一 桜   春愁(二)

「お下がりを」

 背の高い方の人影が、もうひとりを庇うようにして前に出た。

 張りのある明朗な男の声だった。敬語を使っていたのはこの男の方だ。後ろの人物の護衛なのかもしれない。

白桜しろざくらの武家の者だな。白桜に危害を加える気はない。邪魔をしないでもらおう」

「そう言われて、夜中に神社に来るような怪しい奴らを放っておくわけにはいかない」

 水央みおは刀の柄を強く握った。

 相手の男は帯から、畳んでいた三節棍さんせつこんを取り出した。

 三節棍の両端を持ち、男が構える。

 三節棍は三つの棍を鎖で連結した武器だ。真ん中の棍を防御に使ったり、両端の棍を振り回したりして相手に打撃を与える。

 殺傷力自体は低いものの、当たれば打撲程度では済まないだろう。おまけに相手は背が高く、水央より体格に勝る。棍の攻撃範囲を最大限に使われたら、体格も併せてかなり不利だ。

 気は抜けない。水央は刀を抜いて構える。

 実戦は初めてだ。刀の重みが両腕にかかる。

 相手の闘気が水央の肌を刺す。この威圧感は鍛錬を積んだ戦士のもの。家中の武士と稽古してきた水央にはわかる。圧されては負けてしまう。

 相手はこちらの出方を窺っている。

 水央は柄を握る手に力を込め、斬りかかった。

 振り下ろした刀を男は真ん中の棍で防いだ。金属同士が触れ合う甲高い音が響く。もう一度刀を振り下ろす。続けて横から薙ぐように刀を振るが、どちらも防がれた。

 相手が棍の端を持ち、大きく振った。真ん中と末端の棍が鞭のようにしなり、水央へ襲いかかってくる。

 素早く身を引く。男は続けて二回、棍を振り回した。

 どちらも避ける。棍が風を切る音が鼻先にかかる。水央は男が棍を振り終わった隙をついて刀を突き出した。

 男は水央の攻勢に素早く応対する。再び棍の両端を手に防御姿勢を取られ、刃を受け止められてしまう。水央は何度も突きを繰り出すが、すべて防がれた。

 水央と男の攻勢は入れ替わり続け、攻防を繰り返す。

 このままでは勝てない。水央は刀を下から男へ向けて斬り上げた。男の脇に刀が肉薄する。

 やった、と思った瞬間、男は端の棍を刀に当て、刀の動きを逸らしていた。水央は思わず動揺した。それが隙を生む。

 もう片方の棍の先が、水央の顔めがけて突き出された。

 避ける。が、間に合わない。

 水央の頬を棍が掠った。びりっとした痛みが走る。

 そのまま男は身を捻り、端で持った棍を大きく振り回す。

 水央の腹に、しなるように振りかかった棍が当たる。体が破裂したかと思うほどの重たい衝撃が叩き込まれた。

 水央は仰け反る勢いのまま地面に投げ出された。

「――そこまでだ!」

 ずっと戦いを見守っていたもうひとりが強い静止をかけた。

 男も水央も、お互いに体が固まり動きを止めた。

 男はあっさりと三節棍を畳んで再び帯に差し込んだ。

 水央は肩で息をしながら、何が何だかわからないまま二人を注視した。静止をかけた男がこちらへ歩み寄ってくる。

「……筋は悪くない」

 あまり嬉しくない褒められ方だ。水央は負けたのだ。

 彼が止めなかったら、また彼らが本気で水央と争う気があったらどうなっていたか。彼らの情けで生かされたようなものだ。

 主人らしき男は水央の前で屈み、水央へ向けて手をかざした。

「何をする気だ?」

「じっとして」

 男の両の手のひらから光が溢れた。

 輝く文字と図形が描かれた陣が手の前に出現する。

 途端に水央の頬と脇腹がじんわりと温かくなった。水央は思わず先ほど傷を作った頬に手を当てる。

