DNA

赤川凌我

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赤川凌我

前方

午前、今日は早めに目が覚めた。昨日の夜はこういう悪口が聞こえた。「赤川君頭悪すぎ」と。僕は幾度も爆発しそうな気持を抑え入眠する事に徹していたのだ。幻聴というものはまことに恐ろしいものである。僕の人生をぶち壊した。この統合失調症の経験を小説にすれば芥川賞でも取れるだろうか。

教育は理解しなければならない。統合失調症は若者に無縁の存在ではないとPTAも理解しなければならない。病気への懐の深さこそが絶好の試金石である。沽券に関与するこういった障害への態度こそが絶好の試金石なのだ。

僕の前方には穏やかな自然があってほしい。濃緑の草原を、戯れる柴犬を、都会の不毛の大地よりも僕はこういった自然を愛している。現代人に失われているのは自然を基調とする安定した精神である。宮沢賢治も自然を愛する作家だったと僕は仄聞する。仄かな絶望に一喜一憂して生きるのはもう御免だ。時代の潮流に乗る事も重要な事相違ないのだがそれよりも重要な事がある筈だ。僕達は車輪を回すハムスターよりも車輪を眺めるジョンレノンも言及した鑑賞者でありたい。もう激烈な回転、そのデッドヒートなんてうんざりだ。統合失調症も早く踵を変えて立ち去ってくれ。元いた場所に帰るんだ。そう、ゲットバック。僕の心は疾病により麻痺してゆく、意識は遠のき、海中の藻屑となって、歴史の暗黒に分解されてゆく。路傍にへばりつく動物の死骸。今でこそ居丈高に、華美に、取り繕っている人間であっても不意に死ねばこうなる。死は身近なのだ。ジムモリソンは人生とはLSDと言った。Living Sex And Death(生性死)という意味らしい。彼の言葉もある意味金言かも知れない。僕達は絶えず常軌を逸した所業の如き日々を過ごしているのである。

幻聴の残党、僕の頭部に血が浮腫む。痛覚は剥き出しになり、まるで秘孔をつかれた悪党の如く僕はなす術なく倒される。生老病死の現実の中で僕達は、どう生きるか。これは壮大な成功物語への序章なのか。僕への不当な扱いは人生で終始一貫して継続するのだろうか。人間でなければこのような不安にも対峙する因果もない訳であるが。濃紫の電気が僕の鋼鉄の肉体を容易く感電させている。この地獄の責苦。また恥を無意識にばらまいている事への罪障意識。自信を鼓舞する為の虚栄に満ちた自画自賛、奔放な発言。その言外には周囲の大衆と同じように悲哀の臭いが漂っている。僕の言語性知能なんてお粗末なものである。如何に洗練され、節度ある言語表現能力を持つ巨峰であっても超越的な、形而上学的な事柄を示す際には相当骨が折れるだろう。

天高く飛び交う猛禽の一団。耳をつんざくような狂人達のホイッスル。埠頭に佇む老齢の夫婦はぼそぼそと会話を交わしながら恍惚とした眼で大海を眺めている。かつて漁業に没頭し、高度経済成長の日本の社会を思い、ただ眺めている。海中へ。底の方では異形の深海魚。熱帯では珊瑚礁、そして海藻が悠然と繁茂している。海神でさえ、今日日の環境問題には立腹している事だろう。実に哀愁漂う人類文明の弊害である。

「気持ち悪い」、「変態」、「デブ」。ああ、五月蠅いなあ!僕の生活を汚すな!この幻聴という悪魔ども!僕が一体何をしたと言うのだ!この幻聴は幸福な白昼夢さえも破壊する!何たる悲劇だろうか!精神病理はどれだけ僕を苦しめれば気が済むのか!僕は悶々とした思いを維持したまま物思いに耽っている。涙なくしては語れない、悲劇の集積。いつから歯車が狂ってしまったのだろう。尤も、真に幸福な青少年などは存在しない。同様の苦痛で顔面を引き攣らせている御仁もきっといるに相違ない。

統合失調症の無闇な殺生。超自然が死屍累々の自殺者を、統合失調症の魔の手を利用して大量殺戮していった。この病気は頗る自殺率が多いのだ。実際まともに働けない者もざらにいるし、経済的な窮状に陥っている者も、対人関係の潤沢さを悉く喪失して恋人はおろか、恋人さえも出来ない者もいる。超自然の心理学とは?そこにダニングクルーガー効果はあるか?そこにカクテルパーティー効果はあるか?そこに認知的不協和はあるか?人生を棒に振るような悪行をして、どんな思いで僕達を俯瞰しているのだ?否、そもそも俯瞰しているのか?僕達の生活のどこに君の肉眼が、その忌まわしい肉眼があるというのだ?

