タハグ草原からの遁走

宇部詠一

タハグ草原からの遁走

 タハグ草原は有史以来、遊牧民とケンタウロスの王朝が盛衰を繰り返してきた土地である。今は緩やかな同盟で結ばれているとはいえ、部外者がと安全に通れるとはいいがたい。季節は夏、人里からも水辺からも離れた草原の一画を、馬で走り抜ける者がいる。太陽を遮るもののない正午近くで、賢明な者は休息を取る時間であるにもかかわらず、彼は馬を飛ばしている。

 くたびれているとはいえ、彼の旅装は高価に見える。だからだろうか、彼を追う騎馬の軍団がある。この草の海には盗賊が多い。確かに、通行税を払えば用心棒になる者は数知れない。しかし、そこに草原の民同士の争いが絡んできて厄介になる。敵対する相手の財産を狙う者もいる。タハグの遊牧民とケンタウロスのあいだでの怨恨は完全には忘れられたとはいいがたいし、それぞれの王家にも内乱の種がある。ヒト同士でも、ムルググやキュルクハの争いは続いている。

 男は人影を見つける。助けを求めて叫ぶ。近づくにつれてケンタウロスだとわかる。彼らの視界に入ると馬から降り、身体を大地になげうつ。こうすることが、彼らに対する敬意だと聞いていたのだ。伏した男はまだ少年と言ってもいい年ごろだ。ひげも薄い。

 ケンタウロスたちは事情を察したのか、敵の騎馬隊に矢を放つ。ある種の鏑矢で、恐ろしげな音を立てて飛ぶ。風音があたりに響く。弓をつがえたときの所作、あるいは矢の羽の文様から、王家直属の部隊だと知られる。つまり、草原の外れまで名の響くカルグーン王朝の子孫たちだ。

 ヒトの眼ではまだ捉えがたい距離であるにもかかわらず、敵の騎馬隊は浮足立つ。誰かが射られたか。ケンタウロスはヒトよりも屈強な上半身を持ち、ヒトにはとても真似のできない技を持つ。巧みな者は矢で敵の首を吹き飛ばすと古の物語に伝えられている。現に両腕を吹き飛ばされたものがおり、馬から落ちる。二三人が続けて落ちる。

 敵はすべて討ち取られるか引き返す。これ以上のもめごとは御免だとばかりに去る。男は感謝の言葉を述べ、名乗る。私は山のむこうに住む役人、シャリアグと申します。ナダハド王のために薬を届けに行くのです、と。しかし、用心棒たちは皆殺しにされてしまいました。もしも無事にこの草原の果てまで送り届けていただければ、褒美はすべて思いののままです。しかし、ケンタウロスたちの目は冷たい。

 彼らは告げる。ここは聖地である。カルグーン王朝の祖の生まれたのはこの一帯であり、部外者の侵入を許してはいない。ここは王家だけでなく、我が民族にとって崇敬すべき土地であり、そこに足を踏み入れた王家の血を引かぬ者は、死をもって償わなければならない。そして剣を一閃、シャリアグの乗っていた馬の首を飛ばす。吹き出た血が大地を濡らす。罪を清めるのは侵入者の血である。

 シャリアグはこれ以上ないほど頭を下げる。そして、懐から矢を取り出して見せる。この矢の示す通り、私はナダハド王の使者なのです。非礼はこの通り詫びます。私は常々ケンタウロスたちの知恵に敬意を払って参りました。ナダハド王の軍勢が近隣諸国を圧倒しているのも、あなた方の弓術のご指導あってのことです。また、あなた方の予見の力のおかげで、キハダシュの反乱も未然に防げました。私がどれほどの無礼を働いたかは重々承知しております。

 しかし、これなくして王は生きられないのです。あと数週間の命でしょう。別の使者が草原を超えた先まで薬を取りに行くだけの時間はありません。ナダハド王が今倒れれば、国が佞臣イティアのものとなってしまいます。

