氷室けいが投げているマウンドは、さして重要とは言えないものだった。

 滋賀の市民グラウンドで行われている試合は、五回の表が終わろうとしていた。

 氷室の所属する京都府立二中にちゅう高等学校、通称「二中高にちゅこう」のスターティングメンバーは、彼も含め、一年生ばかりだった。対する滋賀県の私立高校、仰木おおぎ高等学校のスタメンも同様であって、要するに、一年生同士の練習試合なのだ。

 けれどもグラウンド内の張り詰めた空気や観客の沸きようは、事情を知らぬ者が見れば、甲子園が掛かった一戦と勘違いしてもおかしくはなかった。

 理由は二つ。

 一つは、対戦している私立仰木高等学校、通称「仰木高」は、野球の名門であるから。

 もう一つは、二中の先発ピッチャー・氷室彗が、全国中学校軟式野球大会の優勝投手だからだ。

 つまり、緊迫した雰囲気の半分は氷室に端を発したものであり、観客の中に紛れているプロ球団や大学リーグのスカウトに至っては、そのほぼ全員が、氷室一人を見に来たと言っても過言ではなかった。


「氷室! どうした、今日は!? 調子が悪いのか?」


 ベンチに戻るや否や、監督から大声で問われる。

 氷室は、「いつもながらうるせーオッサンだな」と内心で毒づきつつ、絶好調です、と返した。

 5回を投げて、未だに失点はゼロ。この回に関しては三者三振だ。

 これが好調でなければ何なのか。


(でも、何かが、おかしいんだよなー……?)


 矛盾しているようであるが、氷室はそう思う。

 予定ならば、と。

 「今日の試合は、守備の奴等に暇させてやるつもりだったのに」と。

 もう、ヒットを5本も打たれていた。

 氷室は自信家だったが、その自信に見合うだけの実力を有していた。仰木高は野球の名門だが、彼の球は、ただの名門程度には打てるレベルではないのだ。

 高一にして、150キロに届こうかという速さの速球を、当たり前に投げられる。チェンジアップを織り交ぜれば、大抵のバッターはコマのように回るばかりで、甲子園常連校の選手でもなければ、当てることすら難しい。

 だから、氷室の認識では、仰木高程度の相手に何本もヒットを打たれている現状が、既に異常事態だった。

 絶好調であるというのに追い詰められている気さえしていた。


「おい、氷室」


 顔洗ってきますわ、と断りを入れ、ベンチ奥に引っ込んだ氷室に声を掛けたのは、女房役である蓬莱谷ほうらいだにれんだった。


「なんだよ、ホーライ。そろそろお前の打順だろ? 監督の指示、聞いておかなくていいのか?」

「後で聞くさ。必要ならな。それよりお前、大丈夫か?」

「何が?」

「ピッチングだよ。何処か痛めてるんじゃないよな?」


 氷室は暫し思案を巡らし、やがて言った。


「……キャッチャーであるお前から見て、今日の俺、なんかおかしいか?」

「いや、まったく。絶好調に見える」

「だよな」


 そりゃ良かったと小さく笑みを溢すと、「笑ってる場合じゃねーぞ」と釘を刺される。


「球は走ってる……。球威も申し分ないだろう。受ける手は痛くて仕方がないよ。コースは大雑把だが、荒れ球はいつものことだ」

「変化球は?」

「チェンジアップは、むしろ、普段よりもコントロールできてるよ。スローカーブの方は元々、視線とタイミングを外す為の球だから、ボールになったところで痛くも痒くもない」


 ヒット5本の内、ストレートを捉えられたものが4本。

 飛んだ場所が悪かったり、攻守に助けられたものも含めれば、明らかに氷室の球は攻略されつつあった。


「お前がプレッシャーに強いと知ってるからはっきり言うが……。マズいぞ、こりゃ」


 中学時代からの相棒は言った。


「投げているお前も、受けている俺も、調子が良いと感じている……。にも拘わらず、打たれているんだ。これ、大ピンチだぞ」

「……そうかぁ?」

「呑気な声を出してる場合じゃねーぞ。ピンチに陥りつつあるのに、その原因が分からないんだ。大ピンチじゃねーか」


 立て直そうにも、立て直しようがない。

 本人はいつも通りに立っているつもりだから修正の手筈がないのだ。

 生半可な危機よりも、余程にタチが悪い。


「お前のサインを盗まれてるって可能性は?」


 蓬莱谷は、ありえるな、と頷く。


「……次の回から、サインはパターン3に変更。カットボールも混ぜていくぞ」


 今度は蓬莱谷が笑う番だった。


「どーせ、監督が指示してくるさ」

「違いない。……しかし、強くなったよな」

「え?」


 笠松、と端的に続ける。


「俺の球が打たれるのも腹が立つが、アイツの球を打てないのも腹が立つ」

「そうだな。小学校の頃は、いっつもおどおどしてて、こっちの話を聞いてるのか聞いてないのか、分かんないような奴だったのにな。負けるなよー? 全中優勝の氷室投手?」

「誰が負けるかバーカ!」


 果たして、この試合で、何が起こっているのか。

 5回裏の時点では、彼等は理解できずにいた。



 仰木高の先発ピッチャーは笠松十四郎と言って、氷室がストレートで押していく典型的な速球派ならば、笠松は変化球を駆使し、のらりくらりとピンチをくぐり抜ける軟投派だった。

