死にたいちゃんと死なせないちゃん

溝呂木ユキ

有理と萌央の時に自殺志願で異常な日々

「も、モナちゃん……! わたしが死ぬとこ見てて……!」

 

 少女の細い首筋に、鈍い光を放つ包丁が当たる。

 墨汁を流したような黒髪の中に浮かぶ、白く柔らかな肌。

 ゆっくりと、しかし確実に、波打つ刃は雪原へ沈み込んでいく。

 金属の冷たさ、微かな痛み――命を刈る感覚が、次第に強さを増していく。

 少女は目を閉じ、恍惚とした表情を浮かべて、ただその時を待っていた――


「ねぇ、有理うり。ほんとにその包丁で死ぬつもり?」

 ――待っていた、のだが。

 前方から聴こえた、およそこの状況と似つかわしくないのほほんとした声に。

 思わず目を開けてしまった少女――有理は、正面に立っている少女を見た。

「えっ……な、なに……? そ、そうだけど……あっ! い、今更、止めないからね……? いくらモナちゃんが言っても、わたし、本気だから……!」

「いや、有理がそれでいいならいいんだけどさ。私としてはなんというか――やめときなって言いたいというか。少なくとももっとマシな包丁はあると思うんだよね」

 明るめの髪色のウルフカット。ハッキリとした眼をしているのに、どこかぼんやりした佇まいの少女――モナちゃんこと萌央もなかは「だってさ」と。

 有理の手に握られた、今まさに彼女の命を奪おうとする凶器を指して。



「……ぱ、パン、切り? こ、これ……パンを、切るの……?」

「そそ、パン切る用の包丁。だからパン切り包丁。サンドイッチ作るときとかに使うやつ。見た目はなんかかっこいいよね。ゲームに出てくる剣みたいで。でも、それで首切っても有理が想定してるような結果には――うん、ならないと思う。たぶんだけど」

「そ、そんなの……やってみないとわからないよ……! ぱぱ、パン切り包丁だって……きっと人を殺せるもん……! わたしが、第一号になってみせれば、いい……!」

「おぉ、無駄にパン切り包丁への信頼が厚い……でもね、有理。その信頼はパン切り包丁にとって、随分と酷なものだと思うぜ」

「え……な、なんで……?」

「道具にはそれぞれ使いどころってものがあるからさ。牛刀包丁、菜切り包丁、出刃包丁にペティナイフ――とりわけ彼はパンを切るための包丁であって、肉を切る用の包丁じゃない。要するに向いてないんだよ。有理の首を切るために抜擢されたって、どうしようもないものはどうしようもない。得手不得手なんて誰にでもあるよ。いくら有理が信頼したって、それに報いることができないんじゃ、パン切り包丁も悔し涙を流すんじゃないかな」

「そうかな……そうかも……。うぅ……ごめんなさい、パン切り包丁さん……」

 はたして有理はパン切り包丁を落とし、そのままペタンと床にへたり込んだ。

 そんな彼女を横目に萌央は包丁を拾うと、刀身を鏡にして前髪を弄りながら。

「これキッチンから持ってきたの?」

「あ、うん……ホルダーみたいなのから……」

「ちゃんと洗ってから戻しなよ。ほんの数秒とはいえ、一応有理の首に当たってたんだから。じゃないと次サンドイッチ作った時にポンポンピーになっちゃうかも」

「う、うん……――あっ! ねぇ、モナちゃん……」

「うん? どした?」

「もしかして、だけど……今回も……」

「――あぁ、そうだね。うん、そうだった」

 萌央は思い出したように、視線を反射した己から有理に向けると。

 彼女をしっかり見つめながら、やがて変わらぬ口調で淡々と告げた。


「残念だったね、有理。


 ではまた来週――そう結んだ萌央の無表情に、有理はガックリと項垂れる。

 成辺有理なるべうりにとっては、これが通算百五十九回目の自殺未遂であって。

 叶本萌央かなもともなかにとっては、これで通算百五十九回目の自殺阻止であった。


§

 自ら命を絶つ行為は、なにも「死にたい」という感情だけで起こるものではない。

 矛盾しているだろうか。命を絶つ人間が、死にたいと思っていないなどと。

 生存を強く願うのは生物として当たり前の本能だ。獣が従う本能にそれでも歯向かえるのは、人間が思考と感情を進化させたが故である。時に本能を容易く凌駕する――それが良いことかどうかは別として。

