ステンレスのサナギ

カスガ

第一話 暗闇と灰が世界を覆っていた

 暗闇と灰が世界を覆っていた。焼け焦げた都市の廃墟には動くものの影とてなかったが、その隙間から響いてくるかすかな摩擦音を、カミーリアの鋭い耳は聞き逃さなかった。

 血だ。カミーリアは思った。あそこに温かい血がある。

 焼け残ったアパートの五階まで外壁をよじ登り、爆風でガラスの割れ落ちた窓から屋内を覗きこむ。外の廃墟とは場違いなビクトリアン・メイド姿の少女が、キッチンの床をぴかぴかに磨きあげていた。年の頃は十五、六だろうか。カミーリアとそんなに変わらない。

 カミーリアの金色の虹彩の中で、楕円形の瞳孔がきゅっと縮まる。軽やかに窓枠を乗り越え、キッチンの床に降り立った。その足音に、床を磨いていた少女は顔をあげた。

 薄暗い非常照明の下で、カミーリアの金色の瞳と、少女の黒い瞳が見つめあった。

「あなたは、あたしのしもべなのよ」カミーリアは少女に告げた。

「はい、その通りです」メイド姿の少女は従順に答えて、立ち上がった。

 無防備に立ち尽くす少女のあごを指先で押し上げ、顔をこちらに向けさせる。人形のように整った容姿の少女だった。カミーリアはにっこりと微笑んだ。

「かわいい子。あたしの血肉となって、永遠に生きなさい」

 カミーリアは膨らんだ袖ごしに少女の肩を抱き締めると、鋭く尖った犬歯を少女の首すじに突き立てた。その行為の一部始終を、少女はきょとんとした顔で見守っていた。

 温かい血がどくどくと口の中にあふれ出す――はずであった。しかしながら、少女の首に埋め込んだ犬歯は、なにも噛み当てられなかった。

 しばらくカミーリアは眉をひそめながら、もごもごと口を動かしていた。やがて、唐突にメイド姿の少女を突き放すと、ぺっと透明な唾を吐き出した。

「機械じゃないの!」カミーリアはそう叫び、いまいましげに口元をぬぐった。「機械と人間を間違えるなんて、吸血鬼失格だわ!」

 カミーリアの牙から解放された少女は、屈託のない笑顔を浮かべた。

「はい、お客様。わたしは留守番の機械人形です。ご主人様は、ただいま外出しております」

 ご主人様、というひと言に、カミーリアは希望を取り戻した。

「つまり、人間がいるわけね? その“ご主人様”とやらは、いつ戻ってくるの?」

「はい、ご主人様は十九日と五時間十一分前に外出なさいました。帰宅の日時と行き先は不明です。まだ、お帰りになっておりません」

 カミーリアは落胆の溜息をついた。

「かわいそうにね――あんた、棄てられたんだよ?」

「申し訳ありません、発言の意図がわかりかねます」

 日課業務を遂行中の自分が「棄てられた」という構文は、貧弱な会話プログラムには解析不能であったと見えて、機械人形は小首をかしげた。

 この種の家事向け汎用機械は、ひと昔前のチャットボットに毛が生えた程度の会話能力しか持っていない。その実体は、単なる口頭で指示を与えられるだけの家電であり、指示が「会話」の形式を取っているのは、あくまで利便性のために過ぎなかった。また、もっぱら家庭内でのみ利用される家事機械に、煩雑な使用者制限機能は求められておらず、目の前にいる人間と認識された者は、それが誰であろうと、「命令に従うべき存在」であった。

「それにしても、この部屋は蒸すわねえ」カミーリアは襟元をゆるめた。

「温度は摂氏三十度、湿度は五十一パーセント。空間放射線量は毎時六シーベルトです。レベル七++の危険な状態であり、即時の避難を勧告します」

「六シーベルト! それじゃ、このあたりに人間が居残ってるわけないか……」

 カミーリアはへたり込んだ。脆弱な生者とは比較にならない回復能力を持つ不死者のカミーリアにとって、この程度の放射線などは多少の不快感を覚える程度だった。むしろ、暑熱や湿気の方がよっぽどこたえた。