僕の前方、広大な現実。ここには多くの生物が生活を送っている。独善的な行為で他の種を脅かす生物もいる。既に任務を終えて耄碌し、ただ穏やかに生きている生物もいる。僕のように統合失調症に迫害を受ける者もいれば、前途洋々の、未来を嘱望された我が子をあやす人妻もいる。フロイトの精神分析、赤川の理論精神学、ユングの分析心理学、アドラーのアドラー心理学。精神の研究手段はある。精神医療の前途が近い将来、突拍子もない発達を遂げて、僕のような強制的に不幸にさせられている弱者を感知できる事が出来ますようにと我は祈りし。


ボディビル

美風が僕の肌を撫でるようして吹いてゆく。雅楽の学僧に狂気に満ちたシャーマンの、魔法の言葉が同居している。海流の混沌は激しさを極め、いずれは列島を沈没させてゆく。天変地異の最中で、大気圏を隔てた僕の宇宙は絶えず肉体を鍛錬させてゆく。ボディビルの哲学。

21世紀の統合失調症当事者。泰然自若の青年は飽くことなく空想をして、飽くことなく試行錯誤を続ける。そしてその果てには甚だしい成長が仁王立ちして待っているだろう。楽観しようじゃないか。僕は彼で、彼も僕。この時空上の酩酊を従えて、存在を極めてゆこう。眠りゆく、衰亡の文化の中で。

彼の豪語は立派なものだ。その眼球に壮大なスクリーンを忍ばせつつ、腹心の独創性で世間を席巻させた。非物理の、肉体。暗喩上の肉体、そのボディビルを通じて彼はここまでしたたかになったのだ。そしてその過程の全貌こそが彼を十分に物語り、彼を彼たらしめる代物なのだ。

 僕はこの幻聴生活で卑屈になっている。彼はどうだろうか?底なしの強靭さで生き抜く力を培ってきたのだろうか?どうやって夫婦円満になっているのだろうか?

分からない。僕は僕を毒づく声が聴こえる。僕の作品ですら「下手くそ」、「最低」、「ゴミ」などと。罵詈讒謗は未知の怪物へと変化し、好き勝手に喚き、破壊活動を傲然と行っている。僕はただ子羊の如く慄然とし、耳を塞ぎ、気を紛らせようと努めるのだが、それでもこの悲運の連鎖とその残滓は拭えないのだ。僕は祈る!神々のご加護あらんことを、と!幻聴は無意識の産物であり、解離性の人格に近い。蓼食う虫も好き好きで稀に美辞麗句の幻聴もある。僕はそれらの怪物に翻弄され、嗜虐的な態度で不安や恐怖を煽られる。どれだけ世界が残酷に見えているか、このフィルター越しの世界が!

こんな僕でも強くなる。心のボディビル。レジリエンスの会得、不敵な微笑の完全装備、艱難辛苦を蹴散らすその体躯。病気がなければ対人恐怖になる事も、学業不振になる事も、24年間依然として恋愛未経験になる事もなかった。しかし僕はそれらの障害を破壊するのだ。破壊と再生のプロセスを経て、人類は進化を遂げ、生き延びる。ダーウィンの進化生物学もそう言っていただろう。

愚にもつかない流行より、心の安寧を。統失だろうが、健常者だろうが、僕達大人はその叡智ある決断をする義務がある。そうだ、僕。大人としての義務を果たせ。このようやく得た正義を面目躍如させるんだ。僕の思想は僕の血肉、僕の仕事は僕の魂の燃焼。不当な悪口を言われようが僕はありのままの僕でいる。余りに幻聴生活が長くなると頭脳が痴呆してゆき、しょっちゅうこの悪口の幻聴は本当は現実の音で、皆で寄ってたかって僕を淘汰させようとしているのではないかと疑念が台頭する。

僕は愚者たちの欺瞞を鵜呑みにしてただひたすら奔走していた。しかし相対的には世間は何も変わらず、僕は自分の無力さ、矮小さを嘆かずにはいられなかったのである。また、僕は自分の弱者の現実を肯定したくなかったから色々な事を懸命にしてきたというのもある。真に自己への不満や齟齬がない者はそもそも苦しみ、悲嘆に暮れるばかりでそれを有益な、生産的な活動に昇華させようとはあまり思わないであろう。

僕の文章は他者への純然たる発信というよりも自分への呼びかけ、啓蒙をも含んでいるものである事を僕は白状する。いつだってそうだ。生命力溢れる精神論だろうと、疾風の如き不平不満であっても、アイロニカルな芸術体系だろうと。少なくとも僕の場合は発信をしばしば混合物として現前するのだ。恥の上塗りだろうと、二番煎じだろうと、ビートイットの連続であっても、僕は生きなければならない。妄りに自殺をする事は畢竟生命への冒涜に相違ないのだから。

蓼食う虫も好き好きだ。こんなみすぼらしく、汚らしく、無知で、下品で、不器用な僕であっても好意を寄せてくれる人だっている筈だ、と僕は思いたい。僕の諸活動を温かく包み込み、なおかつ是認する、そんな幸福な現実が実現すればなんて理想的だろうか。

言語表現を通じて自らの知的肉体を鍛える事。それが僕独自の詩人としてのあり方の一つである。それに異論するものもいるだろうが僕は自分自身を頑として貫いて見せる。今、初夏の雰囲気が日本全土を覆っている。シビアでシリアスな冬を経て、うららかな日差しと桜の木の乱立、彩を経て、四季はかくして日本の文化的土壌を確固たるものにしていくのである。聖なる長身美人の声が津々浦々に響き渡る。僕は恍惚としてその音を聴き、幻聴生活を慰撫させるのだ。この音声は非現実的で、従って主観の内で躍動するのが関の山だが、それでも僕は現実と同じく観念や現実の中にも遂に美を発見するのである。何もない場所から生まれているように見えて、実はそれは既に僕であり、他者である僕は僕を見つめているのだ。ところで、楽しいではないか。オーイエ―!



