特区への突入
何度かの訓練を経た後、厄神討伐計画はついに決行当日になった。
『虚構の浸食』出現以降、最も多くの人を殺した敵の討伐任務。
フォックス小隊の中にも、独特の緊張感が流れている。
……なんだか居心地が悪い。普通に学生していた頃だったら絶対味わえない雰囲気だ。
これから死ぬかもしれないという緊迫感。呼吸すら憚られるような張り詰めた空気。
不安になった僕は、気を紛らわせるために隣に立っている幼馴染に話しかけた。
「マナは相変わらず表情が変わらないね。緊張とかしないの?」
彼女は普段通りの無表情でこちらを振り向いた。彼女は少しだけ何か考える様子を見せてから口を開いた。
「そんなことはない。私は臆病だから。ほら、手が震えている」
マナはなぜか脱力させた手をプラプラと振ってみせた。
「震えてるっていうか……振ってるだけだよね?」
またよく分からない冗談だろうか。
僕は呆れた目を向けたが、マナは至って真面目な表情のままだ。
「違う。これは震え。一般論から言えば、緊張によって震える手は他人の温かい手に包まれることによって治療が見込まれる」
「えっと、うん?」
話が見えてこない。
僕がマナの目を見ると、彼女はちょっと目を逸らしながら言葉を紡いだ。
「つまり、翔太。治療の為、私の手を握ってくれない?」
「……?」
冷静な顔でよく分からないことを言いだしたマナに、僕は首を傾げた。
何を言っているか分からないけど、ひょっとしたら彼女もまた不安なのかもしれない。
「えっと、はい」
にぎ、と彼女の手を包む。柔らかい手のひらの感覚に内心動揺する。
マナは相変わらず何を考えているか分からない無表情だ。
結局何がしたかったのだろうか……?
「ありがとう。これで私は緊張状態は回復した。翔太の協力に感謝する」
「あ、うん……?」
全く分からないが、とりあえず頷く。
マナとの付き合いはもう10年近くなるが、未だに彼女のことは分からずじまいだった。
僕の後ろの辺りから何やら声が聞こえた。
「はぁ……なんだあいつ、鈍感系主人公か? 舐めやがってさっさとくっつきやがれバカが」
振り返ると、ライカは早口で何やらブツブツと呟いていた。
一瞬目が合うが、すぐにプイと視線を外される。
なんだその反応は。何言ってたか気になるだろ。
マナのいつも通りのマイペースな様子に安心した僕は、続いてヒバリとヴィクトリアの様子を窺った。
厄神に故郷を奪われた二人。
誰とも話さず硬い表情をしている。
今までのヴィクトリアであれば張り切って前口上など述べそうなものだが、その様子もない。
やはり、厄神討伐ともなると部外者には計り知れない深い想いがあるようだ。
「……ヒバリ。調子はどう?」
らしくもない言葉を放って、彼女に声をかける。
ヴィクトリアの様子も気になったが、最も放っておけなく感じたのはヒバリの方だ。
明るい笑み──彼女の言う殻はどこかに消え去り、伽藍堂のように空っぽな瞳がどこかを見つめている。
昏い瞳がこちらを向くと、取り繕った笑顔が浮かぶ。
「あ、翔太君。……ごめん、今ちょっと話す気になれないんだ。ごめんね!」
明るい調子だったが、ハッキリとした拒絶の意思を感じさせる。
一時期は吹っ切れたように明るく振る舞っていた彼女だが、作戦決行当日が近づくにつれて口数が減っていた。
今の彼女に何か言う資格が、僕にあるのだろうか。
故郷を追われ、迫害を受け、自らを『空蝉』と定義してしまった少女に、平凡な僕から言えることが。
躊躇いを覚えた時、ふとツンと鼻をつく紫煙の匂いを思い出した。
