救世のために
個人差はあれど、男の着替えなんてすぐに済んでしまう。
ちょっと汗を拭いてささっと制服を着ればそれでおしまいだ。
纏姫たちとは少々事情が異なる。
男子用更衣室を使うのなんて僕くらいのものだ。
纏姫はみんな女の子。
アンカーの男なんて学内で滅多に見かけない。
そのため、みんなが着替えている間は僕一人だ。
ちょっと寂しい。僕はすっかり、賑やかな彼女らと一緒にいることに慣れてしまったらしい。
廊下の隅っこに立って、僕はぼんやりとみんなを待っていた。
「――翔太さん、でしたよね。お疲れ様です」
聞きなれない声がして、僕は後ろを向いた。
そこにいたのは、シュガー小隊の救世カノンさんだった。
落ち着いた物腰。優しい目。柔らかい物言いが好印象な子。
「ぐ、救世さん。お疲れ様。」
慣れない苗字を口にすると、彼女はクスリと笑った。
「フフ、カノンと呼んでください。私の苗字なんて所詮は偽りのものですから」
ああ、ヒバリも最初そんなこと言ってたっけ。
そんな風に思いながら、カノンの様子を見る。
穏やかな光を灯した黒い瞳がこちらを見据えている。
話していると、不思議と落ち着いてくるような雰囲気を纏っている女の子だ。
そんな風に観察していると、彼女が小さく首を傾げた。
「私の顔に何か?」
「い、いや。カノンはすごく落ち着いていると思ってさ。とても同年代とは思えないよ。模擬戦でもずっと冷静だったし、僕よりずっと色々な経験をしてきたんだろうね」
慌ててまくし立てると、彼女は穏やかに微笑んだ。
「いえ、私など大したものではありません。あなた方フォックス小隊こそ、多くの苦難を乗り越えてきた精鋭の集まりだと聞いていますよ」
そう言われて、僕は少し前のことを思い出した。
不定形の神。傷つきながら戦った少女たちの姿。磔にされたライカ。
勇ましく戦う彼女らは、たしかに精鋭の名が相応しいのだろう。
それに比べて、自分はどうだろうか。
「たしかに、纏姫のみんなはそうかもしれないね。……僕なんかは新入りで、訳も分からないまま言われたことをやっているだけだけどね」
無我夢中で目のまえのことをやるしかなかった僕は、精鋭なんて大したものにはなれていない。
先ほどの模擬戦も、ハヅキやマナに助けられてばかりだった。
思い出して、少しだけ暗い気持ちになった。
「……それがあなたのお悩みですか? 良かったら、私に話してみませんか?」
「え?」
顔を上げると、彼女の黒い瞳がこちらを見据えていた。
「暗い顔をされていたので。そういった気持ちを吐き出す場所がないのなら、私に話してみませんか?」
ひょっとしたら、それは僕が今一番欲しかった言葉だったかもしれない。
僕は、このモヤモヤした気持ちを誰かに話したかったのかもしれない。
「……ありがとう。正直、そんな風に言ってもらえるだけでも少し楽になるよ」
小隊のみんなにちょっとした劣等感を持っている。
そんなこと、みんなには言えるはずもなかった。
だから、今ここでカノンに悩みを受け入れてもらえて少しだけ楽になった。
「カノンは初対面の僕にも優しいね」
きっと、相手の気持ちがよく分かる人なのだろう。
こちらの身を慮る姿勢に、紫煙をくゆらす少女のことを思い出した。
「ありがとうございます。でも、これは私がやりたいことですから。――私は、人を救いたいのですよ」
にこやかに笑ったまま、彼女は少しだけ気配を変えた。
「人の世は不条理で、様々な苦痛があります。病気。老化。死。生きることそれ自体が苦しみ。……私は、それを無くしたい。世界を救いたいと思っています。あなたの悩みを聞くのは、その一歩です」
その理想は、一人の少女が背負うにはあまりに大きすぎるように思えた。
まるで聖者や聖人のような言説だ。
けれど、彼女は纏姫。尋常ならざる力を扱う女の子だ。纏姫は己の虚勢を実現させる。カノンの大言壮語すらも、叶ってしまうかもしれない。
カノンの顔をじっと見つめる。
黒い瞳の中に、ちらちらと赤い灯が見えたような気がした。
しかし、その光は幻覚のようにすぐに姿を消す。
カノンはふっと肩の力を抜いた。
「まあ、私が翔太さんと話したかったのはそんな難しいことじゃなく。ただ、可能なら助け合いましょう、というありふれた提案ですよ」
にこりと笑う。その顔には、先ほどの超人的な雰囲気はない。僕は少し安心した。
「可能であれば、フォックス小隊のリーダーである噓葺ライカさんにも同じように話したいのですが……なかなか二人で話す機会を取れないんです」
「ああ、ライカは何かと忙しいからね」