 僕は統合失調症で知情意の統合を失調している男だ。思えば「僕」という一人称は僕に優美さと個性を与えたがそれは統合失調症が仮面を被った大いなる副産物だったのかも知れない。僕は「僕」という一人称を実に19歳の頃から多用し始めた。僕は思春期にボビーフィッシャーに憧憬し、僕とコンテンツにおいて翻訳された想像上の彼と自己同一化する事で遅々として成長しない僕の統合失調症の症状を追い立てようとしていた。およそそれは思春期にありがちな夢見がちな試みの最たる例だったのだろう。多くの創造性がこの「僕」という一人称から生起した。僕はこの人格を演じ、本来の自分に癒着させる事で漸く多くの業績をあげる事が出来た。幻聴、罵詈雑言が支配的な幻聴によって僕はまともに勉学に励むことが不能になった。励みたくても病気がそれを阻害した。自分のやらない口実、出来ない口実に病気を立てる事に僕は人知れず後ろめたさや醜さを感じていた。この葛藤、荒唐無稽の葛藤が僕を自殺思考へと牽引させる事になった。僕は自分の人生だけが特別に不幸だったとは思わない。苦悩なくしては創造や研究も出来なかったかも知れない事を慮れば、やはり災い転じて福となす、だったのかも知れない。

僕は自分の怠惰を蛇蝎の如く嫌忌する人間である。しかし統合失調症の性質は患者を否応なく、表面的に怠惰に見えるように変化させる。本人は色々と思うところはあるし、人生をただ徒食に過ごす事を自らの主義主張としているとは限らない。これが統合失調症の不幸の一部なのである。僕は僕自身について語る事で何らかの効果を期待している。僕が声高に哀訴する様子を見て、何らかの社会に警鐘を鳴らす効果があれば非常に作者冥利に尽きるものだと思っている。

病気を利用し、才能を開花させる事、この長い道程は必ずしも理論的なものではなかった。僕は感性をメインにして自らの人生を切り開いてきた。障害によって気分の病的な起伏が生じる事は頻繁にある。今でも僕はフルタイムで仕事に取り組む事が出来ていない。殊に朝の倦怠感が酷くやむなく仕事を欠勤する事も珍しくはない。僕は普通のレールから逸れてしまった。僕は弱者として、自分の思う所を述べ、表現し、散逸させる。それらの一部分にでも秀逸なもの、他者の琴線を刺激するものであれば良いのだが、現実はそう上手くいかない事も確かである。

 存外、恐怖にわななき、総毛だつような断末魔を聞き、夥しい不安に体を鉛のようにしていたとしても自然の美は変わらない。巨匠である画家のムンクは「叫び」という作品の中で自然そのものが大きな不協和音をあげて作者本人が耳を塞いでいるが、僕はあそこまでの隔絶された自然の天変地異の経験はしたことがない。僕は16歳で幻聴や被害妄想が先鋭化した時、電車でも、街でも、店頭でも、往来でも、自宅でも、学校でも、常に僕を攻撃しているかのような甚だしい緊迫感を感じていた。まさに地獄の本格的、決定的な発現である。しかしそれは人間のみの妖怪変化であったのだ。したがって僕は外を恐怖し、人間を恐怖するが、人間を度外視した自然には恐怖する事はなかったのだ。

安易に自分が病んでいるなどと口にする現代人を見る度に僕は激しい殺意を抱いた事もあった。しかし今は人にそう言わせる環境や脳髄の構造がそもそも病的であり、それらの機能不全はまさに病気と言っても過言ではないのではないかと思ってしまう。

罪悪、見渡せばどんな社会にも罪悪はあるものである。僕という存在自体も罪悪であるし、資本主義社会も罪悪、あらゆる産業も罪悪を伴っているものである。しかしそれはどんな完全無欠な存在であってもそうだと思う。神であっても例外ではないのかも知れない。

粗い視界、厳かな寺院、賑わうJR、仕事の合間に一服する中年男性。僕の物語は、何でもない放浪の一場面に凝縮される。如何に気宇な事を豪語したとしても、どのような功績を成し遂げたとしても心の空虚を消し去るのは愛である。愛こそすべて。フロイト曰く、「人生とは働く事と愛する事」。統失は僕の馬車馬の如き荒々しい奔逸や仕事への没頭が出来ずにいる。人間世界の埒外には山岳があり、清冽な小川があり、明媚な道々がある。空中は闊達に広がり、僕の情動は空中と結合する事で僕達は一体となる。全ては全てから来て、全てへと帰ってゆく、とはルネサンスの万能画家、レオナルドダヴィンチの名言である。人間は巷の殺伐や腐敗、汚れから逃れ、大きなスケールで物事を見る事で真に自由にならなければならない。日本社会の同調圧力や文化的な、土着の陰湿性、これらは頗る不愉快なものだが、どこの国家であっても同調圧力はあるし、固有の頑迷な悪習慣もある。ヴィトゲンシュタイン曰く、「語りえぬものには沈黙しなければならない」。これは僕の曲解かも知れないが、専門外の事には出しゃばって意見する事は余計な障害を上塗りするだけである、この哲学は君子危うきに近寄らず、にも似ている。



