第3話 魔獣

「なあ、夕凪ゆうなぎ

「何ですか」


 周りに草が生い茂る細い道を歩きながら、露草つゆくさは訊ねた。


「あの夕凪たちの家の周りにある家には誰も住んでないの?」


 実は気になっていたのだ。彼らの家の周りには他に数件の家が建っていたが、住んでいる人を見ないし、生活の気配も窺えない。

 夕凪はちらと背負った細長い袋を見て、口を開いた。


「あの辺りはたまに『魔獣まじゅう』というものが出るんです。それがここ最近頻繁になってきて、ついに刃璃はり様が退去令を出したんです。今はみなさん城下町の方に住まれています」

「夕凪たちは退去しなかったの?」

「私たちは……あそこが好きですから」


 夕凪は曖昧に答えた。何かわけがあるのかもしれない。露草はそれ以上突っ込みはしなかった。

 しかし、先程彼が言った『魔獣』というものがどんなものなのかは気になった。熊よりももっと凶暴な獣だろうかと想像する。

 そんな露草の心を見透かしたように夕凪は微笑んだ。


「心配しなくても『魔獣』はこれから出て来ますよ」

「え」

「……まあ、出て来てほしくないんですけどね」


 露草は複雑な気持ちになった。『魔獣』が気になるものの、退去令が出る程のものにはあまり会いたくない。どう考えても危険な匂いしかしない。

 そして、自分の背にもある細長い袋の存在を思い出した。この中には樹氷じゅひょうが使っていた竹刀が入っていた。念のため持って行けと言われたが――

(もしかしてこれって『魔獣』対策……?)

 今まで緑に囲まれていた前方に、薄い桃色の山が見えて来た。優しい桃色――間違いない、あれは桜の木である。


「ここの桜は年中咲いているのですが、やはり一番咲き揃う時期というものがあります。今が丁度その頃ですね」


 夕凪が桜吹雪に目を細める。


「樹氷はあの中でも、一番古くて大きな桜が好きでした」

「へえ」


(樹氷はそこにいるだろうか)

 早く行ってその桜に触れてみたいと思った。


「……あれ?」


 露草はふと一点から目が離せなくなった。そこにある桜の木がぼんやりとしか見えない。周りの桜は普通に見えるのに、その樹の輪郭だけが曖昧だった。


「あそこの桜の木……なんかぼやけて……」


 目の錯覚か幻のように見える。


「あれが刃璃様が仰っていた『桜の消滅』です」


 夕凪は淡々と答えた。その口調はどこか彼の兄の朝凪を思わせた。

 露草の視線の先では、ぼやけていた桜の木がまた一層薄く曖昧になっていく。

(あれが消滅……)

 一瞬で消えて行くのかと思っていたのに、こんなにじわじわと薄れて消えるとは。


「樹氷の好きな樹は消えてないんだよな!?」


 思わず心配になって訊いてしまった。


「はい、今のところは大丈夫ですよ」


 夕凪の答えにほっとして息をつく。もしも樹氷が乗り移っている桜の樹が消滅してしまったら、彼も一緒に消えてしまうのではないかと思ったのだ。

 夕凪の後ろについて桜の木々の間を奥へと歩いて行く。


「うわあー綺麗―」


 つい上を見上げたまま歩いてしまう。夕凪に「足元気を付けて下さいね」と苦笑されてしまった。


「例の桜はもう少し先です」

「うん――ッ?」


 突然、二人の目の前を何か黒い物体が素早く通り過ぎた。


「……何だ、今の?」


 見ると夕凪は背負っていた木刀を取り出して構えていた。


「露草、伏せて!」

「!」


 反射で伏せた次の瞬間、頭上でヒュッと風を切る音がする。

 そして、目の前に黒い塊が落ちて来た。

 それは大きな猫のような、猪のような、黒い毛に覆われた物体だった。


「もしかして……これが『魔獣』?」

「そうです。これはまだ小さい方ですが」


 夕凪はまだ構えを解いていない。露草がはっとして周りを見渡すと、黒い獣がまだ数匹こちらを窺っているのが分かった。


「全く、困ったものですね」

「ちょっと夕凪、あれ大丈夫なの?」


 言いつつ、露草も自分の身を守るために背中の袋から竹刀を抜き取った。これでどこまで対応できるのか分からないが、ないよりはマシだ。精神的お守りとしても。


「露草は自分の身を守ることに集中してください」


 獣たちが動く気配と共に、隣にいた夕凪の姿が消える。彼の姿を探すよりも早く、露草は目前に迫る物体に反射的に竹刀を振り落としていた。

(早っ……何だこいつ)

 竹刀で受ける重さが想像以上で驚く。これはあまり長引くと折れてしまうかもしれない。

(竹刀の方が使い慣れてると思ったけど、これは木刀の方が良いかも)

 露草が一匹に応戦している間に、夕凪は早くも残りのラストを仕留めようとしていた。彼が薙ぎ払った魔獣はすっと空気に溶けるように消えて行った。


「露草、大丈夫ですか」


 結局、露草が対峙していた魔獣も彼の木刀によって消え去って行った。

(夕凪、すごい)

 肩で息をしながら尊敬の眼差しを向けると、彼は困ったように微笑んだ。


「――ひとまず露草が無事で良かったです」

「あ、ごめん。オレ役に立てなくて」

「いえ。それより驚いたでしょう」

「う、うん……」


 正直に言うと、魔獣そのものよりも、それらを数匹まとめてあっという間に倒してしまった夕凪に驚いたのだが。

 剣道に通じる技はもちろん、もっと何か他のものも入っていたような気がする。それほどに見事な剣捌きだった。あそこまでになるのには一体何十年かかるのだろう。


「――夕凪っていつ頃から剣を習い始めたんだ?」

「私ですか? 物心ついた時から……ですかね」


 それはだいたい五歳くらいからだろうか。夕凪は二十歳前後に見えるから、相当努力したのだろうし、彼の才能もあったに違いない。

(それとも)


