第8話 更生保護施設
ここで、こんなことをしていても話にならないと湯田は思った。時間の無駄だ。それよりも、この近くの更生保護施設に行ってみよう。
地図で探したその施設は、一応コンクリート造三階建てで、合計一二人が居住できるスペースがあった。だが、日当たりが悪く、山を背にして建っているのを見た湯田は、この施設は歓迎されていないのではないかと思った。
更生保護施設とは、その施設の存在理由は、高尚ではあるが、近隣住民にとっては、迷惑以外の何物でもなかった。昔、その施設が建設されたときには、付近に民家はなかったが、年月を経るうちに、住宅が建ちはじめた。
そうして、住宅の持ち主は、自分たちの家の近くに「更生保護施設」などという迷惑施設が建っていることに気がつくようになった。さらに、そのような施設に入所していた者が、何かの間違いで、事件をおこし再び刑務所に戻るようなことが起きると、近隣の住宅所有者は、その迷惑施設の移転を求めて勢いづき、その施設の管理運営者は、頭を抱えることになった。
やむなく管理運営者が、入所者に対する選抜を厳しくすると、それが、かえって更生保護施設への入所を遠ざけることになり、出所者が刑務所へ復帰する率が高くなるという皮肉な結果がもたらされた。
聖児は、普通の生活に戻りたかった。そのためには、条件がかなり不利な仕事でも、やってみようという気になっていた。
湯田の身上調書を見て、施設の担当者が、
「あれ、大学中退ですか。高卒ということにしておきましょう」
と言った。それが何かと湯田が聞くと、
「いや、大学に入学できた身分だったのにという妬みがあるんですよ」
湯田は、世間は、そういうものかと納得した。
「何か、これが出来るということはありますか。例えば、木工とか、料理とか、何でもいいんですが」
刑務所では、木工を担当していたが、胸を張って、そう言えるだけの自信はなく、湯田は、
「いや、何もやったことがないんです」
と応えるだけだった。
その答えを聞いて、担当者は、少し考えたようだったが、何も言わなかった。
一応、施設への入所が認められ、ある鉄工所へ働きにいくこととなった。工場から出る騒音の苦情を逃れて、鉄工所は遠方の工業団地にあった。大部分の者は、車で通勤していたが、朝8時に着くには、早朝から始発電車に乗らなければならなかった。仕事も頭で考えていた以上に大変だった。
敷地内の材料の移動、重量物を載せたトラックの運転、簡単な鉄工細工であっても、二、三年の経験がなければ、勤まらなかった。
以前にやっていた仕事を聞かれても、木工を少しと言うことしかできなかった。
「あのう、意欲はあるようなんですが、何かできる人でないと、うちのような零細企業は、やっていけません」
と断りの電話があった。
次に、湯田は、清掃会社を紹介された。清掃の仕事と言っても、トイレなどの清掃から、一般施設の清掃まで、その会社が請け負っている仕事の幅は、広かったが、湯田の最初の仕事は、トイレの清掃だった。
働いていた者は、昔のトイレ清掃と比べると、水洗トイレが普及し、ウオッシュレットが一般化してからは、天と地の開きがあると言っていた。
ただ、臭い、汚れなどが、少なくなったと言っても気にならないほどではなかった。仕事は、社員が出勤する前か退社してからという注文が多く、朝5時から夜は8時までが通常の仕事の時間で、日中は、別の仕事場に回るということが多かった。
湯田は、ここで半年も辛抱すれば、何かいいことがあるだろうと簡単に考えていた。しかし、1ヶ月もすると、体に糞便の臭いが染み付き、二ヶ月後には、強力な洗浄剤の影響で、両手に湿疹ができた。そうして、三ヶ月がたった頃、女子用トイレの掃除の仕方が雑だと文句を言われるようになった。
自分としては、精一杯やったつもりであったが、同僚との雑談の中で、給料の話が出て、同じ仕事をしている他の者と比較して、自分の給料が低いことに気がついたのが、また転落のはじめとなった。
施設に戻り、その旨を話すと、やむを得ないのだと言われた。うちのような施設から雇ってもらうには、安くても働きますと言わなければ、どこも雇ってくれないのだと。
湯田は、馬鹿馬鹿しくなった。一体、何のために、毎日、毎日、糞便で汚れたトイレの掃除を続けてきたのか。
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