リフレクト

真鶴コウ

リフレクト

 あの子との最初の記憶は、


今まで生きてきた中で一番完璧な春の日のことで


日向ぼっこをした。


学校の、屋上で。




 その日の5時限目の授業が先生の都合で自習になった。


トイレに行こうと席を立つと、


まるでいつものことのように私に寄り添いついてきた。




 名前は、仁奈。


 この高校はクラス替えがないので3年間同じクラスのメンバーだが、


たまに言葉を交わす程度でそんなに仲のいい子ではなかった。


だけど、学年が上がり、新学期になり、たまたま席が隣になった。


たった、それだけの縁だった。




 今思えば、なぜ屋上へ続く階段のカギが開いていたのか。


すぐに教室へ戻らず、なぜあんな危険を冒してまで(今では珍しいくらいに厳しい学校で、こんなところをみつかったらまず停学だ)


あの子と一緒にいようと思ったのか。


魔が差したとしか、思えないのだ。




 いけしゃあしゃあという言葉があるが、


堂々と歩いていると授業中だろうが案外怪しまれない。


行く当てもなく二人で校内を散歩しているうちに、屋上へたどり着いた。




 2人で屋上のど真ん中を陣取り、


互いの頭がぶつからない様気をつけて、大の字になった。


伸ばした手足が解放されて、


少しのめまいを感じながらどこまでも伸びていくような気がした。



この時、自分が随分と窮屈な思いをしていたことを知った。


何が窮屈だったのか。


全部、だ。




 5月を嫌いな人なんて、この世にいない。


空は高く澄み渡り、色が目の奥から突き抜けていく気持ちよさ。


背面に触れるコンクリートは自分をまるごと温めた。


親鳥の羽毛の下は、きっとこんな感じだ。ふわふわの丸い雛になった気分だ。




 校庭からは体育の授業をしている生徒たちの黄色い声と


指示を伝える笛の音が鋭く響き、


音楽室からはピアノに合わせた合唱が遠く聞こえてくる。




 きっと、人生の一時だけ訪れる、ぽっかりと口を開けたような時間の真空。


そこにふたりででいるような、


ふたりだけしかいないような、


世界からはぐれたと言うと大げさだけれど、


それくらい、現実味のない切り離された時間だったのだ。




「……痛って」




頭上で小さく声がして、むくりと仁奈が起き上がる気配がした。




「どうした?」




私も体を起こして様子をうかがう。


仁奈は手持ちのポーチを引き寄せ、


制服のブレザーのボタンをあけながら言った。




「スカートにひっかけちゃった……」




私は四つん這いで彼女の横へ移動し、おなかを覗き込む。


仁奈はスカートのファスナーを下げ、ブラウスを引っ張り出してまくり上げる。


そして、お腹からスカートを少し浮かしてから腰までずらした。



「何を……」


引っ掛けたの? とたずねようとした一瞬、強い光が目を刺した。


かと思うと、真っ白な仁奈の肌が日差しを吸い込むように浮かび上がる。




その中央に突き刺さった、銀色のアクセサリー。




おへその淵にスワロフスキーの星が飾られて、シャフトが肌を貫通し、


銀色のキャッチが乱反射していた。




が、そのシャフトに接する周りの肌は


ピンク色の肉が少し剥き出し、赤くただれているのだった。




息をのむ私を無視して


「へそピ、開けちゃった」


と、仁奈は微笑む。


ポーチから携帯用マキロンを取り出し、ティッシュに染み込ませてから


ピアスの上からそっと押しあてた。




「あったかくなってから開けたから、ちょっと膿んじゃうんだよね」




「痛い? 痛く、なかったの?」




沁みる、と、はにかみながら仁奈は作業を続ける。


私はピンク色に染まるティッシュと傷口の炎症が収まるのを見守る。


そうしているうちに、仁奈はぷっと噴きだした。




「なんて顔してるのよ」




そう言ってクスクス笑う彼女の顔に、そういえば……と、思う。


初めてしっかりと顔を見たような気がする。



切れ長の目に、長い睫。白い肌に浮いたそばかす。


気がつかなかったけど、美人なのだな。


赤茶色のストレートボブは、かき上げる度に彼女の香りがたち


私の胸はざわついた。




「こうしてね、こまめに消毒して手入れしてないと


キレイに穴が開かないんだけど、学校じゃなかなか、ね」




何度か消毒液を押し当てながら仁奈は言った。


まるで、その銀のアクセサリーを育てているような


慈しむような表情で、傷の様子を見ているのだ。




「なんで 開けたの」


「変かな」


「変じゃないけど。仁奈って、そんな風に見えないから」


「そんな風?」




仁奈が屈託ない顔で私を見る。


その目をみていると、


なんだかだんだんと自分が馬鹿な質問をしているように思えてきて、


何とも言えない気持ちになる。




「こ……、こんなとこに開けたって、見えないじゃない」




私はなにかを取り繕うように、言葉をつづけた。




「痛い思いしてせっかくあけたのに、もったいないよ」




素朴な疑問だった。


仁奈は首をかしげて、言った。




「見えたら、停学になっちゃう」


「だから、卒業してから耳に開けたらいいのに」


「それじゃあ、意味がないじゃない」




意味?


今度は私が首をかしげる番だった。


仁奈の言っていることがいまいちうまく汲み取れない。




 校則違反をして、見つかると困ると言う。


意気がって自己主張をしたいわけでもないらしい。


なら、なぜ身体に穴をあけるようなマネをするのか。




教室でも目立つタイプの子ではない。


間近で見るまではどこにでもいる地味で普通の子だと思っていた。




それが、こんなに……。




こんなに?