『──こう言えば、少しは楽か? お前は十分彼女らに釣り合ってる。彼女らは選ばれし特別な人間だが、精神性は10代の少女のままだ。だから、お前が適任なんだよ。10代の複雑な心を持っていて、他人を慮る善性があれば、それで十分だ』
ああ、あれは僕が初めてライカに救われた時のことだっただろうか。
彼女が言うように、あの時彼女が僕を救ってくれたように、僕も彼女の助けになれるだろうか。
「──ヒバリ。無理に話してくれとは言わない。ただ、僕は君のそばにいるから。それを覚えていて欲しい」
彼女は一瞬だけ僕の目を見てくれた。
虚ろな瞳に一瞬だけ光が灯り、すぐに消える。
「……ありがとう」
背を向けてからポツリと呟いた彼女の最後の言葉は、きっと最大限の歩み寄りだったのだろう。
◇
「──それではこれより作戦を開始する」
いつもより引き締まった表情をしたライカが宣言する。フォックス小隊とシュガー小隊の面々は真剣な表情で頷いた。
「この作戦前に道中の敵は他の小隊が減らしてくれている。彼女らの夜通しの活動によってここから『特区』までの敵はほぼゼロだ」
都内にいる『虚構の浸食』の数は膨大で、一晩で根絶やしにするなど確実に不可能だ。
ただ、一時的に道を拓くことくらいならできる。
幻想高校の纏姫たちは特区までの道を切り拓き、フォックス小隊とシュガー小隊に希望を託した。
「ここにいる11人で一気に都内を突破。そのまま特区を駆け抜け厄神まで突撃する」
ライカの力強い宣言に僕らは頷いた。
「行くぞ。……希望は、オレたちに託された」
ライカが説明してくれた通り、道中にはほとんど敵がいなかった。
昨日から他の纏姫たちが頑張ってくれたおかげだろう。
人間も化け物も消え去った都内は不気味なほどに静まり返っていた。
途中遭遇した敵を数体倒しただけで、僕たちは例の『特区』にたどり着くことができた。
「これが……」
巨大な壁が、僕たちの前に聳え立っていた。
身長の10倍はあろうかという壁面。無機質なコンクリートのそれは侵入者を頑として拒んでいるように見える。
ベルリンの壁、なんてものが歴史の教科書に乗っていたことを思いだした。
しかし、よく見ればこの壁には等間隔に扉が取り付けられている。
「……奇妙な壁だね」
「隔離病棟みたいなものだ。外から入るものは拒まず、中からは決して出さない。監獄と言い換えてもいいかもな」
不機嫌そうに答えたライカは、すぐに表情を戻すとみんなの方を向いて声を張り上げた。
「それでは、これより特区への侵入を開始する! カノン、能力の発動を頼んだ」
「はい。──救いの手を差し伸べましょう。救世観音像」
カノンが頷くと、その背後から神々しい光と共に仏像が顕現する。
彼女の雰囲気が変わった。近寄りがたい超越者のそれだ。
仏像を背負い微笑む彼女は、ライカに対して小さく頷いた。
「──では、突撃する!」
特区を取り囲む扉を、ライカは躊躇いなく開け放った。
真っ先に入って行ったライカについて、僕たちは敵の膝元へと入り込んだ。
『特区』内部に侵入した僕たちの目の前に真っ先に現れたのは、濃厚な霧だった。
立ち込める白い霧が視界を遮り、数十メートル先すら見えない。
いつも以上に硬い声で、マナが警告する。
「……ライカ、警戒した方がいい。厄神が霧を出すなんていう報告、今まで聞いたことがない」
「ここは既に奴のテリトリーだからな。何があっても不思議じゃない」
そう答えつつ、ライカの声音は何かの結論に至っているようだった。
彼女はたまに知らないはずのことを知っているような態度を見せることがある。
そして、霧の正体についての結論に辿り着いたのはライカだけではなかった。
「──ロンドンスモッグ」