自衛の一群

やられたら、やりかえす、倍返しだ。これは僕の少年期に話題となったドラマの決め台詞である。やられたらやり返す、これは最も原始的で不完全な自衛の精神に根付くものが含まれているものだと僕は思う。いじめという学校での問題が物議を醸すようになって久しい。昨今では少子化が進んでその辺の事情がいじめに影響を及ぼしたかどうかは分からない。しかし少年少女の感情の機微とは人類の血塗れの、野蛮な歴史を端的に表現する事が往々にしてある。学校は巨大な食肉工場や屠殺場となって人間の将来、子供という曙光を消してしまう事も少なくはない。尤もそれはいじめに限った話ではなく、まことに不道徳、不徳の習慣は我々の社会体系そのものを堕落させてしまうものである。

知能の統計はガウス分布であり、IQという杓子定規の下で平均付近に多くが密集している事が人口に膾炙している。これは多くの人間のコンプレックスとなっているに相違ない。僕はそういった人々を沢山目の当たりにしてきた。所謂、凡庸、凡人という概念に対する負い目である。自分は人生の主人公ではない。恵まれた容貌を持っている訳でも、卓越した才能を持っている訳でもない。粛然と、謙虚に生きる事が日本人の美徳であり、大仰な幸福はなくて良いし、大いなる絶望を回避したい。臆病な心理が僕の身近には蔓延っていた。無論僕の一個人の経験をあたかも証明の結論の如く一般化して断言してしまう事の危うさも僕は知っている。しかし僕は平生から思っている事ではあるが、敢えて誤った認識を猛々しく示す事で、大局的な勝利を見据える事が重要だ。そしてその勝利が成就された時、僕はほくそ笑むのである。倒錯した手法である。

自衛の雑兵、筋骨隆々の傭兵。歴史が織りなす知恵に富み、博識の巨神兵。兵士はポーンであり、ちっぽけな存在。しかし岡本太郎も言っていたが小さな存在こそが世界を覆うのである。人生とは死に至る戦い。この言辞を思春期の血気盛んで露悪的な僕は愛好していた。超自然的な文学をかつての僕は崇拝していた。しかし今の僕にはそれはない。思考は段々と実際的、現実的になってゆき、自衛の名のもとに魂の真善美とは異なる衝動に駆られてしまう事も少なくはない。今の僕はそうした邪念を、懸命に振り払い、何とか自分の尊厳や個性、通俗性と袂を分かつ存在感を大事にしようと努めているのである。

僕の芸術は僕を迫害し、差別し、軽蔑した人々を憂さ晴らしの如く登場させる事も決して少なくはない。芸術は作者本人のパーソナリティや嗜好とは無関係ではあり得ない。シュルレアリスムの自動記述にしたって、それは本人の無意識上の嗜好であるし、生活上の着想もパーソナリティにより大なり小なりバイアスのある代物であるだろう。これはもしかしたら僕の誤解かも知れない。誤解を敢えて学説として確立させるこの僕の癖は僕という人間に付随する商品のようなものだ。少し話はそれたが僕の芸術も過去の僕の辛酸の極みともいえる経験に対する自衛である。過去のそれらの経験が僕を否定し、批判する事を僕の自信のなさが勃興する事で思わず肯定してしまいそうになった時、僕は己の生命を死へと至らしめない為に自衛に至るのである。デストルドーとはフロイトも晩年に主張した学説の一部であり、その概念は僕の言論上の自由を更に拡張させている。学識や知識、知恵などは表現を自由にさせる事は周知の事実ではあるが。

自衛を死守する意味での人間の諸活動。それは卑近なる危険性に対する反射的な反応。危険性が幻影であれ、正真正銘の真理であれ、自衛に至るまでの一連の心理学がある事は事実である。近世の哲学者、カント、デカルト、スピノザ、ヒューム、ロック、ベーコン、バークリーなどのエレガントな理論体系はこれらの問題に哲学的な解釈、整合的な解釈を与えるだろうか。僕は哲学の達人や名手ではないので全ての哲学書を読破している訳ではないので自衛に対する解釈の有無については寡聞にして知らないと言う他ないのである。しかし哲学というものは僕の人生を引き立たせてしまった。僕は高校生の時分に自身の進路を哲学科に決定した。その時は単に中二病的な耽美性が僕を支配していた。そして大学に入り、一人暮らしのストレスが祟って精神病院に入院した事もあった。しかし哲学への情熱は大学時代を通して失う事はなかった。岩波文庫の大学での哲学書を読みふける事が僕の大学時代の日常の一部であった。

ものとものは引き合う理論。それはニュートンの万有引力の主な着想である。僕の人生でも僕のマインドと何か、時には他人の心や愛などの形而上学的なものまで僕は引き寄せられたり引き寄せたりしてきた。そこには対象物により重力加速度なども違う訳である。そして加齢に伴い、プリンキピアでニュートンが幾何学の主に手法で力学の説明をしたが、18世紀以降数学者、科学者などによってその力学に解析力学という手法での説明が取られた事のように、新たな高度な手法をも、言語化出来ないが僕は自分の人生に導入できたような気がする。