 だからこそ人間は、自ら死を選ぶことができる唯一の生物であり。

 今日もどこかで電車が止まり、アナウンスを耳にした群衆は舌打ちする。

 そも、意志を持たずして自死を選ぶことは、そう大して珍しいことでもあるまい。

 莫大な借金を抱えて飛び降りる社長が。汚職事件の一切を背負って首を吊る秘書が。要介護の我が子の首を絞めたあと自らに包丁を突き立てた母親が。みんなして強く死を願っていたかといえば、きっと違う――生きていたかっただろう。生きられるものならば。


 だから有理は知っている。自らの背中を押す、強い感情の根源を。

 死にたいわけではないにもかかわらず、どうして死を選ぼうとしているのか。

 こんなにも粘ついた自殺願望を抱いているのか――その理由を、自覚している。


 成辺有理は、叶本萌央という少女のことが好きだ。

 いや、好きという言葉では収まらない。崇拝しているといってもいい。

 昔から引っ込み思案で、喋るのが苦手で、友達も少なく独りぼっちだった。得意なこと、他人に誇れることは何もなくて。いつも俯いて誰かに声をかけてもらえるのを待っていた――そんな有理を見つけてくれたのが。手を引っ張ってくれた少女が、萌央だった。

 可愛くて、かっこよくて、頭が良くて。運動も得意で、お金持ちで。とにかく萌央は、有理にないモノを全て持っていた。だからだろうか。一人で完成し、完結している彼女は、友達というものを一切求めない――例外があるとすれば、それが有理である。

 何故か幼馴染である有理にだけは気を許し、隣にいることを許可してくれている。

 幼稚園から高校まで、十数年に亘る付き合いを好としてくれている。

 それはとても嬉しいことではあるが――それ故に有理は、中学生のころ辺りからとてつもない不安を覚えるようになった。毎日を怯えて生きるようになった。

 誰でも一度は覚える類の不安で、けれど大抵時間が解決してくれるもので。

 しかし萌央を崇拝している有理にとって、それはおよそ耐え難い恐怖であった。


 つまり――いつか萌央の関心が、自分に向かなくなってしまう未来を。


§

「次でいよいよ百六十回目だね」

 

 パン切り包丁を片付け、自室に戻ってきた有理に萌央は何の気なしに言う。

 置いてあったカントリーマアムを勝手に貪っているようだが、有理は特に気にしなかった。そもそも甘いものはあまり好きじゃない。これは萌央のために常備しているものだ。

「え……な、なにが……?」

「有理の『ほぼ週刊・自殺未遂』が始まってから――いや、百六十回目も未遂かどうかはまだわかんないけど。というか本人が覚えてないの面白いな。どんだけ頓着ないの」

「う、うん……そうだっけって思っちゃった……。そっか、そうなんだ……百六十回……。すごいね、モナちゃんは……ちゃんと覚えてるなんて、すごい……」

「いやいや、百六十回やる方も相当すごいとモナちゃんは思うぜ」

 呆れまじりの声を聴きながら、煎餅みたいになっているクッションを更に尻で潰す。

 なんとなく浮足立っているのは、有理自身にもわかった。キリのいい数字というのは、それだけでなんだかワクワクするものだから――どうせなら二百回とかの方がアニバーサリー感あるよね、などと思った頭を慌てて振った。あと四十一回も阻止される前提でいてはダメだ。

「にへへ……じゃ、じゃあ……百六十回目は、せ、盛大にやっちゃおうかな……!」

「盛大に、か。有理、約束は覚えてるよね」

 約束――つまり二人の間に交わされた、この自殺ゲームにおける最低限のルール。

 有理がこれを始めた当初はルールも何もあったものではなく、危険なやらかしから危険極まりないやらかしを何度も重ねたものである。どれだけヤバかったといえば――あまりの無法にいよいよ萌央が本気でキレて、有理を泣かせたくらいに。

 それ以降、有理と萌央はいくつかのルールを設けることにしたのである。

「も、もちろん……! えっと……『自殺するのは週に一回』……。『他人及び広範囲に被害が出る方法はダメ』……。『失敗判定が下ったら大人しく諦める』……――あとは」

 指を折りながら数え、自分へ言い聞かせるように確認していた有理は。

 最後の一つでふと顔を上げると、萌央に目線の定まらない笑顔を向けた。


「『勝手に死ぬのは許さない』だよね、モナちゃん……!」


「――及第点」

「あ、あれ……!? な、なにか間違えちゃってた……!?」

「ニュアンスの違いが気になった。勝手にというか、見てない時に自殺するのはナシ。要するに録画済み自殺ビデオとか、私が阻止しようもない方法を取るのはフェアじゃないよねってこと――まぁでも意味自体はちゃんと理解してるっぽいから、及第点でいいかなーって思うわけ」