「誰にも見えなくていいの。私だけが気に入っていれば、それで」




指先で優しくスワロフスキーに触れながら仁奈は言う。


私にわかる言葉を探してくれていることが伝わってくる。




「何気なく入った雑貨屋で一目惚れでね、


どうしても、今、この星をここに飾りたかった。


別に、深い意味はないの」




そして、私は知る。


こんなに小さな低音がよく響く優しい声をしていたのだ。




「それに、小気味いいわよ。


いい大人らがリボンの形やスカート丈にまでやんややんや


なんか細かく仰ってますけど、


馬鹿ね、こんなところにピアスが刺さっていてよって。


あなたもやってみたら? 一緒に選んであげる」




小さないたずらっこのように笑うその表情は、決定打だった気がする。


気持ちのどこかに、ヒビが入る。


そこから光が差し、中に居た別の自分が目を覚ます。


私はこの時に、それをきちんと、自覚してしまった。




「いやだよ、痛そう」


「痛いわよ」


「じゃあ、いやだよ」


「女に痛みはつきものよ?」




私はぐっと言葉を飲んだ。


仁奈はそれを見て、ふっと笑う。




「まだ、こども」




 頬がカッと熱くなる。


仁奈はティッシュを片付けて、


足をたたむように座りなおしてこちらへ向いた。




「フーフー、してくれる?」




ブラウスをつまんで開けてみせ、


誘うように腹を突き出して、口の端で笑う。




怯む私を想像して楽しんでいるのだ。


大人たちと同じように、私のこと、愚か者だと腹の底で笑っているのだろう。




親に、先生に、大人に、この世界に、蚕のように飼いならされた、


今、授業を受けている生徒たちと同じ


つまらないヤツだと。




私は無言で仁奈の正面に伏し


犬が水を飲むように、


銀の星のスワロフスキーへ顔を寄せて


静かに息を吹きかけた。




仁奈の表情をうかがうことはできない。


でも、あんな言われ方、悔しくて、悲しくて、


それ以上に、恥ずかしくて。




自分というものが恥ずかしくて。


私は彼女の挑発に受けて立ちたくて。




何度も何度も、彼女の傷口に息を吹きかけ、


そうしているうちに怒りが胸の内に広がり


感情の浸食に任せて、吹く息は強くなる。




もっともっと、痛みを感じろ。




息に押され少しだけ角度が変わるタイミングで


星は乱反射をおこし、私の目元をチカチカさせた。


まるでカメラのフラッシュだ。


その景色だけ、私の中に焼きついていく。




 頭上で仁奈がクスっと笑った。


その吐息が私の後頭部を撫でた時、


それを引き金に私は彼女へ馬乗りになって


乱反射を起こすうっとおしい銀の星にしゃぶりついた。




「くすぐったい!!」




仁奈はケタケタ笑いながら私を押し返そうとするが、


本気で抵抗していない。




「やめてよ、やめて、あははは!」




無邪気に身体をよじるはずみで


プリーツスカートがまくりあがり


ふとももも露わに、足をばたつかせて抵抗する。




暴れる仁奈の二の腕を押さえつけ


私は顔をその腹にうずめる。


もう、ムキになっていた。




 舌に触れる金属の冷たさと


仁奈の傷の温かさと


肌の匂いの遠くに感じる鉄の味。


小学生のころ、興味本位で舐めた鉄棒の味だ。




 ……私、本当に何をしているんだろう。