腹心

 繊細で、優しい。それが僕をよく知る者の僕への定評である。特に母親はそうした僕の特徴が創作をする上できっと役に立つだろうと言っている。腹心の人々。社会は決して悪辣な人物で溢れかえっている訳ではない。そう思ってしまうのは病気がそうさせるからだ。もっと公明正大に物事を見れば、世界はより光り輝く筈である。碌でもないレスバトルで神経を消耗させたり、マウント取りで愚にもつかない虚栄心を満たしたり、そういった人間の下衆な活動を僕は回避したいのである。心が弱い方向に流れればそういった本能に根差した悪習慣は育ってしまうので要注意である。僕の腹心の人々は僕の人生を照らし、誤りがあればそれは違うと穏やかに僕に諭し、僕の健やかな、楽しい人生を心から願ってくれている。これは決して神話上の存在の話でもなければ僕が慎重に吟味、分析して発見した人間の善なる側面である。人間は完璧ではあり得ない。全てにおいて神域の才能を発揮出来る人間などはいない。今善人であっても、昔悪逆と略奪の限りを尽くした人々もいる。案外僕を差別したりした人間も同じかもしれない。僕は彼らを見限り、様々な方途で彼らを低能にして表現したが、それは僕自身の醜い心の力学である。もっと落ち着いてきたら自分という実存をもう少し客観的に見つめられるようになるかも知れない。まあともかく僕はそういった人間の欠点も知っている。しかし善なるものは確かに社会の中にある。視野の狭窄で語るのは辞めよう。今こそ心理を見通す第三の目を持とう。僕はそう思っているのである。

僕の腹心の人物と言えば僕の友達がそうである。今でこそ多忙を極めてこっちに久しく連絡を寄越してはいないが彼らは僕が統合失調症だと知っても、錯乱した僕の自我を知っても見捨てないでいてくれた。非常に稀有な、珠玉の人々である。僕は彼らの事も大切にしたい。僕は彼らと酒飲みに出かけた事がある。僕は彼らの前ではやや落ち着いた状態で話すことが出来た。彼らは幼稚園或いは中学校からの腹心である。無論彼らにだって悪いところはあるが僕は彼らのありのままを愛している。性的な意味ではないが。その友達の一人はIT関係に聡く、ゲームが上手い、また色々と書物を貪り読んできたからか博識であり、肝の据わった青年である。非常に精神年齢の高さを感じる一方、どこか病的な獰猛性が時折見え隠れするところも立派な個性である。彼は同性愛者で、日本の伝統にも何らかの思い入れがあるらしい。伝統を軽んじる荒廃的な現代日本人も少なくない中、彼のような文化人は非常に貴重である。これから先も頑張って欲しい。

また僕の腹心の友達の別の一人は長身で、異性受けしそうな外見をしている。またユーモラスな事もしてくれるので僕は思わず破顔してしまう。彼は男気を信奉しており、日夜男磨きに没頭しているようであった。社会に出ても自らの力で逞しく生きようと努力しており僕は彼に非常に関心するし、尊敬してしまう。また他の腹心の友達もいるが僕は敢えてそれを割愛する。秘すれば花である。

僕は僕の腹心の幸福を心から祈っている。或いは自分自身の幸福に匹敵するくらい僕は彼らの幸福を祈っている。この先どのような腹心が僕の心に余波を及ぼすだろうか。どのような腹心が僕を救ってくれるだろうか。実際のところ、僕は昔周囲に盲滅法に救いを求めていたが僕が求めていた救いは理論的に存在しないものであり、それに基づく諸思想も机上の空論に終始するものであった。

僕の感性を育てる腹心、僕の知性を育てる腹心。僕のその両方を育てる腹心。僕の腹心は非常に個性的であり、感じの良い人たちである。僕は彼らのおかげで強くなれる。そして将来的には長身美人の、恋人という名の腹心も僕は得られる事だろう。そう思えば楽しみである。人生を悲観して自暴自棄になっている場合じゃない。重苦しいディストピアの妄想をしている場合じゃない。僕は幸福な将来に対し心の準備をしておかなければならない。

また、僕の祖母も僕の腹心である。彼女は僕によく電話をかけてくれるし、僕の母親にも「りょうが元気か」としきりに聞くらしい。彼女の頭はまだ顕著にはボケていないようで僕は彼女との話が非常に楽しい。彼女は僕を受け入れてくれているし、僕の話に楽しんでくれているようだ(少なくとも楽しんでいる体を装ってくれるだけの度量がある)。素晴らしい人達だ。僕は彼女を賛美する。また祖父も非常に祖母と似たような庇護をしてくれた。その中には多少の男くささもあったがそれでも僕は嬉しかった。また、昔は帰省した時に祖父母はよくドライブに連れていってくれた。老体で辛いだろうに僕の事を気にかけてくれていた。その事が僕は堪らなく嬉しかった。ありがとう、腹心達。僕は生きる事が嫌になる事もある。幻聴もあるのだからそれは当然である。しかし今は彼らの存在があるから踏ん張る事が出来る。ありがとう。



師匠

今思い出す。高校時代の僕の主治医。何度目のリフレインだろう。当時の僕は彼に対して浮世離れした知的実力を発見した。高校の下校時、50分程度かかる電車の中で楽しそうな表情を浮かべながら僕は車窓からの景色を楽しんでいた。小柄な体躯で、大勢の大人達に対して若干の劣等感を持っていた僕。僕の長所、持ち味は知性だと僕は確信していた。僕の主治医との診察では僕は好き放題に喋った。彼は要点をおうむ返ししたり、紙に診察内容の一部を達筆で書きなぐっていたりしていた。彼は老齢であったが、非常に権威ある、秀才のような顔をしていた。無論それは僕の彼の医師という立場に阿った恣意的な印象のようなものであった事は否めない。