「あ、当たり前、だよ……! 勝手に死んでも、意味ないもん……!」

 わかっていると言いたげに、有理はいつもより声を張り上げてみせた。

 ――そう、それでは意味がない。見ていないところで死んだって、何にも。

 ちゃんと萌央の目の前で死んで、彼女の中から消えない記憶になれなければ。

 幾度塗り重ねても薄れることのない、ずっと疼き続ける傷跡にならなければ。

 成辺有理が大好きな幼馴染の中で、あの叶本萌央の中で。

 一つの永遠にならなければ――死んだって、なんにも意味がない。

「つまり盛大にやるのは構わないけれど、最低限のルールは守ってくれよって話だ。アニバーサリー自殺の完遂を目指すのは構わないけれど、それが後を濁すようなものであっちゃいけないよって話だ――と、そこだけ釘を刺しておいて、来週を待とうと思います」

「う、うん……! 任せて……! 絶対に、ガッカリさせない、から……!」

 息巻く有理をジッと、相変わらずぼんやりとした表情でしばし見つめた後。

 不意に「というかさ」と口を開いた萌央は、ポムポムと自分の隣の空間を叩いて。

「さっきから遠いよ、有理」

「あぇ!? そ……そう、かな……?」

「そうだよ。月と地球くらい遠い。このモナちゃんですらギリギリ声を聞き取れるレベルなんて、相当遠いってことだよ――ほれほれ、こっちにお座りなされ。遠慮せずに」

「あ、え……えっと……おじゃま、します……」

「――んん? いやいや、まだ遠いって」

 有理と萌央の間に空いた気まずい距離。人一人分くらいに空いた距離。

 何かを避けるようなそのスペースを、しかし見逃す萌央では当然ない。

 すぐさま肩を掴んで引き寄せると、半ば無理矢理隣に座らせようとする。

「ひぅぅ……! や、やめてぇ……! 放して、許してぇ……!」

「なんでさ。いいじゃん、ちょっとくらい。モナちゃんは冷え性なんだ」

「じゃ、じゃあ……エアコン、切るから……! だ、暖房つけるから……!」

「うむ、思い切りの良さがすごい。こんな時期に暖房なんてだいぶ見上げた狂気だよ、有理。しかして私が欲しいのは幼馴染の柔肌の温もりであって、決してエアコンが吐く無機質な温風じゃないわけだ――さぁ、観念しろ。観念して私に抱かれろ。でも嫌なら嫌って言ってくれていいよ。帰ってこっそり泣き濡れるだけだから」

「ち、ちがっ……違うの……! そ、それは嫌、じゃないんだけど……! わ、わたし……まだシャワー浴びてない、し……! 着替えてもない、から……! き、今日、暑くて……あ、汗……いっぱい、かいちゃったの……! だ、だから、ダメ……!」

「汗くらいとっくに乾いてるだろうし、別に私は気にもしないけど――ん、あぁ。そういうことね。つまり有理は、私に抱かれるのは満更でもないけど、もしかしなくとも匂いが気になると。自分が汗臭いんじゃないか危惧していると。そういうことでよろしいか」

 うんうんうんうん、と――まるで強力なモーターを搭載した赤べこが如き勢いで首を縦に振る有理に、しかし萌央は有無を言わさず組み伏せるようにして首筋に顔を近づける。

「ふんふん……うんにゃ、別に臭くないよ。有理の匂いがする」

「な、ななななななななな、なななにを」

「――

「おぎゃーっ!?」

 ざらりとした感触が首筋を這う。舐められた。言葉通りペロリと舐められた。

 飴でも転がすみたいにじっくりと味わっていた萌央は、やがて小さく頷いて。

「下味がついてる」

「ぉ、うぼ……ご……」

 もはや言語の体を為してない声を発していた有理は、気が付けば萌央の前、胡坐をかいた脚の上にちょこんと座らせられてしまっていた――いつもこうだ。萌央には敵わない。有理のどんな抵抗も、あるいはいかなる自殺も、必ず最後には無力化される。上手くいった試しがない。だから自殺未遂も百五十九回目に及んだわけだ――そんなになるのか、と感慨深く思う反面、それだけ失敗している事実に打ちのめされそうになる。

