雲世界の子どもたち

葵月詞菜

序章



 まさか桜の木にナンパされるなんて、思ってもみなかった。



 いつも通学で通る桜並木の一本道。その中でも、公園のすぐそばにある一本が一際大きくて立派で、桜の季節になると足を止めて見惚れてしまう。

 その日も、部活帰りにいつものように歩いていた。

 そういえば今日は大学生の兄が帰省するんだっけ、と考えながら夕暮れの中を歩いていた。

 満開の桜が風に吹かれて揺れている。ざわざわと枝が蠢き、夕陽を受けて赤く染まった花弁がヒラヒラと舞う。

 例の一際大きな桜の木を見上げて、紀伊露草きい つゆくさは思わず見惚れてしまった。


「綺麗だ――」

『お主、桜が好きか?』


 突然、心の中にどこからともなく声が響いた。力強いがまだ幼さも残る、若い男の声だった。


「え? 誰?」


 周りを見回すが誰もいない。


『分からぬか。お主の前にいる桜の木だ』


 声は笑った。露草ははっとして目の前の大きな桜の木を根元から順に見上げる。


「……何で桜が喋ってるんだ?」

『然程驚いてはいないようだ』


 桜の木はまた笑う。

 だが、露草の場合は驚いていないのではなく、驚きすぎて脳がこれを幻聴だと思い始めていた。

(あれ、今日の部活で頭の頂点思いきり竹刀で打たれたせいかな?)


『お主は桜が好きか?』


 桜の木はもう一度同じことを尋ねた。


「……ああ」


 露草は戸惑いながらも答えた。舞う花びらを一枚、無造作に右手で掴む。


「特に、ここの桜は大きくて強そうで、綺麗で好きだ」


 手を開くとヒラヒラと花びらは飛んでいく。


『良かった。選ばれたのがお主で』

「え?」


 桜の木の声はどこかほっとしたような感じだが、意味が分からない。

(選ばれたって……何に?)


「それ、どういうこと?」


 尋ね返した時、ぶわっと桜の花吹雪が露草の顔面を襲った。反射的に腕を目の前に持ってくる。


『健闘を祈っておる』

「ちょっ……待っ……」


 腕の下で閉じた目は開こうとしても叶わない。

 そして、次の瞬間。

(!)

 体がふわりと宙に浮かんだ気がした。





「ん……」


 目が覚めたそこは、何やら霧のようなものに包まれた空間だった。ひやりとした空気が全身に纏わりついて来て、思わず腕を寄せてさする。

(ここはどこだろう……? 何でオレはここにいる……?)

 思考はぼんやりとして、上手く頭が働かない。

(オレは……オレは)

 ――露草。かろうじて名前は思い出せるが、それ以上考えようとすると頭の奥がキーンと痛くなる。


「目を覚まされましたか」


 ふいに側で声がした。少し冷めたような声。

 霧の中に浮かぶ人影は曖昧で、黒っぽくしか見えなかった。

 そして、まるで気配がないのだ。声がして初めて気付いた。

 露草はゆっくりと周りに頭を巡らした。どうやら自分たち以外には誰もいないことを確認する。

 つまりこの人影は、間違いなく露草に声をかけたらしい。


「――ここはどこだ?」


 その黒い人影は優雅に恭しくお辞儀をした。


「ようこそ、雲世界へ」


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