彼は微笑んだ。彼は僕を認めた。それは僕の統失発症以後の忘却しかけていた初めての承認欲求の充足であった。彼と僕は趣味があった。僕は統失の症状によりしばしば自身の将来を憂慮したりしていた。高校が二度目で過年度入学であったので、周囲より一歳年上だったという事も僕の焦燥感を助長させていた。黄昏の時刻に診察がある事が大半であった。精神科に対して僕は終始舐め切った態度でいた。横柄に自身の知識をひけらかしたりしていたので当時の僕が正真正銘の青二才である事は最早確定事項だったろう。彼は僕の師匠だった。僕の知能は早熟であり、有望であるから海外に行った方が良いと彼は再三強調した。彼の表情は真剣そのものだった。僕はささやかな彼からの教育を受けて、次第に生きる事に一縷の希望を見出しつつあった。それでも錯乱すればまた自殺の事を考えたりで極めて怪奇な波があった事も事実である。彼の言葉、それは魔法の音となり、おせっかいな印象をも帯びつつ、しかし優しく空間を伝播していった。黄昏時の診察を終えた後の言いようもない気分の高揚。人生と劇場に突如出現し、僕を空恐ろしい程の愛撫でうっとりさせるあの日々。忘れもしないあの日々。そして人生の節目と同時にその幸福な日々は忽然と姿を消し、僕と彼との交流もぱたりとなくなったのである。

しかし崇高さは想い出の中に潜むことだってある。精神医学の節穴を、彼の機知、彼の鷹揚さ、彼のペルソナが埋めていた。失って初めて気づいた。如何に当時の経験が貴重であったかを。勉学や恋愛は不能となったがあのまばゆいばかりの黄金時代。それは今も濃い愛の光を僕に投射しているのである。師匠の残滓、そしてその余波が芸術的な抑揚さえ僕に与える。


残滓

書物を通じた天才との邂逅。その瀬光機械の如き饒舌とチートな功績。僕は書物上の天才にのみ有機性を感じていた。蒸気駆動の僕の少年時代。書物上の天才は半導体を備え、高度にプログラミングされ、あらん限りの技術と叡智を集約させた先端機械に思われた。彼らの生命力に僕は圧倒され、さらさらとした日常はどうどうと黒部ダムの奔流の如き勢いを持って変化した。統失以後も僕は彼らの眩しさに惹かれた。僕は視覚過敏の茶色の精神だったがそれでも時に厳しく、時に奇天烈に教養あり独創性ある天才は僕を揺さぶり、啓蒙させた。その少年時代の芳烈な残滓の尊さよ。



踊り場

 僕は高校時代、統失の急性症状のなかった時代、登山に傾倒し、山岳部のエースの名をほしいままにしていた。新進気鋭の僕は実に熱心な瑞々しい登山家であった。惰眠を貪るよりアウトドアで神経を慰撫させようとの企図。それは看破されなかった。白銀のダンス。南アルプスの休息場では人々がテントを張ったり、馬鹿騒ぎをしたり、食事をしたりしていた。雪、それは白銀の天使だった。風流の参入に僕は抒情的に搔き立てられた。踊り場では数人の女子連中が躍っていた、あの青二才の夏。



惻隠

 大量殺戮の鬼畜ども。彼らに安易に惻隠の情を持つことは経済の念の欠落である。日本の美風は古来より惻隠の情にある部分では象徴的に表れ、それが多種多様な芸術に体現していった日本の豪傑達。僕は現代人としてこの哲学に向き合えるのか。日本の哲学思想は西洋のものと比して非常に地味だというのが僕の元来の印象である。その印象は、無意識の内に船を御し、大海に航海をして多くの稀少物質を略奪した。古来の美風に頓着しない乱雑さは近視眼的な生活を具して日常を僕の構築させる事になった。この現代の常識と古来の伝統との相克。これは一概に若者が闖入すべき事柄ではないと僕は感じている。まざまざと。深紅の血潮は僕をリスクの回避へと扇動する。



通信制高校

自由な校風。自己管理の前提。万人の憩いの場。硬直した秩序から脱していれば僕は通信制高校の学生だった。準備は捗り、社会技能も余念なく培える。そのハンディキャップある者や天才に適した学校の厳かさ。常識を穿つ、新たな存在。新たな世代には新たな象徴である。



ストケイア

原論(ストケイア)、ユークリッドによって纏められた数学上の発見数々。公理と公準を元に幾何学の基礎、暫定の基礎を彼は書物にまとめた。少し前統計では西洋では聖書に告ぐベストセラーであったと伝えられている。その書物に書かれている幾何学の体系はユークリッド幾何学として著名になった。その不動の金字塔、総本山とも言える泰然自若の存在は現在でも色褪せる事はない。名高いニュートンでさえもプリンキピアはこの原論の構成を参考にした。この書物の上梓は数学史上の一大事件である。幾何学の汎用性、その知的生活の糧となる珠玉の業績。愚鈍は見えぬ、黒煙を立てて駆ける前時代の機械の基礎にもこの奥義は宿っている。初等の数学者の恋慕はこの原論に注がれた。



エントロピー

この無秩序。エントロピー。苦しい程の我が胸中。人々の声が喚きたてる。人々の存在が追いつめる。人々の思想が破壊する。人々の邪悪な瞳が僕を心もとなくさせる。乱雑性。心の中の猛威を振るう我がエントロピー。