「夕凪って歳のサバよんでそうだな。――冗談だけど」


 そんなことあるわけないだろうと自分でも思って笑ってしまった。

 夕凪は一瞬驚いたような顔をして、すぐに微笑んだ。


「――まさか、ね」

「だよな。あまりにもな剣技に思わず馬鹿なこと考えた」


 夕凪が木刀を袋にしまうのを見て、露草も自分の竹刀を袋にしまった。竹刀は何とか折れずにすんでほっとする。


「さあ、行きましょうか」

「うん」


 二人は歩みを再開したが、数メーターも行かないうちに頭上で葉擦れの音がして立ち止まった。


「また魔獣!?」

「――お帰りなさい、かね

「え?」


 緊張する露草とは対照的に夕凪は穏やかに声をかけた。


「なーんだバレちゃったのか」


 桜の木の上から飛び下りてきたのは一人の赤髪の少女だった。


「矩!?」

「おう、ただいま」


 矩が露草に向かってにっかり男前に笑う。魔獣かと身構えていた露草は心の底からほっとした。さっきの今で驚かさないでほしい。

 夕凪はまだ木の上を見上げていた。


「凩、ですね」

「――チッ、夕凪は相変わらず気配を読むのが上手いなー」


 さっと飛び下りて来たのは、露草よりも少し年上だろう金髪の少年だった。

 少年はすぐに露草に目を留めてじっと全身を観察した。


「へえ~、お前が露草か。確かに黒髪と雰囲気が少し樹氷に似てるか……」

「……誰?」


 ついと助けを求めるように矩の方を見ると、彼女は肩を竦めた。


こがらし。兄ちゃんの友人……らしき人」

「らしき人、じゃなくて友人なんだけどなー。まあ、よろしくな、露草。オレのことは凩でいーよ」

「はあ」


 見るからに明るくて陽気な彼に、露草は既視感を覚えた。

(この陽気な喋り方、雰囲気……あいつと似てる)


「……よろしく」


 凩の差し出した右手を握り返すと、彼は嬉しそうにぶんぶんと振った。子どもか。


「それにしてもほんと綺麗な顔してるなあ」


 しみじみと顔を眺められて、露草は眉を顰めた。


「お褒めの言葉はうちの両親へお願いします」


 思わず言い返すと、目の前の金髪がぷっと笑う。


「おお、良い切り返し。樹氷より面白い」


 凩は何が気に入ったのか、露草の頭をグシャグシャと掻き回し、さらにあははと笑った。

 矩と夕凪はそんな二人をポカンとして見ていた。

(ついあいつのことを思い出して言い返してしまった)

 露草は乱された髪を整えながら溜め息を吐いた。


「――すいません。ちょっとあなたと似ている人を思い出したもので」

「え?」


 なぜか矩が驚いたように目を見開く。

「冗談だろ!? こんなわけの分からない滅茶苦茶な金髪野郎に似ているやつが他にもいるのか!?」

「ちょっと矩ちゃん、暴言が過ぎると思うんだけど」


 不敵に笑う凩を矩はスルーする。夕凪も何も諫めないところを見ると、実は矩と同じ気持ちなのかもしれない。


「で、オレは一体誰に似てるんだ? 友達?」

「――オレの兄貴です。冗談好きで楽天的で陽気なところが……」


 そう、よりによって肉親にいるのだ、このタイプが。


「うわあ」


 矩があからさまに残念そうな顔をして額に手を遣る。


「だからちょっと矩さん? 何その反応?」


 またもや凩のことは華麗にスルーして、矩はポンと露草の肩を叩いた。


「お前、苦労してきたんだろうな」

「分かるか? 小さい頃からあらゆることに振り回されてきたな」


 遠い目をする露草を夕凪も労わるような目で見ていた。


「ねえ、ちょっと、お前らよってたかって遠回しにオレのこと攻撃するのやめてくれる? 露草の兄貴を応援したくなってくるんだけど!」


 凩が子どものように頬を膨らませて言うのを聞き流しながら、矩が手をパンと打つ。


「さあ、挨拶も終わったことだし早く兄ちゃんの桜の樹のとこに行こう」

「そうだった。もうすぐだったっけ? 夕凪」

「ええ。あと少し行くと着きますよ」


 露草たちが歩き出した後ろで凩が半べそをかいていた――もちろん本気でないことは気付いていたが。


「みんな冷たい……」


 露草はくるりと振り返り、彼の元に戻った。


「凩」


 凩が俳優よろしく複雑そうな表情を浮かべて――これは演技だなと分かる――露草を見た。

(ふっ……こういうところも似てるよなあ)

 異世界でこうも身内に似た人物と会うことになるとは思わなかった。しかもなかなか濃いタイプだと直感的に分かる。

(でも、こいつもきっと――)

 彼は樹氷の友人だと言っていた。つまり、彼もまたいなくなった樹氷について――こうして今露草がここにいることについて、何か思うところがあるに違いない。


「本当に、よろしく」


 改めて言うと、露草を見る凩の瞳は先程までの冗談めいたものとは違い真っ直ぐなそれに変わった。まるで露草の心中を見透かしてしまいそうな感じがした。


「――ああ、よろしくな」


 一瞬の後、へらっと笑った顔はもう緊張感のない明るいもの。

 凩はなぜかもう一度露草の髪の毛をグシャグシャにして、ポンと撫でた。


「じゃあ久しぶりに樹氷に挨拶に行こっか」


 露草は凩の隣に並んで、樹氷がいるかもしれない桜の樹の方へ再び足を向けた。

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