自分の心が、何か、得体の知れない獣に噛み付かれた。


獣は背後に星を背負い、その星は乱反射を起こして、


私は何も知ることができず、何も考えることができず、


ただただこうして無力な獣の主にその怒りの矛先を向けることしかできず、


そんなことをしても何も解決しないのに。


仁奈は何も悪くないのに。


仁奈は、ただただ、誰も知らないうちに想いも寄らない形で


自由の向こうへ行ってしまっただけなのに。



自分がこんなに自由に憧れていたなんて、知りたくなかった。


私はもう、泣きたくなっていた。


こんなのはただの八つ当たりであり、


こどもが愚図っているのと同じではないか。




本当のことだから、悔しいのだ。


私はこどもだ。


大人になる度胸は、まだ、ない。




「ありがと、ありがとう! もう、いいよ、もう、大丈夫、


消毒終わり、ありがとね!」




仁奈は私の力が抜けたのを見逃さなかった。


優しく私を起こし「ああ、おかしかった。」と言いながら


目に涙をいっぱいためて、私を目の前に座りなおさせた。




 私は口を拭いながら、仁奈を見返す。


仁奈は怯まず私の視線を受け止めて



「もう、5限目終わっちゃう。早いね」



そう言いながら腕時計をこちらに見せ、はにかんだ。




「チャイムが鳴る前に戻ろう」




仁奈はお尻の埃をはらい、


ブラウスをスカートに入れ、ブレザーを羽織り、胸元のリボンを整えてから


スカートのすそをただした。


それだけで、どこにでもいる、つまらない、この学校の生徒に戻ってしまった。




私もそれにならい立ち上がり、簡単にスカートについた埃を払った。


仁奈はおもむろにこちらへと近づき、私へ手を伸ばす。


その表情にドキリとした。




私の頬にへばりついた髪の毛をつまんで、後ろへ流し、


手櫛で髪を梳いて整えてくれた。何度か繰り返し、小さくよしと囁く。



「また、付き合って」



そう微笑んで階段室へ足取り軽く行ってしまった。





「また」なんて、なかった。


あの日のあの時間は、人生の一瞬にだけ訪れる奇跡のようなもので


そんなものは二度と来ないのだ。


少なくとも、仁奈とは。



こういう、神様からのご褒美のような、


特別なひとときというものがあると知るのも、


これから何十年も後になってからだった。




人に話すほどの物語でもないくせに、私の心へは鮮明に焼き映されてしまった。



痛みを突き刺し育てながら、この学校に埋もれるフリをしている仁奈。


白い肌の傷口を、そこに飾られたスワロフスキーの輝きを、


そんなもの、知らなければよかった。



そうしたら、愛しいなんて思わないですんだのに。


愛しいと感じる自分に、煩わされなくて済んだのに。




 今でも、春の風が少し熱を帯び始める頃、香るようにあの日の屋上を思い出す。




ちゃんとした日だったのだ。


私が私になるための最後のピースが嵌った日。


この先、自分を全うしてこの世に別れを告げる時、


きっと、あの日の屋上も思い出すだろう。


悔しいけれど。




 卒業してからも仁奈がどうしているのか知らないし興味もないが、


あの日の乱反射が私の目を刺す時にはうっとおしくも、


姿勢を正したくなるのだ。




今度は、こどもねなんて、笑わないで、仁奈。


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