救いの準備は整った

 首都北部は不気味な静けさに包まれていた。

 主たる『虚構の浸食』、病理の具現たる厄神が消え、『穢れの地ヘイティッド』──通称『特区』から瘴気は完全に消滅した。

 ビルを覆っていた不自然な鉄格子も、周囲を覆っていた壁も、今は存在しない。

 代わりにそこに陣取ったのは、真っ白い球体だった。


 カノンが特区内部で展開したものは、昆虫における繭のようなものだ。成虫になるのを待ち、身の安全を確保する鎧。

 その内部で、救世カノンは座禅を組んでいた。


 その耳に届くのは自らの呼吸音のみ。

 あらゆる感情の動きを制御し、思考を奥深くに沈めていく。

 カノンの五感はあらゆる刺激を排除し、外界と同化していく。


 結果起きたのは、意識の偏在だ。

 極限まで希薄化した意識、あるいは魂が空間を漂い、『救世カノン』が拡散していく。それは一瞬で繭の内部全域に広がった。


 現実に存在する肉体的自我が空間に拡散、偏在することは物理的にあり得ない。

 しかし、カノンは既に神の力を取り込み仏の領域に足を踏み入れた身。

 意識の網とでも言うべきものが、繭の中にどんどんと広がっていく。


 神は、救いの手は、あらゆる場所に届かなければならない。

 カノンの描いた理想は、現実となった。


「……ふう。要領はつかめましたね」


 後はこの糸を世界中に巡らすのみだ。

 何の気なしに彼女は思考する。


 カノンの背後には輝く観音像が現界しており、既にその能力を発動していた。


『現世浄土』


 先の対厄神戦では、瘴気から纏姫たちを守っていた能力の名前だ。

 通常時はカノンの周囲3mほどの範囲を覆うフィールドのようなもの。


 その力は、カノンとその周囲にある『悪しきもの』の排除だ。


 瘴気を寄せ付けず、全力展開すれば厄神のブレスすら弾いてみせる。『悪しきもの』の定義はカノンの認識によって決められる。

 ただし、干渉範囲を広げるほどにカノンの負荷が高まるため、かつての彼女にはあらゆる『悪しきもの』を排除することはできなかった。


 この力が極まれば救世足り得る。カノンはそう確信していた。

『悪しきもの』──すなわち『煩悩』を完全に消し去る完全なる『現世浄土』を全ての人に適応し、悟りの位階に引き上げる。

 その結果として、『噓のない世界』を築き上げる。それこそが救世だ。


 あらゆる苦しみが排除されれば、人は噓をつく理由がなくなる。

 嘘こそがこの世界の苦しみから生まれた病理であり、この世界を苦しめる原因だ。

 カノンはそう信じて疑わない。



『──嘘に決まっているだろ、そんなこと!』



 あの言葉を聞いてから、カノンはそう信じて疑わない。


「諸行無常。諸法無我」


 己の精神が揺らいだことを感じたカノンは、己に言い聞かるようにそう呟く。

 自らの辿り着いた悟りとは不変なるものではなく、絶えざる努力によって維持される不完全なものだ。

 彼女はそう自嘲する。


 過去信仰を築いた聖人には遠く及ばず、仏として祀り上げられた偉人には及ばない。救世カノンは超人になれなかった。

 けれど、それは現世を救えるかどうかには関係ない。


「必ずや、『噓のない世界』を」


 誰もが幸福である世界を創るために。

 救世カノンは、ただ純粋にそれだけを願って救世の準備を進めていた。





 〈TIPS〉 救世カノンのスキル『現世浄土』は周囲2マスの味方に防御バフを与えます。また、展開中は救世カノン自身の攻撃力が上昇します。





 カノンの提示したタイムリミット──救世の日まで、後1日となった。



 纏姫が一堂に会することはあまりない。

 そもそもが5人程度の小隊で動く上、それぞれが別の時間帯に任務をこなしていることも多い。

 しかし、今日この日、教室内には多数の纏姫が集結していた。

 オレが集められるだけの纏姫、アンカーに集まってもらった。


 改めて、オレはみんなの意志を確認しなければならない。

 救世カノン救出作戦。


 作戦と言っても、大した策はない。できる限りの戦力を集結させ、カノンと戦い、無力化する。突き詰めればそれだけだ。


「──以上が作戦の概要だ。ただし、参加は決して強制ではない。救世カノン討伐作戦がオレたちの作戦の後に決行される。委員会の意思に従うのなら、そちらに尽力してくれ」


 ここで嘘をついても意味がない。オレはできるだけ誠実に話を続ける。


「この話を聞いてもなおカノンを救いたいと思ってくれる奴がいるのなら、オレに協力してほしい」


 頭を下げる。ここで協力を得られるかは未知数だ。

 この戦いは、今までの大義に基づく戦いではない。

 世界の平和を考えるなら、カノンを殺そうとする大人の考えが正しいのだろう。

 だから、これは命令ではなくお願いだ。


 頭を上げる。

 意を決して前を見る。


 最初に声をかけてくれたのは、今までずっとオレと一緒に戦ってくれていたフォックス小隊だった。

 ハヅキが口を開く。


「──ライカ。最初は迷ったが、私は決めたぞ。私は、カノンを止める。『噓のない世界』。私がお前に出会うのなら、熟慮もせず肯定したかもしれん。──ただ、私はお前の嘘に救われたのだ。だから、私はカノンの理想を否定する。それは理想郷ではなく、単に無味無臭で退屈な世界に過ぎない」