 見た目や性格も対照的だ。

 氷室は高い上背に広い肩幅。大抵のスポーツで大成したであろう恵まれた体格であり、そして高校球児のイメージに反した、しかし、投手として当然の不遜さを有している。

 対し、笠松は身長も170程度しかなく、常にあちらこちらを伺っている。ストレスやプレッシャーに弱く、間違っても、「自信家」という感じではない。

 しかし、この場においての二人には、ある共通点があった。

 どちらも、追い詰められつつある、という共通点が。


(……ようやく、5回が終わった……)


 この回も、どうにか無失点に抑えた笠松は、ベンチに向かいながら相対する氷室の方をちらりと見る。

 不運にも自信たっぷりという風な瞳と目が合ってしまい、すぐに目を逸らす。

 昔から、氷室のあの目は苦手だった。

 否、笠松に得意とする視線などは存在しないが、特に苦手だった。


(……次の回は、また、氷室君と、蓬莱谷君に回る)


 怖い、と思う。

 二人とは小学校以来の対戦だ。

 滋賀に引っ越すまでは毎月のように試合をした間柄だ。

 少年野球からボーイズリーグに進んだ笠松に対し、氷室らは部活動の軟式野球を選んだため、直接対決は丸三年ぶりになる。

 才能では劣っていたとしても熱意では負けるまいと、硬式球を使うボーイズで練習してきたが、いざ高校野球という同じステージに立ってみると、差が縮まるどころか広がっていた。「天才」。そう評するしかない。

 特に氷室だ。小学校の時分から全国トップクラスのピッチャーだったが、恐るべきことに、今はバッターとしても一流のようだった。スカウトからはそのバッティングも注目されているという。フィールディング能力も同様だ。

 こと野球という分野に関し、天は彼に万物を与えたらしい。

 ……ただの事実の確認だ。

 才能の差に嘆くのは、とうの昔にやめている。


(……でも、まだなんとか、抑えられている……!)


 グラブで口元を隠し、少年は小さく笑う。

 手を変え品を変え、なんとか凌いできたが、こちらの持ち球の内訳もそろそろバレてしまった頃だろう。

 どの変化球を投げても打たれてしまう気がする。

 次の回には、あっけなく降板することになるのかもしれない。

 それでも、まだ。

 まだ、打ち込まれてはいない。

 だったらマウンドに立ち続けたい。

 それが投手という生き物だ。


(……氷室君だって、苦しいはずなんだ……!)


 我慢比べだ、と笠松は自身に言い聞かせる。

 終わりのないマラソンを走るかのように、当てもない潜水を続けるかのように。

 歯を食いしばり、腕を振り下ろし続ける。

 府立二中高等学校と私立仰木高等学校の練習試合は投手戦の様相を呈してきた。



 バックネット裏で趨勢を見届けた二中高新聞部二年、長谷ながたにマキは、試合をこう振り返る。


「熱戦でしたよね。氷室君のあんな表情、はじめて見ました。なんだろう、上手い喩えか分からないんですけど、溺れているわけじゃないけど、泳ぎ方が分からなくてもがいている、みたいな……」


 それは即ち、溺れる寸前、ということだった。

 彼女がただの新聞部員であり、単なる野球ファンでしかないことを鑑みれば、慧眼と言えただろう。

 事実、氷室は、6回の時点で、決定的とまでは言わないが、かなり追い詰められていた。

 その回から投入したカットボールを痛打されたからだ。

 ボールは左中間を割り、二塁打となった。

 窒息はしていない。

 呼吸はできる。

 けれども、酷く息苦しい。


「そこで溺れないのが、一流の選手――つまり、氷室君ってことなんでしょうけど」


 二塁打を許した後、氷室はギアを一段階上げ、渾身のストレートで後続を断った。

 観戦している長谷が恐怖を覚えるほどの豪速球だった。

 一流の選手は凄い。

 ああいった場面を見る度に長谷は思う。自分なんて、街で見知らぬ人に話し掛けられただけで緊張して、何も言えなくなるというのに。


「凄いなあ……。分かってても打てない球って、ああいう球のことを言うんでしょうね」




 6回裏。

 ネクストバッターズサークルにしゃがみ込んだ氷室は、三番打者である蓬莱谷の打席を見守りつつ、思案を巡らせていた。

 週明けに新聞部の長谷に取材を受けた際、彼はこう述懐している。


『ホーライと相談したい場面だったな。どっちも打席があったから無理だったけど』


 監督の指示も仰ぎ、6回から、氷室-蓬莱谷バッテリーは、カットボールを投入。

 サイン盗みの可能性も考え、サインのパターンも変更。

 二塁打を打たれたのは、その回のトップバッターだった。


『いいか、先輩。今から当たり前の話をするぞ? 俺の持ち球がストレートとチェンジアップだとする。ストレートは大体、145キロ。チェンジアップはそれより20~30キロは遅いだろうから、110キロとしておく。当たり前なんだが、ストレートを投げ続けたら、打たれるんだよ』