 関係ない。最も背の高いケンタウロスは告げる。この非礼は我らの良き隣人、ムルググやキュルクハの民であっても許しはしない。我らに踏みつぶされるか、弓で射殺されるか、選ぶがいい。

 冷酷な宣告に、シャリアグが死を覚悟した。苦痛と無念を抱いてすべてが終わるであろう。王は崩御し、国は乱れる。絶望した先に、別の鏑矢が足元に連続して刺さる。

 頭を挙げて弓がどこから来たかを見ると、女性のケンタウロスが弓を持っていた。伸ばした髪を簡素なリボンでまとめているほかには、身体を飾るものはない。あとは日差しと風雨を避ける簡素な衣類だけだ。マントにはリボンに似た模様がある。おそらく彼女の血筋を示すものだろう。ほっそりとした身体はまだ幼さを残す。ケンタウロスがヒトと同じくらいの年の取り方をするとしたら、シャリアグと同じくらいの年恰好だ。

 彼女は何も言わず、カルグーンの子孫たちの周囲を回る。彼らは気おされていると言ってもいい。言葉は交わさない。彼女は急にしゃがんだかと思うと、シャリアグの衣服をつかんで背中に乗せた。そして無言のままに駆け出す。


 シャリアグは驚いている。カルグーン王朝の末裔たちは、背中にヒトを乗せることを好まない。それは獣のすることだと見くだしているのだ。ましてや、未婚の女性が背中にヒトを乗せることは非常に恥ずかしいことだと聞いている。彼にできることは、命を救ってくれたことをひたすら感謝することだった。

 この女性はヤムラと名乗った。私も逃げている。そう言って笑った。草原の嵐のような厳しさを秘め、そよ風のように。何からでしょう? とシャリアグは尋ねる。彼女は答える。あの背の高いケンタウロス、クホルドから。

 シャリアグはこれほど強い女性が、何を恐れているのかを訝しむ。ヤムラは笑う。私はクホルドからプロポーズされているんだ。なるほど、とシャリアグはうなずいた。

 タハグ草原のケンタウロスの間では、男性が女性に愛を告白すると、女性は全力で逃げる習慣があった。逃げる相手に追いつければ結婚が成立する。愛する女性を求めて何日も走り続けられるほど強い男であってこそ、初めて妻を射止められるというわけだ。カルグーン王朝よりもはるかに古くまで遡る風習だ。一説にはケンタウロスの始祖がそうやって結ばれたのだともいう。

 もっとも、今となっては王家の末裔のあいだか、昔気質の人びとの間でしかやらない儀式だし、ほとんどの女性はそんなに長いこと逃げたりはしない。温かく見守る親戚に見守られながら、数時間走ってみせる程度だ。それに、そもそも本気で嫌がっている相手にプロポーズするのはケンタウロスの間では恥とされている。それではなぜクホルドはあなたにプロポーズを? とシャリアグは尋ねる。ヤムラは、クホルドはそれだけ愚かな男だし、だから嫌なのだと答える。それでも、儀礼についてはちゃんと学んでいるようだとヤムラは笑う。儀礼? そう。異邦人の前で婚礼の儀式を行ってはいけないという決まりがある。だからあの場で私には触れることができなかったのさ。


 ヤムラは国境までシャリアグを乗せていく。ケンタウロスの背中はどのような馬よりも乗り心地がいい。どれほど急いでもほとんど揺れないのが不思議だ。それに、馬のような背骨があるはずなのに固くない。まるでクッションの上に座っているようだ。どこまでも続く草原でなぜ迷わないのかも驚きだ。シャリアグが言うとヤムラは笑う。山や星の見える方向が頼りになるし、時々見える石柱も目印だ。ひたすら続いているだけに見える草原にも、放牧していい場所とそうでない場所の境界線がある。石柱を立てることを思いついたのはムルググだ。キュルクハは獣の皮をなめすのがうまいし、文字を書くことを思いついた。しかし、弓矢では我らが強い。ヤムラは休むときにはそんな話をしてくれる。歴史書には記されていない伝承を多く話してくれる。彼女は教養ある高貴な女性だ。さすが王族の血を引いている。ナダハド王の前に出しても恥ずかしくないだろう。