 柔らかい頬の感触があるだけだった。

 傷がない。血も流れていない。打たれた腹も重い痛みがそっくり消えていた。

 今の男の手から溢れた光と関係があるのは確かだろう。

 水央は信じられない思いで目の前の男を見た。

 生き物の傷を癒す特別な力を持っているのは、この世でただひとりとされている。

「こうすれば話が早い」

 男が立ち上がる。水央も続けて立った。

「お前……! いや、貴方は、四聖天しせいてんなのか!」

 困惑と驚愕が篭った水央の叫びは、春の夜風に攫われて消えていった。




 水と緑が溢れるこの地を、人々は古清水こしみずと呼んでいる。

 森と海に囲われ、幾筋もの川に潤う実り豊かな土地である。

 古清水には小さいながらも都があり、自然や生き物たちとともに暮らしてきた。自然の恩恵に感謝することが、この地に生きる人々の美徳だ。

 人はこの地に咲く白い花をさいかみとして崇めてきた。

 その塞ノ神と古清水の地は、四聖天という四柱の守護武神に守られている。豊穣や生死をもたらす神として、塞ノ神とともに信仰を集めていた。

 四聖天の中でも、主神の白蓮はくれんは生と豊穣を司り、塞ノ神を統べるとされている。

 四聖天と、四聖天に仕える霊獣たちは、人間には扱えない奇跡――「術」を扱う。言い伝えでは天候を操り、水や火、風などの自然現象を操ることさえできるという。

 中でも、生物の傷や病を癒す術は、生誕の神である白蓮にしか扱えない奇跡だと言い伝えられていた。




 薄い雲にかかっていた月が顔を出し、白桜神社しろざくらじんじゃの本殿前が明るく照らし出された。

 水央は改めて、四聖天と彼に仕える霊獣という闖入者二人と向き合った。今までは暗さと逆光でわからなかったが、月に照らされたその顔を見て、水央は内心で驚いた。

「僕は東方守護の四聖天白蓮。名は常盤ときわ

 癒しの術を目の前で使ってみせた男が名乗る。

 髪と瞳は森の色に似た深い緑青で、結い上げた長い髪に、蓮の花を象った簪を挿している。

 濃緑色と白緑色の高価そうな着物を品よく着込んでいた。立ち振る舞いにも高貴さからくる品徳がある。神だといわれなければ上流階級の出自の者だと思うだろう。

 色白で線が細い中性的な容姿は、男とわかっていてもつい見惚れてしまうほどだ。思わず溜息が出るほど端麗な容貌である。

 その容貌は先ほどから不機嫌そうに眉が寄っている。

 無表情にも似た冷たい瞳は他者を射竦めるような鋭さがあるのだが、水央の目には物憂げに沈んでいるようにも見えた。

「俺は白蓮様の家臣で、さかきと申します」

 先ほど水央と戦った背の高い男が、水央に丁寧に頭を下げた。

 黒髪を後頭部でまとめ、濃緑色の動きやすそうな衣服に身を包んでいる。切れ長の目元は涼しげで、口元は微笑んでいた。

 清廉かつ誠実そうな武人という印象だが、堅苦しさは感じない。微笑む口元がどこか人懐こそうなのだ。

 四聖天の家臣ということは、彼は霊獣だろう。

 霊獣は人語を解し、四聖天に仕える神聖な獣だ。

 全身真っ白な毛を持つ動物が霊獣なのだが、今は人に化身しているようだ。霊獣は都の随所の塞ノ神の傍にいて、花守をする姿を見かけることもある。

 水央も二人を見て名乗る。

「白桜の武家の棟梁・時雨しぐれが嫡男、水央と申します」

 父親の名前を出すのは嫌だったが、個人的な感情ひとつで彼らに失礼な態度は取れなかった。

「ここの宮司より、不審者を見かけたとの知らせを受けてここで張り込みをしておりました。その、お二人が件の不審者だと思い、斬りかかってしまって申し訳ありませんでした」

