第123話呉 その1

呉下ごか阿蒙あもう』と呼ばれる青年が居る。


 呂蒙りょもう、字は子明しめいである。


 呉下の阿蒙とは直訳すれば『呉に居る蒙ちゃん』だが、意訳すると『アホの呂蒙』である。

 のちに彼は『男子三日合わざれば刮目して相対すべし』と名言を述べるが、今の呂蒙は勉強している途中である。


 彼は無学であった。

 そのことを他の武将に蔑視されて馬鹿にされた上、孫権になじられ、勉強することを勧められた。


「なるほど、自分で考えるより、先人が書き残したことを覚える方が幾分か楽だ!」

 呂蒙は同僚の蒋欽しょうきんと共に勉学に励み、頭角を現わそうとしていたところであった。




 最近は歴史に凝っている。

 しかし、歴史から学んだのは国の興亡だけではなく、有能な家臣が無能な主君によって誅殺されることのなんと多いことか、ということでもあった。


――我が主君、孫仲謀は名君であろうか。


 呂蒙はそう考えるようになった。




 そうしている最中に、呉随一の重臣である周瑜と孫権の仲がおかしくなった。

 なんでも孫権の妹である弓腰姫の命と引き換えに荊州を取ろうと周瑜が図ったらしい。


『女ひとりで荊州が取れるのだ。なんの遠慮がいろうか』


 そう周瑜は豪語したが、そもそも曹軍と事を構えたのが自分の妻を曹操に寝取られるのが嫌だったかららしい。




 孫呉の臣民は、一斉に周瑜に反感をもった。

 そしてそれは、主君である孫権も同様であった。

 一斉に周瑜に失望したと言っていい。




 それでも、周瑜は死ぬまで呉に忠誠を誓った。

 しかし、孫権は周瑜の遺体の埋葬すら許さなかった。

 そんな折に、孫権に対する悪評が呉越中に漂い始めた。




 実際、孫権は近侍の者の粛正を始めたらしい。




『果たして孫仲謀という人は、あなたの忠誠の対象になる御方でしょうか』

 孫呉を見限った賈華かかからも手紙が届いた。




 呂蒙は孫権の周瑜に対する扱いから自分の命運を考えた。








 そして考えた末に、親友と言っていい甘寧などに置手紙を残し、一族郎党を引き連れて荊州へとトンズラした。

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