ぽつりとカノンが呟いた。観音像を背負う彼女は、厳かな雰囲気のまま静かに分析する。
「おそらく、元になったのはかつてロンドンを覆った『死の霧』です。産業の発達により発生した有毒物質が霧と混ざり、ロンドンを襲ったとされています」
彼女の説明に、ライカは静かに頷いたようだ。
「厄神が扱うのは病やケガレ。公害による環境病を扱うことは十分想定されます」
大気汚染による発病についての話は日本においても枚挙に暇がない。
当然、それに対する偏見──すなわち嘘もまた、蓄積している。
「あまり私の観音像から離れないでください。この霧の中では、纏姫と言えど無事は保証できません」
これは単に厄神の身体から放出される瘴気ではなく、明確な攻撃だ。
瘴気を前提に考えられた安全な時間の設定はもはや無意味と言ってもいい。
敵の攻撃は既に始まっている。
全員が一層警戒を強めていると、ハヅキが鋭い声を出した。
「前だ! 何か来るぞ!」
前方に見えるのは真っ白な霧だけ。異変を見つけることはできない。
けれど、全員がすぐに身構えた。
ハヅキの研ぎ澄まされた五感は、確かに見えない敵の姿を捉えていた。
「……野犬?」
やがて霧の中から姿を現したのは、血走った目をした大型犬だった。
こちらへの殺意が全方向から感じ取れる。
数は20程度か。霧に隠れて行動する野犬は、既にこちらを方位しているようだ。
このタイミングで出てきたということは侵入した纏姫を排除するための尖兵だろう。
最も早く反応したハヅキが日本刀を抜き放ち、後方に位置取った野犬に斬りかかる。
「──シュガー小隊は側面の攻撃に対処しろ! ハヅキのバックアップはオレとマナ、前方はヴィクトリアとヒバリ、翔太だ!」
ライカの鋭い声が響くと、全員がすぐに動き出す。
彼女が僕の名前を呼んだ驚きに浸っている余裕もない。
前から襲い掛かってくる野犬を視界に収める。
最初に攻撃を仕掛けたのはヴィクトリアだ。
「雷よ、駆け抜けろ!」
詠唱と共に電撃が走った。
最速最短の攻撃は一瞬で野犬の元へと到着し、その身を穿った。
数体が悲し気な断末魔を上げた倒れ込む。
しかし、生き残りが魔法を放ったヴィクトリアの喉笛を嚙みちぎらんと迫りくる。
「──ブレード出力最大!」
魔法を放った後で無防備になったヴィクトリアの前にヒバリが立ちふさがった。
彼女のステッキから展開されたブレードが襲い掛かる野犬を迎撃する。
血飛沫を撒き散らしながら、野犬の死骸がコンクリートに転がる。
「ヒバリ、もう一体だ!」
後ろから状況を見ていた僕には見えていた。
ブレードを振りぬいた彼女の後ろに、もう一体の影が現れる。
霧に乗じて出現した狂犬が、牙を突き立てんと跳躍する。このまま行けば、ヒバリは喉笛を嚙み切られ絶命するだろう。
「オオオオオオ!」
瞬時にハヅキの力を借り、手元に日本刀を顕現。
跳躍した野犬に対して、僕は渾身の突きを放った。
切っ先は矮躯を突き抜けた。
野犬が絶命したのを確認した僕は、安堵のため息をついた。
「あ、ありが……」
「──皆さん、私の、観音像の元に!」
礼を言いかけたヒバリを遮るように、カノンが大声を上げた。
直後、全員がその意味を思い知ることになる。
現れたのは先ほどまでの白い霧とは対照的な、どす黒い霧だった。
「これは!?」
狂犬を迎撃するために前に出ていた僕たち三人──僕とヒバリ、ヴィクトリアの身体を黒い霧が包み込む。
「ッ……!」
黒い霧に包まれた途端呼吸が苦しくなる。
酸素を奪われた頭は徐々に思考能力を失っていく。
やがて、僕の意識は断絶した。
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