一軍女子かく語りき
彼女曰く。
それはついこの間──僕たちが二学年に進級して間もない、四月二週目の金曜日のことであったという。
その日彼女が自宅のある
小津田はいわゆる鎌倉街道の途上に位置する、周囲を山に囲われた歴史情緒あふれる一角である。日没までにはまだいささかの間があったが、周囲にはすでに闇の気配が濃厚に漂っていた。
ハードな部活の練習のおかげで、彼女はくたびれきっていた──が、住み慣れた自宅周辺の異変に気付けないほど、鈍麻になってはいなかった。
静かすぎる。
川村さんはこう補足した。「いつも私が通りかかるたびにキャンキャン吠える、大村さんちのバカチワワの声さえしなかったんだよ。散歩時でもないのにさ。……なんだか知らない間に、全然別の世界に連れてこられたみたいだった。自分の住んでる世界にとても良く似てるんだけど、何かが違ってる。なんていうんだっけ、こういうの」
「パラレルワールド?」
「そうそう、それ」
さりとて今更バスに乗って引き返すわけにもいかず、彼女は怖々自宅に向かって歩き始めた。
春の陽気と呼ぶにはいささか生暖かすぎる、薄気味の悪い夕暮れだった。空気は心なしかほのかに獣臭く、そして見渡す限り誰一人として通るものもいない。鎌倉街道は片側一車線道路とはいえ、隣接する自治体へ抜ける交通の要である。車一台通らないというのは尋常のこととは思えなかった。
そして、彼女が横断歩道を渡ろうとした時──その声は唐突に聞こえてきた。
「声……って断言していいのかなぁ。確信をもって言えないけど、とにかくその時には声みたいに聞こえたの」
「その声は、なんて言っていたんですか?」
僕の問いに、彼女はかぶりを振った。「意味あることは、まったくなんにも。ただクィーックィーッって、甲高くて少しかすれた声で泣いていただけ」
「うーん、それって鳥か何かの鳴き声だったんじゃないかなぁ」
「それは絶対に違う」
いささかムキになって、彼女は反駁した。「絶対に鳥なんかじゃないよ。だってあんな声を出す鳥、この野羽周辺には生息してないもん。本当だよ。私のパパ……お父さんはバードウオッチングが趣味で、私も休みの日なんかは、ちょくちょく近所の山なんかに連れて行ってもらったんだから」
ともかくその声は、地元で採れた野菜や花を販売する、直売所の小屋の前を通る脇道の方から聞こえてきたのだという。
道といっても、それは舗装さえされていない、ごく細い山道だ。
周囲には街灯ひとつない上に、竹や木が黒々とした枝葉を広げてそびえている、昼日中でも薄暗い山道。彼女自身、そんなところに道があること自体、それまでついぞ知らなかったのだという。
そんな得体の知れない道の奥から聞こえてくる、これまた得体の知れない声──しかもそれが、だんだんと近づいてくる!
気がつくと彼女は、自宅まで全力疾走していたという。ラケットケースを胸に抱いて、全身にわだかまっていた部活動の疲れも忘れて。
「それ以来、その声はまだ一度も聞いていないんだけどね」彼女は話を、そう締めくくった。
「だけど正直に言って、あの前を通るのは今でもちょっと怖い。もしあの時、逃げるのが少しでも遅れていたら、どうなっていたかと想像すると……ン、どうかした?」
重々しく何度も頷きながら、僕は言った。「それじゃ、異変と言えるのはその怪しい声だけで、家族や友達には何の変化もなかったわけだ。よかったですね、フィニィ的な世界に転移したわけじゃなくて」
川村さんは眉根を寄せた。「なぁに、それ」
「いや、なんでもないです。僕の好きなSF小説の話ですよ」
『盗まれた街』の筋──侵略的宇宙生物が住人に成り代わった街からの脱出譚だ──を彼女に説明するのは面倒だったし、それに鼻持ちならない衒学にも思えた。
こんな益体もないことを言える程度には、僕は川村さんに慣れ始めていたし、それに──怯えている本人を前にして不謹慎極まりないけれど、少し浮き立ってもいた。
山から聞こえてくる怪しげな声! なんて素晴らしいシチュエーション! これぞまさに、僕が恋い焦がれてきた民俗学の世界そのものではないか! 今までうんざりするほど持ち込まれてきた、どっかの本やサイトから引き写してきたような怪談話なんかより、ずっといい!
なんなら今すぐにでも、実地調査に出かけてもいいくらいだ。
そう思いかけた途端、窓を打つ雨音に気づく。うん、我慢我慢。
一人興奮する僕は、“お客様応対”をしばし忘れていた。
またしても沈黙。雨音とパイプ椅子の軋み、それに体育館でバスケ部員たちがボールを打つ音が、狭い部室をしばし浸した。僕はふと、部室の片隅に置かれたソファに一瞥をくれた。そして己の気の利かなさ加減に嫌気を覚えた。
村田先生が後進に残していったものの一つであるソファ。万難を排してでも──そう、たとえ勢いよく斜めに傾けて、上にのっているものを床に落っことしてでも──、来客にはこっちをすすめるべきだった。詰め物がはみ出ているとはいえ、ギーギーとうるさいパイプ椅子なんかよりは、遥かに座り心地はマシだったろうに。
口火を切ったのは、またしても川村さんだった。うじうじと遅すぎる後悔をする僕をよそに、彼女はこう言った。「この世のものじゃない何かの仕業と判断するのは、やっぱり早計かな」
「い、いえいえ。そんなことは……ただ、そうですね。疑うわけじゃないんですけど、何かもう少し具体的な根拠がほしいですね」
怒らせるんじゃないかという僕の危惧とは裏腹に、彼女はもっともだと言うように頷いてみせた。「それじゃあ、その根拠について話すね……知り合いから聞いた、あの小津田に伝わる血生臭い伝説のこと」
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