可憐

山川草木。花鳥風月。可憐な自然達。田舎へ目を向けろ。純粋の乱立。震災や津波、人為的事故。あらゆる事件、それらに追随する風評被害。焦土と化した過去の日本。人々は如何に絶望したか。世界は戦争に負ければ終わりであった筈なのに。文化と科学の発展の世代。万物流転の理をあらわす。可憐な存在は評価の為に存在しているのではない。鮮やかな色彩。エレガントな構造、そこには強靭があり、知性の原型がある。可憐なものに目を向けろ。



耽美盛衰

殺伐。心に余裕がなくなれば彼は美すらも忘れて闘争に明け暮れる。耽美を忘れた人間。闘争の中でも耽美を忘れない人間。分子の個々の動きが、乱雑な傾向を織りなし、方程式で計算され、カオスの中に秩序を見出す。価値観の盛衰。それは多数派の専制の結実か。はたまた絶対真理の威信か。



濃藍の空

ああ、落ち着くな。この濃藍の空。暗めに、しかし着実に、その光線は放射された物質を反射して濃藍に。作業仮説をしよう。この濃藍は人々の集合的無意識への祝祭である。飢餓に満ちた集合的無意識への祝祭である。公私ともに調和の日々にて。



凱旋

21世紀の時代、クラシックロックを聴いている若者がどれだけいるだろうか?またかつてロックンロールの熱狂に支配された青少年がどれほどいただろうか。君はジミヘンドリックスを知っているか?彼は史上最高のギタリストである。ギターを歪ませ、ギターと言うそれ以前は地味だった楽器を一躍音楽の主役とさせた。彼の存在はウッドストックのロックフェスティバルにおいて最高潮に輝いた。アメリカ国家をギターで激情的に、かつセンセーショナルに彼は表現した。当時の若者がどれほど彼に注目したか、今の僕には彼に対する情報や動画などをインターネットで発見し、それを逐次翻訳する事によって日進月歩に理解する他はない。15歳の僕は古典に対する意識が高かった。文学にしろ、音楽にしろ。僕の学業成績はそれらの没入と対照的に冷え込み、芳しいものではなくなっていった。しかし僕は彼の音楽を聴いて五臓六腑が興奮し、怒張するのを直に感じた気がした。彼は商業的成功によりイギリスでヒットし母国アメリカに凱旋帰国したと言うが、僕も彼とは異なった意味で仕事をして満足してこの人生の旅路に凱旋してきた。凱旋親子の話である。

ギターの爆裂音、ベトナム戦争で荒れに荒れた激動の世相。その世代を懸命に駆け抜けた若者たちの生々しい傷跡を治癒させるかの如く芸術は依然として膏薬への転身を遂げるだろう。随時、お気に召すまま、好みの色で。僕は邦楽の音楽はその大部分のナンセンスさに辟易し聴くことはない。しかし同様の運動が世界中津々浦々で起こっている事を鑑みると人類皆兄弟というのはとりもなおさず、議論の核心をつく華々しい標語の一つではないだろうか。困憊と倦怠、重箱の隅をつつく連中の講釈は取るに足らない空虚で的外れな、無用の長物である。真に感性に働きかけるコンテンツは音楽だ。ああ、ジミ。君のもたらした官能美は忘れない。君は僕の心に仄かな希望を味合わせてくれた。僕なんてただの侏儒だったのに。ジミヘンドリックスの思い出は今でも僕を勇気づけてくれる。あの危急存亡の頃に出会った運命。ああ、敢えて多くを語るまい。熱中出来る何かは、僕達のすぐ傍に、堂々と存在しているのかも知れない。何かに熱中し、成長していく事は人類普遍の一里塚である。対象物が大御所だろうとそうでなかろうと、また気鋭の、無名の若者であっても、僕が人生に凱旋したように、君もまた母なる大地に凱旋してゆく。そうであると僕は願いたいのだ。




フェルマーの最終定理

 僕の中学時代、同級生に新潮文庫の、「フェルマーの最終定理」を読んで悦に入っている数学少年がいた。彼の数学を炎のような弁舌で語る時の目は誰よりも光輝いているように僕には見えた。実際、この世紀の大問題、難攻不落の問題の証明を巡る戦いは歴史的な叙述で語られて然るべきものである。ピエールドフェルマーという近世数学の巨人で、パスカルなどと確率論の創始にも携わった。彼は古代の数学者ディオファントスが執筆した算術を読み、ある謎めいた文言をその書物の余白に書き込んだ。その文言が長い熾烈を極める数学史上の課題となって人類の前に立ちはだかった。そしてそれを完全に証明したのはアンドリューワイルズとリチャードテイラーという数学者ではあるが、実のところ彼ら二人だけがその証明を解いたのではなかった。大きな組織はこの定理の証明に貢献した功労者を列挙した、その中の数人が日本人であった。日本人には江戸時代より和算の伝統があり、数学に対して非常な適性のある民族である。しかしその声の小ささか、人種差別の弊害か、世界的に激賞されている日本人数学者はやはり少ない。