 ストレートだけが来ると分かっていたら、いつかは対応される。

 氷室はコントロールではなく球速が強みのピッチャーなのだから、余計にだ。

 そこでチェンジアップが生きてくる。


『緩急、ってやつだ。ストレートを待っているところにチェンジアップが来れば、身体が泳いで空振り。チェンジアップを待っているところにストレートが来れば、反応が間に合わない』


 逆説的に考えれば。

 


『俺のカットボールは変化で空振りを取る球じゃなく、タイミングをずらす球なんだ。球速で言ったら……130キロくらいか? ストレートより少し遅いから、ストレートだと思って振れば芯から外れるし、チェンジアップより少し速いから、チェンジアップと思って振ったら、やっぱり芯から外れる』


 当然。

 次に来る球はカットボールだ、と分かっていれば、それはただ、ストレートよりも打ちやすい速度の棒球である。多少は変化するが、それだけだ。

 「つまり、サインがバレていた?」。

 長谷が問うと、氷室は首を振った。そうじゃないと。


『……先輩。試合前の練習を思い出して欲しいんだが、ファウルボールが相手のベンチの方へ飛んだことがあったよな? ベンチ前でやっていた笠松達のキャッチボールが一時中断したやつだ。ホーライが笠松のスライダーを打ち損じた時、俺はその場面を思い出した』


 ファウルが飛んだ瞬間、氷室は「危ない!」と叫んだ。

 当然の反応だ。

 けれども、声を掛けられた笠松の側の反応は、当然とは言えないものだった。


「笠松は無反応だったんだ。ボールが壁に当たって、ようやく気付いたようだった」


 相変わらずどんくさい奴だ。

 その時、氷室はそんな風に考えて苦笑した。

 だが、それがどういうことなのか、彼は考えておくべきだった。



 6回裏。

 キャッチャーはサインを送り、笠松は頷いた。

 終わりのないマラソンを走るかのように、当てもない潜水を続けるかのように。

 それでも、確かに彼は一瞬間、笑みを浮かべた。

 小学生の頃と同じく、友人との勝負を心底に楽しんでいるような。

 十年に一人とも言われるような天才に対し、「これが僕だ」と主張しているような。

 才能に恵まれない、自身の逆境を笑い飛ばすかのような。

 それは、そんな笑みだった。

 そうして、綻んだ唇を隠すようにグラブで口を覆った。

 直後、笠松は三番の蓬莱谷、四番の氷室を三振に打ち取り、そこで力が抜けてしまったかのように連打を浴び、マウンドを下りた。


 氷室彗と笠松十四郎。

 二人の勝負は決着したのだ。


 少なくとも、今日のところは。




 帰りのバスの中。

 氷室は、車窓を流れる景色に目を遣りながら、呟いた。


「アイツ、大変だったろうな」

「……そうだな」

「きっと、努力したんだろうな」


 そうだな、と隣に座る蓬莱谷は再び同意した。

 突発性難聴、と言う。

 文字通り、突然、耳の聞こえが悪くなる原因不明の疾患だ。一説には、ストレスが危険因子の一つだとされているらしい。

 生来の気弱な気質の所為だろうか。笠松十四郎はずっと、突発性難聴を患っていた。

 知ってしまえば、納得できることしかない。

 いつもおどおどした態度で、周りの様子を伺っていたのは、突然の難聴によって、話の流れや場の雰囲気を読み取れなくなることを恐れての行動だった。


「しかし、驚いたぜ。プロ野球選手がグラブで口元隠すの、ちゃんと意味があったんだな。野球漫画で、『あれは元々、唇を読まれることを避ける為の動きだった』と解説されてて、本当かー?と思ってたが……」


 読唇術どくしんじゅつ

 教育の世界では『読話どくわ』と呼称するが、唇の動きを見て、会話内容を予測するという行為は、聾学校で実際に教えられている技術である。

 笠松が行っていたことは至極単純だ。指示を飛ばす二中高の監督の唇を読み、ナインにどんな指示が出ていたのかを、チームメイトに伝えていただけなのだ。

 「一球目は見て、相手の球種を調べろ」と読み取れば、初球からストライクを取りに行き、「次の回からカットボールを使え」と読み取れば、カットボールを投げ始めるから狙い目だとアドバイスした。


「凄いよなー、アイツ。……次の勝負も楽しみだぜ」


 そうだな、と。

 蓬莱谷はまた、静かに同意した。



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