「いいえ、人間はいます」機械人形が首を振った。

「どこに?」カミーリアは身を乗り出した。

「わたしの目の前に、お客様が」

 カミーリアは憤然と抗議した。

「言うに事欠いて、あたしが“人間”ですって! ――それは、あんたの言う“人間”とチーズトーストを取り違えるような、最悪の侮辱よ!」

 機械人形がまた首を振った。「いいえ、人間とチーズトーストを取り違えることはありません」

 おあずけを食わされたことで気分を害していたカミーリアは、気晴らしの矛先をこの機械人形に向けることに決めた。

「あんたは頭がからっぽで、出来損ないのブリキ缶ね」

「いいえ、わたしはブリキ缶ではありません」

「なーに生意気に口答えしてんの。どうせ、あんたなんか自分がなに喋ってるかもわかりゃしない屑鉄なんだから、あたしの言うことには、黙ってはいはい従ってりゃいいのよ。はい、繰り返して、『わたしは頭がからっぽのブリキ缶です』」

「はい、わたしは頭がからっぽのブリキ缶です」

「ばーか」

「ご期待にそえず、申し訳ありません」機械人形が頭をさげた。

 ひとしきり機械で遊ぶのに飽きると、カミーリアは目の前の相手をしげしげと眺めた。

 それにしても、この人形の元持ち主は、たかが家事機械に、なぜここまで人間そっくりの外見を与えねばならなかったのか。

 見た目ばかりではない。さっき抱きついたときのやわらかな感触に、なめらかな合成皮膚の肌ざわり。さらに赤外線領域を見通すカミーリアの視界の中では、機械の少女の肌が三十度前後の表面温度に輝いていた。どう考えても、人間らしく見せかけるためのオプションに、本体以上の金がかかっている。

 ある可能性に思い至り、カミーリアは機械人形に命じた。

「ちょっとこっち向いて、スカートたくしあげてみなさい。次に、ドロワーズおろして――はい、ありがとう。もういいわ」

 少女趣味に作られた本体とはおよそ不釣り合いな造形から、カミーリアは目をそむけた。前の持ち主がその種の機能を備え付け、ひそかな愉しみに用いていたのであろうことは、容易に察しが付いた。

 ――汚らわしい。

 少女の潔癖さでそうは思ったが、機械人形そのものへの嫌悪は感じなかった。むしろ、人間の肉欲にさんざん奉仕した挙句に、この廃墟に置き去りにされた機械人形に対する憐れみさえ催した。

 愛用のセックスドールを手放してまで逃げ出した人間の方は、どうなったのか? 徒歩にせよ、車にせよ、逃げのびられたとは思えない。おそらくは、後方から追いすがる放射性降下物の中で悶え死んだことであろう。人間の運命など、カミーリアの知ったことではなかった。

「で、お風呂はあるの?」部屋の蒸し暑さを思い出し、カミーリアは質問した。

「申し訳ありません、お客様。水道もガスも電気も、十八日前から停止しております」

 カミーリアはふたたび盛大な溜息をついた。

「勘弁してよ! 食事もない。冷房もない。お風呂もない。いるのはぼんくらのメイドが一人だけ。こんなサービスの悪い部屋、一秒だっていたくないわ」

「ご期待にそえず、申し訳ありません」

 カミーリアは足音も高くアパートの部屋を出て行った。機械人形は玄関で一礼して見送ると、今後永遠に使われる予定のないキッチンの清掃を再開した。

 その一分後、アパートに戻ってきたカミーリアが、キッチンの戸口からひょいと顔を出した。

「ついてきなさい、ぼんくらメイド」床から見上げる機械人形に、カミーリアは告げた。「床磨きよりは有意義な、あんたにもやれる仕事を探してあげるから」




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