーテンダー泣かせとも言われているんだ」

 そうお祖父ちゃんが悪戯っぽく片目を瞑り、俺が「飲むと泣いちゃうの?」と首を傾げれば彼は呵々と笑った。

「確か、マンハッタンってシンプルなんだけど、凄く繊細なカクテルって聞いたことがあるよ」

 そう黒諏が言い、俺は「少しのさじ加減で味付けが大きく変わるから、オーダーされるとちょっと緊張するよ」と返す。

「小鳥遊君でも手こずるカクテルがあるんだなあ。ちょっと飲んでみたいかも」

「よすがのメニューにもあるし、今度作ろうか?」

 黒諏が「じゃあ、次に行った時にオーダーするよ」と少し目尻の垂れた瞳に笑みを滲ませる。

 俺はバニラアイスの溶けたメロンソーダをストローで吸い上げながら、お祖父ちゃんとの懐かしい出来事を追想し、ふと「そういえば」と顔を上げる。

「お祖父ちゃんってさ、急にいなくなっちゃったんだ」

 黒諏が不思議そうに目を瞬かせた。


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