雨の足音
てつ
雨の足音
外の地面を絶え間なく叩く雨の音が、窓を隔てた部屋の中にまで薄っすらと聞こえてきていた。Mはスマホを両手を膝の間に落とし込み、手首の内側の静脈を擦り合わせていた。スマホが少しでも振動しだし、鉛直になった画面がふわりと白みと共に時刻を映し出すと、Mはその画面を目の方に向けて読んだ。それは大概にして振り向きもしない体裁の広告であったり、名前も顔も知らぬ偉人の訃報であったりした。Mはそれ以外にも電源ボタンを押して画面をつけてわざわざ時刻を一瞥し、またそれをスリープモードにして元のように戻したあとに、部屋の白い壁にかかっている銀色のプラスチック製の縁がついた時計を眺めて、同じように現在時刻を短針と分針のどちらも数秒眺めているようであった。その間に無意識に吸っていた息を喉をこすらせるようにゆっくりと吐き出すと、鼻の奥には自らの息の生臭さが温さとともに漂い始める。それらを消すために息を大きく吸うまでは良いが、永遠に吸い続けることはできないのである。つまりは諦めて、呼吸という営みをまだ何億回も繰り返してゆくのである。その小さな音は窓に響いて返り、Mの耳をくすぶり始める。そんな音の中にインターホンの音が混じってきたのは幾ばくか経った頃であろうか。未だ冷たさが残る玄関のへ行き、覗くとTが見えた。Tは藍色の大きな傘をさして雨の中を立っており、そのダフついたズボンの裾が濡れて、玄関の明かりを薄っすらと反射していた。Mはドアチェーンと鍵を開けると、ノブを回して扉を開けた。外の空気が扉を回り込んで玄関に入り込み、鼻の奥に微温くのぼせた。Mは「入って」と投げつけるように言うと、Tはその傘を畳んで傘立てに入れた。傘立ての乾いた底に、真新しい雨水が広がって言って、隣りにあるビニール傘の先端の白いプラスチックに入った傷の一つ一つに染みた。Mは、傘を立てても尚直立していたTの右手の手首を掴んで、玄関に引き入れた。Tが靴を脱ぐ間に、靴下で玄関に立つMは扉を閉めて鍵をかけ、一捻りしてからドアチェーンをかけた。Tの濡れた靴は玄関の床を湿らせて、雨の日の中で乾ききった部屋に外の様子を教えた。Tは靴を脱ぐなり、湿った靴下のまま廊下に立って、Mの方を見つめた。Mはそれを振り返るなり、部屋のソファーに押し込もうとすると、Tは縫い付けているかのように震えていた口をやっと開けた。「あのさ、もうやめようよ。」Tの目はいつからか暗闇を見るように見開き、検討もつかずにあちこちに散っていた。「もうさ、こんなのおかしいと思うんだ。俺。さ。」MはTの目を光線のように見つめながら、肩を上げて息を吸い込んだ。しばらく息を止めて、左上を眺めると、Tの目に視線を戻して、「そっか。じゃあ、ね。」と返した。Tの口元は酷く顔に凹んでいたが、その返事を聞くと、口を間抜けに小さく開けた。Tは湿った足を廊下の上に滑らせるように歩き始めた。背中を用心深く押すようにゆっくりと玄関に進む。Mはすっかりと丸くなった背中を引きずって、部屋の方へと歩き始めた。Tはすれ違うと、無意識にも上がっていた肩の力を抜くように、少し息を吐き出した。一方のMは踵を地面に叩きつけるように一歩一歩を踏みだしていた。この足音が離れてゆく毎に、Tの表情筋は緩んでいった。Tはまったくもって乾いていない靴に足を突っ込むと、指をかかとの下に入れて、きしむ靴に足を入れていった。そして立ち上がると、「そうだ。俺の家の鍵、返してよ。」と言った。さっきよりは声に震えは見られなかったが、その代わりにどこか詰まるような声であった。部屋の奥からMが「ちょっとまっててね。」と返事をしたのが聞こえた。なにか金属音がすると、Mが右手にTの家の鍵を持って現れた。Mは器用に池の蓮を飛び渡るような駆け足で玄関まで来ると、その鍵をTに突きつけた。Tは顎に僅かシワを作りながらもそれを受け取ると、ポケットに流し入れた。ポケットからは元からあった同じ鍵にその鍵が触れる音がカチンと聞こえた。Tは扉の方に振り返り、扉を開けにかかった。まずは慣れず硬いドアチェーンを外した。次に扉の鍵に手をかけると、視野の左下になにか鈍く光るものが映った。眉を少し下げて考えたあげく、その刹那にTは顎の下をこわばらせて止まった。Tはまともに息も入らない肺から、空気を絞り出して言った。「もう無理だよ。こんなの、続けられない。」Tはそれを言い終わる刹那に鍵を開けて、ドアノブを回して外へ出た。傘立てから傘を引っ掴んで、雨の空に突き出した。傘の手元のボタンを押すと、背中が急に痒くなった。驚いて腹の底から掠れた低い声が出ると同時に、それが大きな鉄球がぶつかったような鈍い痛みであると知った。開いた傘はゆらゆらと地面に舞い落ちた。真後ろにいるMは両手で持っていたTの背中の包丁から手を離した。そして、「どうして。」と言った。Tの強張った全身の筋肉は、ガラクタのように崩れ落ちる体には無力であった。雨に濡れた地面にTは力なく臥せった。Mはその上に馬乗りになった。いつもよりも激しく、無遠慮に。Tの背中の包丁を抜くと、心臓を刺した。何度も何度も。Mはしきりに「なんで私のものになってくれないの?」と言った。Mは汗か涙か雨かもわからない飛沫を振り乱して、繰り返した。アスファルトに血溜まりが広がって、どこか生温かく、鉄臭い匂いが漂っていた。雨はその血溜まりを絶え間なく叩いていた。
雨の足音 てつ @minerva_juppiter
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