 ハヅキは随分と柔らかい思考をするようになった。

 己の芯は決して失わず、その上で他人の思考を受け入れる余裕を持つようになった。

 彼女の成長を見ていると、まるで愛娘を見る父親のように誇らしい気持ちにすらなるものだ。


 小さく頷くと、ハヅキは嬉しそうに笑った。


 次に口を開いたのはマナだった。


「私はカノンの仮説を否定する。論理ではなく感情で以って、それを受け入れられない。嘘は人の営み。社会の要。噓つきで、だけど不思議と物事を上手くこなしてしまうあなたを見て、私はそう確信した」


 マナは理論のみに固執せず、世界は理屈のみで回っていないことを理解するようになった。

 頑固な部分のなくなった彼女なら、苦手だった人付き合いもそつなくこなせるかもしれない。


 小さく頷くと、マナはこちらを見て頷き返した。


 今度はヴィクトリアが言葉を紡ぐ。


「私は救世者セイヴァーの理想を否定する。その理想は強く、気高く、強固であることが察せられる。でも理想は理想であり、現実とは違う。人類を救う聖人はとうの昔に死んだ。私たちは虚勢を纏う纏姫だからこそ、虚構と現実の区別をハッキリつけなければならない」


 ヴィクトリアの断固たる口調には、彼女の強い意志が籠められていた。

 昇天フライアウトを乗り越えた彼女は、もう虚構に囚われることはない。愛すべきファンタジーの世界と、醜くも美しい世界。二つの世界を理解して、それでも尚己を皇女と定義する彼女は、揺るがぬ意志を得た。


 小さく頷くと、ヴィクトリアは得意げに笑った。


 続けてヒバリが宣言する。


「私は、カノンちゃんを止めるよ。彼女の理想がどれだけ凄くても、多くの人を傷つけて実現する理想は間違ってる。幸せっていうのは、誰かを不幸せにすることで掴み取っちゃいけないと思うから」


 ヒバリは現実の醜さ、虚しさを知って尚純粋に希望を追い求める強さを確たるものにした。最初は虚勢だったそれは、既に彼女の芯に存在する。


 小さく頷くと、彼女はニッコリ笑った。


 最後に、彼が口を開いた。


「僕はカノンと対話がしたい。理想の押し付け合いじゃなく、殺し合いじゃなく、彼女と分かり合いたい。等身大の僕にできるのは、等身大のみんなに寄り添うことだけだから」 


 主人公君──否、翔太は己の役割をハッキリと自覚するようになった。

 平凡に育った彼だからこそ、纏姫の弱い部分にも寄り添える。どこまでも真摯に悩みに向き合い、彼女らを懊悩の泥濘から救い出すことができる。


 小さく頷くと、彼はオレの目を見て深く頷いた。

 その後、オレに向かって問いかけてくる。


「ライカはどうなの? どうして、カノンを止めようとするの?」

「オレか? ……そうだな。改めて言葉にした方がいいかもしれない」 


 よくよく考えて、オレは口を開いた。


「カノンが嘘を否定するのなら、オレはカノンの思想を否定する。嘘は人の醜さの現れだ。虚栄。虚勢。嫉妬。でも、それだけじゃない。嘘が誰かを救うかもしれない。誰かを勇気づけるかもしれない。オレは嘘を肯定しない。でも、カノンの思想は『噓のない世界』という理想は間違っている」


 オレは嘘が嫌いだ。噓つきが嫌いだ。

 けれど、その全てを否定することはできない。


 嘘とは現実との折り合いだ。誰もが少しずつ嘘をつき、この醜い現実に抗っている。それがなくなることを、オレは決して許容できない。


 オレの言葉に、フォックス小隊のみんなは頷きを返してくれた。

 少なくとも仲間の内で意志が同じであることを確認した。


 続けて、オレはカノンのいなくなったシュガー小隊の方を見た。


「セリカ」

「ああ。私たちシュガー小隊は、私たちの隊長を迎えに行く。まだまだ話し足りないんだ。勝手に敬って、遠ざけて、本心を知る機会を逸してしまった。だからこそ、今度は逃げない。彼女と真っ正面から向き合ってみせる」


 セリカが力強く宣言すると、シュガー小隊の3人は然りと頷いた。

 シュガー小隊は臨時に結成されたチームだが、それでも絆はたしかに芽生えたようだ。



「ライカ先輩! 私も力になります!」


 やや遠くから声が聞こえて、そちらに視線を向ける。

 声の主は、いつか校内の案内をした縁内ユカリだった。

 いつもの人好きする笑顔の彼女は、迷いもせずに言い放った。


「私は先輩に協力したいです! 危険なのかもしれないけど、私はライカ先輩っていう友達の力になりたいです!」

「ユカリ……」


 相変わらず、性根から真っ直ぐな女の子だ。

 いつもは暑苦しくすらあるそれが、今は心強い。



「私もやりますよっ!」


 勇ましく声を上げたのは、いつか模擬戦をした「狂美沢クルミザワアミ」だった。


「私に世界の見方を教えてくれたライカの頼みならたとえ火の中水の中地獄の中ですよっ!」

「いや、そんな死ぬような場所に行かせる気はないんだが……」


 気合が入りすぎて怖い。悪い子ではないのだが、何かと極端なんだよな……。


「どうぞお任せくださいっ!」


 どん、と胸を叩く彼女は自信満々だ。


 その後も多くの纏姫が立候補してくれた。多くがオレと関わりのあった纏姫たちだ。


「ライカは人気者だね」


 彼が揶揄うように言ってくるので、オレはぶっきらぼうに言い放った。


「うるさい。たまたま身内に女たらしがいたからだ。オレは関係ない」


 ハテナ、と首を傾げた彼から赤くなった頬を隠すように、オレはそっぽを向いた。

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