 百六十回目も失敗に終わると、まだ決まったわけではないけれど。

 私じゃやっぱりダメなのだろうか、と。少し自信を失くしそうになる。

 元々透けて見えていた自信の底が、いよいよ姿を表そうとしている気がする。

「――有理はさ、どうしてそんなに自信が無いわけ?」

 そんな憂鬱も見抜かれていたのか、有理の項に顔を沈めたまま、萌央はモゴモゴとした声で訊ねる。髪の毛越しに吐息が当たってくすぐったい。あとやっぱり匂いが不安だった。

「だ、だって……わたし、他人に誇れること、何にもない……。も、モナちゃんみたいに、色々なこと……上手くできない……じょ、上手に……生きられない、から……」

「誇りなんて一つあればいいでしょ。なんたってこの私の幼馴染なんだよ、有理は。生まれてこの方、有理だけが私の幼馴染――ほら、思い出すよね。あの日も怖い夜だった。小隊全員、三十二人が全滅して生き残ったのは私と有理だけ……へへっ、不死身のコンビ! 二人ともかすり傷ひとつ」

「え……? ご、ごめん……わかんない……なんの話……?」

「たとえ有理が何にも持たない空っぽ透明人間でも、この私が幼馴染って認めてる。その一点だけでモナ・リザとだって相撲取れるのに、どうしてそう自信がないのかねって話」

 そんな話だっただろうか。いや、そんな話だったかもしれない。

 ググっとお腹辺りに回された萌央の腕が、抱きしめる強さを増していく。有理自身痩せ型なのも相まって、モツが圧迫されて少し苦しい。そんなに冷えるのかな、と彼女の指先に触れてみたが、有理にはよくわからなかった――だけど心地が良い。背中に当たる萌央の体は、いつも温かくて柔らかくて、だからこそ有理は泣きそうになるのだ。


 この温度もいつか自分から離れていくのだと、自分の知らない誰かの身体を包み、そして包まれるのだと――想像すれば、それだけで際限なく吐き気が込み上げてくる。

 おそらく、それを黙ってみているしかできないだろう自分にも。

 忘れられると知っていながら、下手くそな笑顔で見送るしかない自分にも。


「も、モナちゃんが、どう言ってくれても……それはきっと、モナちゃんが優しいから、だよ……。わたしに、何の価値もないこと……わたしが、一番よく知ってるもん……」


 ――だから殺す、自分自身を。成辺有理という存在を。

 己の命の記録を、せめて萌央の脳裏にこびりつかせるため。


「証明、したいの……! わたしに、できること……ちゃんとあるんだってこと……! わたしの価値は……わたしが、証明しなきゃ、だから……!」

 この先、萌央が幸せの絶頂を迎える瞬間に。誰かに抱かれて愛される度に。

 成辺有理という少女が自分を愛し、その愛故に凄惨な死を選んだ事実を思い出して、それで少し嫌な気分になったり、懐かしんでくれたりしたら――それでいい。それだけで有理は、自分には生きていた意味がちゃんとあったのだと思える。

「んー……有理がファンタスティックでルナティックでおもしれー女なのはずっと前からだけどさ、それを踏まえても一番解らないのがそこかな。なんたって通算百五十九回の自殺未遂だぜ。お遊びでもなんでもなく真面目に死のうとして。はっきり言って正気の沙汰じゃない数字だよ。そうまで熱烈に死にたい理由が、自身の価値の証明だけとは思えないんだよね――まぁ、訊いたところでいっつも教えてくれないけど」

「あぅ……そ、それは……ご、ごめん……い、言えない……!」

「ははは。おもろ。意味わからん。私にも言えない理由ってなんだよ」

「ち、違うよ……! も、モナちゃんだから、言えない、だけ……!」


 ――あなたのことが、世界中の誰より大好きだから。

 ――あなたを失う痛みに、きっと耐えられないから。

 ――だから私は、あなたの消えない傷になりたいのです。


 なんて、よりにもよって本人に言えるわけがない。

 言ったところでこんな衝動、もちろん萌央には理解できないだろう。理解できなくていい。理解されてしまったら、意味がなくなってしまう――そう、最後まで。最期まで理解できないものでなければ、きっと叶本萌央の中には居座れないのだから。

「で、でも……悪い意味、じゃないから……安心して……にへへ」

「――――……はぁぁぁ」

 はたして返事の代わりか、萌央の一際大きな溜息が項を撫でていった。

 同時に抱き締める腕が更に力を増して、さすがに苦しさが勝り始めた。

「も、モナちゃん……? ちょ、ちょっと苦しい……」

「……うるさい。黙って抱かれてな。有理は今からだから」

「う、うりまくら……!? うりまくらってなに……!?」

「有理の不健康。ガリガリ。痩せっぽち。どうせまた野菜スティックばっか食べてるんでしょ。ちゃんと食べろっていつも言ってるじゃん。食性まで小動物じみなくていいんだよ――ほんと、なんで解んないかな。ウサギが寂しくて死ぬなんて迷信だよね、やっぱり」

