第3章 修行の始まり
第1話 招集
この世界に来て四日目。
着替えて身支度を整えると、竹刀を持って階下に向かう。
靴を履いて外に出ると、まだ弱い朝の光の中、靄がかった白い景色が広がっていた。人の姿はない。
早すぎたか、と思った時だった。
「おはようございます、露草。早いですね」
すっかり聞き慣れた柔らかい声に振り返ると、竹刀と木刀の両方を持った
「おはよう、夕凪。今日もやるんでしょ? 朝稽古」
「はい。もしかして露草も参加されますか?」
夕凪の視線が露草の持つ竹刀に向く。
「うん。昨日の夕凪見てたらもっと強くならないとって思って」
少なくとも、これから魔獣を相手に戦わないといけない状況がくるかもしれないのだ。せめて自分の身を守れる程度には強くならなければいけない。いつまでも夕凪に頼ってばかりではだめだ。
夕凪はどこか嬉しそうに微笑んだ。
「竹刀も持って来て正解でしたね。では後程お相手しましょう」
まるで露草が朝稽古に現れるのを分かっていたような言い方だった。――多分分かっていたのだろう。
そして、ふと露草の手首のそれに目を留めた。
「露草、それは……」
露草の手首には、昨夜
「樹氷のだとかで、矩に渡されて」
「なるほど。樹氷も気に入って大切にしていたのを覚えてます」
夕凪は暫し懐かしそうに目を細めた。
「二人とも早いな」
ふわあ、と欠伸交じりの声でやって来たのは矩だった。
まだ完全に目覚めきっていないのか、少しボーっとしているように見えた。だが、露草の手首に巻かれた鉢巻に気づくなり、急にシャキッと覚醒した。
「――露草、鉢巻の巻き方を知らないのか?」
「え? 何?」
矩は問答無用で露草の手首を摑むと、もう片方の手で結んだ鉢巻を解いてしまった。
「ちょっと矩……」
「ちょっとそこに座れ」
「何で」
「いいから」
矩の謎の迫力に負けて言われた通りに座ると、すぐに額の辺りに布が触れる感触がした。続けて、後頭部が少し締め付けられるような感覚がする。
「痛ってえ! 髪の毛巻き込んでる!」
「あ、悪い」
あっという間に露草の頭に鉢巻を結び終えた矩は、満足そうな顔で笑う。
「よし。やっぱり鉢巻はこうでなくっちゃな」
「……お前が何に満足してるのかさっぱり分かんねえよ」
露草は後頭部に手をやり、念のため髪を整えた。全く、矩の行動は先が読めないから怖い。
「露草、似合ってますよ」
「あ、うん……ありがとう」
一部始終を見守っていた夕凪の褒め言葉に、露草はただ頷くしかなかった。
「夕凪、今日はどうする?」
朝食の後、竹刀の手入れをしながら矩が夕凪に訊ねた。
「最近魔獣払いの方ができていなかったので、そちらに取り掛かろうかと。凩の負担も大きくなりますしね」
「そうだなー」
夕凪は露草が洗い終えた食器を綺麗に手早く拭いて行く。
(魔獣払い……仕事だって言ってたもんなあ)
またあの魔獣を相手に夕凪は戦うのだ。もしかしたら矩もそうなのかもしれない。
(オレもついて行ったら邪魔かなあ……)
世話になっている彼らの手伝いをしたい気持ちは山々なのだが、今のままでは足手まといにしかならない。
ドン ドン
玄関の方から音が聞こえた。誰かが扉を叩いているようだ。
「あれ? ここってチャイムなかったっけ?」
「チャイムを鳴らさないのはアイツか凩だ」
矩の眉がピクリと動き、すでに布巾を置いて玄関に向かいかけていた夕凪に言う。
「夕凪、悪いが頼む」
「はい」
露草は不思議に思いながら夕凪の背を見送った。
「アイツって?」
「気になるならお前も見て来い。分かるから」
矩が玄関の方に向けて顎をしゃくったので、露草は好奇心に負けて見に行くことにした。
夕凪が玄関の扉を開いた先に立っていたのは、黒いコートを着た背の高い青年だった。夕凪と瓜二つの顔の――
「おはよう、朝凪」
「朝から失礼する。――露草も、おはようございます」
朝凪は夕凪の後ろにいた露草に気付いて挨拶をしてくれた。
「ああ、おはよう」
返しながら、夕凪の横に並ぶ。
「それで、こんな朝からどうしたの?」
夕凪が改めて訊ねた。今気付いたが、夕凪は朝凪に対して敬語を使わない。
「刃璃様から城に集まるようにと伝言を頼まれまして」
「わざわざ伝えに来てくれたの? ここって電話とかないの?」
驚く露草に、双子が揃って「電話?」と首を傾げる。その反応で電話がないことは分かった。
(緊急事態の連絡とかどうするんだろ。……ああ、その時は魔術だなんだでどうにかするのかな)
漠然とそんなことを考えたが、とりあえずここでは質問を飲み込んだ。
「矩にも伝えてください」