 なぜ若いそなたが使者に? ヤムラが尋ねるとシャリアグは照れくさそうに笑う。ケンタウロスの弓術に憧れたのですが、その才能がなかったのです。だから、せめてあなた方の言葉や文化を知りたくなり、学院で学んだのです。だから、この土地を通る使者に選ばれたのです。

 なるほど、とヤムラはうなずく。確かにそなたの言葉は流暢だ。多少のなまりはあるが、言葉の使い方におかしなところはない。しかし、言葉を学んでも憎まれてしまうことがあるのは悲しいことだな。そうですね、とシャリアグはつぶやいた。

 やがて草原の果てるところが近づいてくる。そこはナダハド王の支配下だ。そこまで行けば大丈夫だ。シャリアグはヤムラに礼を言い、もしよかったら、しばらく休んで都を見物して帰ったらどうかと提案する。ヤムラは首をかしげる。ケンタウロスが訪れても珍しがられないかと。そんなことはありませんよ。数は少ないですが様々な姿をした者がいます。クホルドから逃げるためにもここで暮らしてもいいんですよ。


 だが、突如、国境を示す石からそのクホルドが姿を見せる。そしてシャリアグに弓をまっすぐに向ける。この場でお前を殺せば、異邦人はいなくなる。つまり婚礼の儀礼は可能になる。そしてこの場でヤムラを我がものとしよう。ヤムラも弓をつがえる。互いに距離を縮めず、周囲をめぐる。

 先に撃ったのはクホルドだ、しかしヤムラも放つ。矢と矢が宙でぶつかる。シャリアグは起きるはずのないことを目の当たりにする。上古の弓の名手であっても目を見張る技だ。二回、三回と矢がぶつかって地に落ちる。クホルドがここまで愚かでさえなければ、武人としての名が永遠に残ったものを。

 ついに矢筒の矢が尽きた。いや、ヤムラのほうが矢が一つ多い。シャリアグの矢だ。シャリアグはヤムラにそれを渡す。これを! 羽には王の紋章がある。ヤムラはクホルドに向けたまま叫ぶ。去れ! しかしクホルドはヤムラの背後にまわり、そのまま襲い掛かろうとする。背中に乗ったままのシャリアグを叩き落として殺し、卑劣にもヤムラの意に反して身体を己のものとしようとする。シャリアグ、伏せろ! ヤムラは叫んで振り返り弓を放つ。弓はまっすぐにクホルドの喉に刺さる。いや、猛烈な勢いで首を吹き飛ばす。それはヤムラの怒りだ。彼の身体はまだ頭を失ったことに気づかないかのように後ろ足で立ち上がり、欲望を遂げんとヤムラの身体に倒れ掛かりそうになる。ヤムラは、それを汚らわしそうに避ける。重い肉体がどうと倒れる。この愚か者はもはや二人を襲うことはない。


 さて、とヤムラは言う。これで私も同胞殺し。帰れなくなったな。シャリアグはしばし無言のまま。しばらくして口を開く。ナダハド王はあなたを無下にはしないでしょう。薬を持ち帰ったのですから。

 ヤムラは首をかしげる。王からいただいた矢を使ってしまったのは、無礼には当たらないかな? いえ、わが国では昔からその場にあったもので窮地を潜り抜ける物語が好まれます。王もその冒険譚を喜ばれることでしょう。そうか、とヤムラは笑う。

 シャリアグはヤムラの背中から降りる。なぜ? とヤムラは問いかけるような表情をする。王宮まで一緒に行けばいいではないか? あまり人前では貴婦人の背には乗りたくないのです、とシャリアグは草原のほうを向いた。

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