 寂しさで死ぬのは人間だけだよ――お腹が苦しくて、よく聴き取れなかったけれど。

 あれって迷信だったんだ、とか。自分が死んだときに萌央が寂しがってくれたら嬉しいだろうなぁ、とか。勝手されるがままになりながら、有理はぼんやりとそんなことを思っていた――とはいえ、寂しがってはくれないだろう。萌央ほどできた人間が、自分のようなつまらない存在のために、わざわざ感傷を覚えてくれるはずもない。

 ふと沈黙が訪れた室内を、勢いを増したエアコンの風が通り過ぎていく。

 結構低めに温度を設定してあるので、直撃を受ければそれなりに冷たいはずだが、抱き枕改めにされてしまっている今は――むしろ少し冷たいくらいが、ちょうどいい気がした。

「……あ、えっと……暑く、ない?」

「暑くない」

「じゃ、じゃあ……寒く、ない……?」

「そう思うならジッとしてて。大人しくして。このままここにいて」

 モナちゃんがそれを望むのなら――気が付けば有理は、すっかり締めつけの苦しさに慣れてしまっていた。視線を下げれば、自分を抱きしめる萌央の腕。白くほっそりとしていて陶磁器のよう。指先を彩る薄桃色の爪は綺麗な鱗みたいだった。

 モナちゃんは爪まで綺麗なんだ、と少し嬉しくなって――ゆっくり這わすように、その指先を撫でた瞬間、背後から「んっふ」とくぐもった笑い声が聞こえた。

「ちょちょちょ、有理。急にどうしたの。くすぐったいじゃん」

「え――あ、あぁ!? ご、ごごっご、ごめんなさい……! も、モナちゃんの指……す、すごく、綺麗だなって……! き、綺麗だったから、つい……!」

「――ほぉーん。ふぅん。そうなんだ。有理はそうなんだ。綺麗だって思ったら許可もなしに触っちゃうんだ。そうかそうか、つまり君はそんなやつなんだな」

「ち、ちち、違う……! い、いや……違くないけど、違うの……!」

「有理のえっち。スケベ。メッサムラムラウサギ。野獣幼馴染」

 ボロクソである。そもそも無許可で抱き着いたり、挙句首筋に舌を這わせたりした萌央が、今更少し指先に触れた程度の有理にとやかく言えた身ではないのだが。下心を持って触れてしまったのは事実なので、有理は信号機のように顔を赤くしたり青くしたりしながら、とにかく「違う」だの「ごめんなさい」だのひたすら言葉を重ねていた――だから見えなかったし、気付けるはずもなかった。背後の萌央がどんな表情を浮かべていたかなんて。

「はー……まったく、仕方ないな。有理も女の子だもんね。寛大なモナちゃんは、えっちな幼馴染を許してあげよう。これは私だから許してあげるんだぜ。間違っても私以外の娘にしちゃいけないよ」

「も、もちろん……! わ、わたしがこんなことするの……できるの……も、モナちゃんだけ、だもん……! あ、あぁ……いや、モナちゃんにも、もうしないけど……!」

 してもいいのに――そこでようやく、有理は萌央の膝上から解放された。

 隣のクッションにお尻を移す。チラリと伺った萌央の顔は、相変わらずぼうっとした無表情のまま、ぼんやりと有理を見据えたまま。卓上のカントリーマアムを一つ手に取って封を切る。そして、そのまま「有理」と呼び掛けて――閉じるのを忘れていた有理の口に、もぎゅっとそれを突っ込んだ。

 わざとらしく甘いチョコの匂いが、ふわりと鼻腔を通り抜けていく。

 甘いものは苦手だった。それでも萌央がくれたものなら、飲み込める――ゴクンと喉を通過した甘ったるさに、どこかイガイガした感覚が残った。


「これからもよろしく、死にたい娘ちゃん」

「次は、ちゃんと死ぬとこ見せるもん……!」


 瞠目する幼馴染を見つめながら、萌央はうっすら笑ってみせた。

 不敵な笑みの幼馴染に、有理は吃ることなく言い切ってみせた。


 成辺有理と叶本萌央。傷跡になりたい少女と、一緒に在りたい少女。

 百五十九回の自殺未遂と自殺阻止を経て、決して交わることのない関係。

 それゆえ誰も干渉できない、どちらかが諦めるまで終わらない永遠の闘争。

 

 ――時に自殺志願スーサイドで異常な日々は、これからも続く。

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死にたいちゃんと死なせないちゃん 溝呂木ユキ @mutemarizumu

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