「分かった。ところで朝凪はもう朝食はとった?」
夕凪が頷きながら訊く。
「まだだが、戻ってからとる」
「うちで食べていかない?」
「悪いがもう一ヵ所寄る所がある」
朝凪は少しだけ眉を寄せて複雑な表情を見せた。これから寄るという場所に何かあるのだろうか。
夕凪は「そう」と相槌を打ち、「じゃあまた後で」と微笑んだ。
朝凪も軽く頷き、露草にも会釈をするとくるりと踵を返した。
朝凪の姿が見えなくなってから夕凪が小さく溜め息を吐く。
「ちゃんと食事をとってると良いんですけど」
「朝凪のこと?」
「ええ。朝凪は仕事の方を優先する質なので、わりと食生活は適当なんですよ」
「でも朝凪は刃璃に仕えてるんだろ? 城で良いもの食べてるんじゃないの?」
「その料理を彼がきちんと食べているかどうかは怪しいですね。……私ほど食事を楽しむ習慣がないので」
夕凪は困ったように笑い、玄関の扉を閉めた。
「露草、夕凪。城に行く準備をしよう」
いつの間にか矩が廊下に出て来ていて、二階への階段を上がろうとしていた。
どうやら夕凪が伝えるまでもなく、話を聞いていたらしい。
「矩は朝凪と顔を合わせたくなかったのか?」
「だから、アイツは苦手だって言っただろ」
矩はこれみよがしにため息を吐いて、自室へと向かった。
二日振りに訪れる城下町は、相変わらず賑やかだった。前に来た時はとにかく目立たないようにと言われ、さらには統治者にこの世界に呼ばれたわけやら色々なことを聞いたせいで心が落ち着かず、ゆっくりと周りを見渡す余裕がなかった。
今日は堂々と夕凪たちの隣に並んで歩きながら、露草は並ぶ店々を眺めていた。気になる店は用事が終わったら寄らせてもらおうかと考える。
「あー、三日も連続で刃璃様と朝凪に会うのかよ……。勘弁してほしい……」
そういえば矩はずっとぶつぶつとぼやき続けている。それに全く反応せずにスルーしている夕凪に伺う視線を向けると、彼は少し困ったように眉を下げて苦笑した。
「いつものことだから気にしないで良いですよ」
「いつものことなのか……」
矩は三日前と同じように正装の着物を着ていた。
腕組みをしながら難しい顔をしている彼女がどうしても気になって、露草はそっと尋ねてみた。
「なあ、矩は何で刃璃を様付けで呼ぶわけ?」
「統治者だからに決まってるだろ」
「そのわりに口調は丁寧でもなくない? それに、朝凪と凩は呼び捨てだよな」
「……さすがに統治者を呼び捨てにするのは問題だろ」
矩はそう言ったが、どうも嘘っぽく聞こえた。
「同じ年なのに」
「……ただの嫌がらせだよ。何でか刃璃様とは気が合わなくて」
矩はぼんやりと空を見上げ、小さく溜め息を吐いた。
「刃璃もどっちかって言うとサバサバしてるあたり、矩と似てるように感じるけど」
初めて会った時の言動でそう感じた。
「似てる? ――まさか。刃璃様は統治者だからあんな話し方や態度なだけで、本来は全然違う」
「え? 本来?」
露草が聞き返すと、矩ははっとしたように目を見開いた。失言した、とでも言うような反応だった。
「……矩?」
黙り込んだ彼女の横顔を窺うと、矩はどこか諦めたような笑いを溢した。
「昔はもっと大人しい、人見知りの女の子だったんだ、あいつ」
昔。彼女たちは昔からそれなりに付き合いがあったらしい。矩の話が本当なら、刃璃はどのような経緯で今の統治者の彼女になったのだろうか。
そして、矩の刃璃に対する言動から察するに、彼女たちの間には何か蟠りのようなものがあるように思えた。
「それにしても、今日は視線が気になるな」
矩が話を変えた。その言葉に今度は露草がギクリとする。
「……気のせいじゃなかったか」
「みんな露草が気になるんですかね?」
夕凪が苦笑する。そう、先程からチラチラと視線を感じていたのだ。必死に気にしないふりをして来たのだが、もうすでに何人かとバッチリ目が合って気まずい思いをしている。
「美人の宿命だな」
肩を竦める矩に夕凪が溜め息を吐いた。
「矩、少し足を速めましょう。露草が困っています」
「はいよ」
露草たちは少しだけスピードを上げて統治者の待つ城に向かった。
城門の両端にいた見張りは、露草たちの姿を見ただけで黙って通してくれた。
城の入り口の立派な扉の前では、三日前のように朝凪が待っていた。彼を見るなり矩の顔から表情が消える――全く分かりやすいやつだ。
「刃璃様がお待ちです」
以前のように、露草たちは先導する朝凪の後に続いて迷路のような通路を進み始めた。
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