 水央は二人に向かって頭を下げる。

「慣れぬ礼を取るくらいなら、普通にしていて構わない」

 常盤は少し呆れたような声音でそう言った。

 慌てて普段は使わない礼容を取ったが、水央が堅苦しい言葉遣いに慣れていないことを早々に看破されてしまったらしい。

 唐突に訪れた貴人に対して礼も取れない己を、水央は初めて恥じた。

「ところで、不審者というのは?」

 常盤が眉を吊り上げた。まるで水央が睨まれたような気分でいたたまれない。水央はその凄みに若干引きつつ、三日前に宮司が見かけた不審者について二人に話した。

 常盤と榊は顔を見合わせ、頷き合った。二人は何かに納得しているようだが、水央には何のことかわからない。

 常盤が片手を胸に当てた。

「三日前、体に異変があった。僕の体は眷属の塞ノ神たちと繋がっている」

「繋がっている?」

 神と常人の感覚は違うだろうから、水央には常盤の言葉がいまいち理解できない。榊が補足した。

「塞ノ神に何か異変があれば、主人は感じ取ることができる。それが悪い異変であれば、お体を壊されてしまうのだ」

「よくも悪くも、塞ノ神の影響を受けるってことなのか」

 水央がそう言うと、二人は頷いた。

「この不調は、おそらく呪詛じゅそによるものだ」

 呪詛なんて伝承や物語の中でしか聞かない言葉だ。

 呪いは狙った相手に対し、毒や病魔のような壊滅的な影響を与える術だとされている。時には死に至るものだと聞いたことがあった。

「それって、体は大丈夫なのか? つらいんじゃないのか?」

 常盤の顔は青白い。色白だし、月の光のせいもあると思っていたが、そのせいばかりではなかったのだと今気づいた。

 常盤は意外そうに目を少しだけ見開いた。

「お前は、白桜ではなく僕の方を心配しているのか」

 どうやら驚いているらしい。こんなに表情の変化に乏しいのは、愛想がないという以前に感情があまり表に出ない性質なのかもしれない。

「もちろん白桜だって心配だけど、お前も同じだけつらいのかもしれないなら、心配するのは変じゃないだろ?」

 常盤は水央を見る目を細めた。

 不躾すぎたかと思ったが、常盤の瞳はどこか痛みを堪えるようにも見えた。呪詛がそれほどつらいのだろうか。

「とにかく、三日前に何者かが白桜に呪詛をした。宮司が見たのは呪詛の術者だろう。呪詛をはらわなければ、白桜の生命力も神力も呪詛に奪われ、衰弱して枯れてしまう」

「そんなことになれば、我が君も無事では済まない」

 榊が常盤を心配するような表情で見下ろす。

「我が君はお体を壊されている。他の者に任せればよいものを、御自らどうにかされると言ってきかぬ」

 ならば、体調は悪いままなのだろう。

 癒しの術を目の前で使ったことからも、常盤が四聖天白蓮であることは疑いようがない。

 それに、嘘をついているような声音や挙措きょそではない。人を見る目に自信があるわけではないが、直感でこの二人は本当のことを話していると水央は感じた。

 四聖天に協力すれば、普通の人間ではどうすることもできない白桜への呪詛を止めることができるかもしれない。

 父の時雨さえどうにもできないものを、四聖天と知り合った水央ならばどうにかできるのだ。

 水央は決意を込め、胸の前で拳を作る。

「俺にできることなら何でもする。どうすれば白桜の呪詛を祓えるんだ?」

「四聖天ならば術で呪詛を祓うことができる。ただし、もっと白桜に近づかないといけない」

 本殿の後ろから覗く白桜の枝へ、常盤は視線を向けた。

 白桜の丘は禁足地だ。花守の武家以外は立ち入ることができない。白桜は常に二人以上の武士で守っているため、忍び込むことも難しい。それは水央が一番よく知っている。

 どうやって常盤を白桜の傍まで誘うかが問題だ。

 一族郎党を説得しても入れてもらえないだろうし、まさか四聖天を連れてきたとは言えない。信じてもらえないだろう。

 特に父の時雨を誤魔化すことは難しい。

 水央の言葉など絶対に聞き入れないはずだ。

 時雨が不在のときならば、水央が代わりに一族を仕切っても誰も変には思わない。

 実際、父に用事があるときはそうしているのだ。どれくらい水央が父不在の穴を埋めようと、父に顧みられたことはないのだが。

「親父が屋敷の外に出ていてくれたら、俺が花守の隙をついて二人を中に入れられると思うけど……」

 時雨は花守から外れる自由な時間も、あまり外出はしない。

どうにか時雨を屋敷から一時的にでも外出させることはできないだろうか。

「――祈年祭きねんさい

常盤はしばらく考え込んでから、突然呟いた。

「祈年祭は東方の白花神社しろはなじんじゃで帝が行う儀式だ。白桜の武家当主も毎年参加する」

 水央の頭の中で、悩みの霧が一瞬で晴れた。

「そうか! その日の夜の不在を狙えばいいのか。確か今年の祈年祭は十日だったよな」

 祈年祭は、帝自身が塞ノ神信仰の総本山である白花神社で、今年一年の豊穣を祈願する儀式だ。

 白桜の武家は皇族と縁深い家柄で、殿上を許される名家だ。

 帝の家臣として当主は出席する義務がある。その間は水央が家を仕切ることができる。その日を狙うしかない。

 十日といえばあと二日後だ。

 その日までに、水央が問題の時間に白桜の丘の花守に回れるよう手を回しておこう。同じ時間に勤務する武士には、何かと理由をつけて追い払うことができるはずだ。

 祈年祭が行われる夜を決行日にすると、常盤と決めた。

 常盤は白桜の丘に古くから棲む花守の霊獣白鷹を呼び出し、必要なときはお互いに連絡が取れるよう、水央の呼びかけに応えることを命令した。

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