第3話 白い空白
かれの消失はすなわち、私にとって心の支えの消滅を意味した。
男と顔を合わせるとき、最初はいつも不安を感じる。私の孤独を穏やかに一枚ずつ剝いでいく言葉には、思わず耳を塞ぎたくなる。
しかし最後の囁きに到達した瞬間、私はそこはかとなく満ち足りた感覚を得るのだった。
それは心を癒す一滴の王水。
それは飴と鞭の繰り返すスコール。
それは心の孤独に対抗する一条の光、かれが私に与えた唯一の逃げ道であった。
私は、かれを求めていた。
□ □ □ □
男の消失とともに、私はもう自分が分からなくなった。
ただむやみに、どこの誰にでもいいから自分を認めてもらいたかった。
誰とでも交換可能なこんな自分にも、何か輝くものがあるはずだろうと。そういうアナウンスを欲していた。
かれが消えてから、ほんの数日の間は。
やがて私は、次第に冷静になっていった。そして自分が、かれの掌で踊らされていたと気付いた。
私は急に、かれが怖くなった。
かれは何者なのか、そんな事はどうでもよかった。
男の言葉に舞い上がっていた頃の自分が恐ろしかった。あんなことのできる存在が怖かった。
かれとは二度と顔を合わせたくなかった。猫に弄ばれる鼠のように、私は本能的に恐怖を感じていた。
もしかれと再び会った時......私は正気を保てそうになかった。
かつてかれは言った。
「僕たちがお会いするなら、日の明るいうちが良いでしょう。親しき仲にも礼儀あり、<御友達>はあてなる関係ですから」
私は昼を恐れ始めた。
かれは自分の言葉を守る男だ。守らなくていい約束まで守る男だと、短い付き合いの間で私は知っていた。何せ律儀にも、常に私に『会い』に来ていた男だ。
私は日没を待ち望むようになった。
輝く夜明けに怯えるようになった。
日が天上に輝くうちは、かれと『遭遇』してしまうかもしれない。
紳士なかれは、いつか再びやって来る。あの不思議な笑みを浮かべながら。
私には確信があった。
今私は、かれのことを考えただけで心臓が凍り付くような恐怖に震えるのだった。
□ □ □ □
かれが姿を消したのは、その年の秋の初め。
私は太陽に怯える日々を過ごし、そして冬がやって来た。
木枯らしが唸りを上げ街路樹を揺らしたあの日、会社からの帰路は閑散としていた。
肩に掛けたビジネスバッグが揺れ、白に染まった息が足早に歩く私の顔に覆い掛かる。
その純白に、かれのコートの色を思わず連想した時。
白い霧を透かした道の反対側に、かれが見えた。
ぞわり、と体中の毛が逆立った。
いつものチェスター・コートと、今回は口元に巻かれた青藍色のマフラー。私は慌てて視線を逸らそうとしたが、その瞬間、かれはこちらを振り向いた。
マフラーを下げた下から、あの笑みが私を捉える。
“――またご一緒に、お話しをしましょう?”
かれの口がそう動くのを、私はぎゅっと目を瞑り否定すると、脇目も振らずに道を駆けだした。
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