鍛錬の他にも、大人たちとの折衝とかをやっているらしい。
それから、ニコチン中毒の彼女は暇があるとすぐに校舎裏で煙草を吸いだすので、彼女を校舎内で見つけるのは難しいかもしれない。
「もちろんお忙しいのは分かっているのですが、その、なんというか彼女はやや私を避けているような気もしまして」
「……ライカがカノンを避けている?」
ライカが誰かを避けるところなんて見たことないな。
彼女は良くも悪くも平等だ。
誰にでもそこそこ態度と口が悪い。遠慮しない。物怖じしない。
「多分気のせいだと思うけど……今度ライカにもそれとなく伝えておくよ。カノンはきっと、いい人だからね」
「ありがとうございます。翔太さんは、いい人ですね」
カノンは嬉しそうに笑いながら言った。
◇
纏姫による『虚構の浸食』対処の基本は近づいてくるものから順に倒す、だ。
都内の外縁に存在する最終防壁に近づいてきた敵を迎撃、危険になったら防壁の外へ撤退できる。
そのため、防壁から離れるほど敵の数は増え、戦いは困難になっていく。都内中心部に向かうのはほとんど自殺行為だ。
だからこそ、深夜にひとりで都内中心部で戦う纏姫の存在には誰も気づくこができなかった。
「――『切り裂きジャック』。謎の殺人鬼という存在が噂話と憶測を経て歪められた存在、ですか。知名度で言えば上の中。能力は……正体不明という特徴からあまり断定はできませんね」
爛々と輝く赤い目をギラギラさせて、救世カノンは目の前の敵を分析した。
相手は『虚構の浸食』が出現した最初期から目撃されている敵だ。そして、数多くの一般人の命を奪った相手でもある。
倒壊したコンビニエンスストアから出てきた人型。
フードを被ったその素顔は見えない。3mを超える敵すら存在する『虚構の浸食』の中では比較的小柄。
しかし、その体から感じられる力は決して弱くない。
「……」
カノンの姿を確認した『切り裂きジャック』は、大振りなナイフを取り出した。
「手を、差し伸べましょう」
カノンの背後に、巨大な観音像が出現した。
後光を背負う銅像は、夜闇の中でも神々しく輝いている。
お互いが得物を構え、動きを観察する。
灯りがほとんど消滅した都心にて、二つの殺気が交錯した。
「シッ!」
切り裂きジャックが背を屈めて走り出した。一直線に接近し斬りかかる。
それに合わせて、カノンの背後の観音像が腕を振り下ろした。
巨腕による一撃。轟音と共に劣化したアスファルトにひびが入る。
振り下ろされた掌は、切り裂きジャックを叩き潰したかに見えた。
しかし。
「フッ……!」
歴史に残る殺人鬼、切り裂きジャックを捉えた者は存在しない。
その事実を再現するように、虚構によって再現された怪物は驚異的な俊敏性を持っていた。
カノンの背後に一瞬で回った切り裂きジャックがナイフを振り上げる。背後に巨大な仏像を背負ったカノンの視界に背後は映らない。
ナイフはそのままカノンの背中に突き刺さる――かと思われた。
カノンが両手を合わせると、観音像もそれに合わせて合掌した。その瞬間、仏像を中心に衝撃波が発生した。
切り裂きジャックが後ろに吹き飛ばされる。隙を作り状況を把握したカノンは、切り裂きジャックに再び襲い掛かった。
体勢を崩した切り裂きジャックは、その機動力を活かすことができなかった。
轟音と共に、仏像の巨大な掌がジャックの身体を押しつぶす。ハエを叩き潰すように地面に縫い付けられた殺人鬼は、小さなうめき声をあげた。
「それでは、あなたも救世の役に立っていただきましょう」
仏像の手のひらから光が発生すると、切り裂きジャックの体は徐々に仏像に吸い込まれていった。
『虚構の浸食』を吸い込んだ瞬間、カノンの頭に凄まじい量の情報が流れてきた。知らない人の恐れ。好奇心。噂話。混乱。それらが一気に流れ込む。
濁流のように情報が流れてくる。
通常の人間であれば一瞬で自我を保てなくなっていただろう。
「……あなたの力、いただきますね」
しかし、救世カノンは既に普通の人間の精神を捨てた人間だ。彼女自身は自らの精神を「悟り」と定義した。
何者にも左右されず、ただ救世のみを目指す機械と化した精神性。タガが外れ、自らの嘘で押しつぶされた彼女が辿り着いた境地だ。
「かの厄神も取り込むことができれば……いよいよ、救世計画も実行できるでしょうか」
彼女は夜の空を見上げた。どんよりとした雲に覆われた夜空は、星も月もない暗闇だ。
「全ては、世界を救うために」
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