夭折したガロア、盲目のオイラー、谷山志村の予想、モジュラー形式、その他様々な数学的概念がこの定理の長大にして、骨の折れる証明を完成させた。これらは数学的な大道具がなければ、どのような大天才であっても解けなかっただろう、と数学者の藤原正彦氏は語った。また僕はここまでの記述の大部分に対して藤原氏の説明を参考にした。まことに純粋数学であってもそこには幾千の人生があり、幾層もの理論と懊悩が隠されている。その事を僕達は脳髄に叩き込み、いつでも新鮮な眼で世界を見る事を忘れてはいけない。アイザックニュートンも自分自身を真理の大海を前に綺麗な貝殻を集め喜んでいる無邪気な子供に過ぎないと言った。大きな仕事はこういった純粋な心による原動力によって果たされるのかも知れない。変に斜に構えたり、努力する者を嘲笑したり、不貞腐れたりしているような人間の勝率はごく僅かなのだ。したがって日本には西洋の天才の持つこういった純粋さへの軽蔑、それを達観の所産であると曲解した行為の罪深さが如実に表れていて余りあるものではないだろうか。僕達は古典や諸々の学びを通じ、繁栄への前途を堂々と闊歩してゆくフェイズにあるのだ。フェルマーの最終定理からこのような学びが得られる事は非常に幸甚な事である。日本は黄色の紅葉を終えた愛でるべき銀杏の大木のようなものだ。黄色の覚醒を、更に深めよ!



剛毅

剛毅なる人物を思い、幾度も眠られぬ夜を僕は過ごした。僕自身がみずぼらしい男だという事は分かっていたつもりだった。統合失調症を経ても剛毅を纏った、カリスマ的なシンボルに僕はなりたかった。度々ネット上で自分のカリスマ的人格を試運転してみた事もある。しかし周囲はそんな僕を狂人の戯言として一笑に付していた印象がある。実際にどうだったかは分からない。何分統合失調症の症状で被害妄想の傾向が色濃く人生に反映されていたから真実を見極める為には症状を抑え、平静を取り戻すことが通例の方策と僕は医師から教示された。そうでなければ己を強くするしかない。しかし錯乱の渦中にあり、周囲の人間が敵か味方かの判断すらおぼつかない僕にそんな余裕があっただろうか。非力ゆえの憧憬、非力ゆえの、非力ゆえの。

対人恐怖は僕の眼窩を貫通し、僕は鮮血を噴出させた。そんな僕を不憫の目で見るものは僕の知る限り一人もいなかった。これもバイアスのかかった認識ではあるが。ああ、憎たらしい。その迂回せざるを得なくなった人生、そして統失に翻弄される自身の宇愚、用意周到の欠如に僕は劣等感を抱くようになった。一歳年下の同級生を見る度に胸が締め付けられるような思いになり、もし抑制が効かなければ泣きわめいていた程だ。しかしその度に僕はぐっとこらえた。悲哀によって人生の底が濁っていった。それでも文学と音楽は手放さなかったのだがそれでも僕は自分が世界においてトップクラスに不幸な男なのだと脅迫めいた考えを抱いていた。無論それはどう考えても誤りである。僕自身も気づいていたがこの想念に信憑させる統失特有の妄想の過剰があったのだ。幻聴を合理的に推察して幻影だという事も分かっていた。分かっていたからこそ自分の意思で心療内科を受診したのだ。

病識があっても、両親が健在でも、世界が素晴らしくても、僕は悲劇的意識を手放さなかった。この悲劇的意識に陶酔する自分もいただろう。丁度太宰の「人間失格」の痛烈な世界観に陶酔するように、僕もまたこの邪悪の恒星の光を受ける惑星だった。

しかし今がある。今は視界がすっと晴れた。加齢に伴い情緒が安定してきたのか、多少の浮き沈みはあれど昔のようにただただ堕落していく思考や、惰眠を貪るような怠惰で非生産的な日々はもうない。僕は休息を取る事も巧みになった。自殺するのはとにかく足掻いて、自分なりに努力して、愛を感じ、年老いてからにした方が賢明である。



芸術

真の力。認知の攪乱。作者と観衆の関係性。技巧の青天井。AIの浸食。公理の議論。そして今、芸術の形態変化。芸術がいつもそうであったように。



黄金の地下

男は少年期、快活であった。男は青年期、苦悩した。男は中年期、吹っ切れた。男は壮年期、仄かな幸福を感じている。そして男はある日地下に侵入した。それは彼の旺盛な好奇心からの行動であった。そこは黄金の絢爛な装飾が施された夢のような世界であった。そして男は声を聞いた。「ここは老年期です。ゴールデンスランバーはあなたの罪を許します。あなたの愛を労います」、と。程なくして男は息を引き取った。精神科の医師は彼との診察中、カルテにこう記したという。「一過性の統合失調症の疑いあり」と。真相は定かではない。



最初の洗礼

僕は中学時代も終わりに差し掛かろうとしていた折、音楽の授業でロックの洗礼を受けた。激しくエレガントな音。刺激的なギターリフ。特徴的なシャウト、リズム隊の一体感。それはディープパープルの音楽であった。周囲の生徒は特に関心を抱いたようではないようだったが僕は違った。なんて素晴らしい音楽だ、と。石油を掘り当てた大富豪の最初の気持ちに近いのかもしれない。尤も僕は石油の大富豪の全貌を知らないのだが。とにかく、その時点を境に僕はロックに没入した。僕が主に愛好したのはまず古典からという事でクラシックロックからだった。

周囲の流動的な変化に僕はついていけなくなって、化石になりかかっていた。勉学に対し興味をほとほと失い、倦怠や嫌悪が支配的になり自分の心をどうして良いか分からなかった。周囲の大人にも相談できなかったし、他の生徒にも僕の弱みを見せたくなかった。僕は一人で瘦せ我慢して生きていた。そんな中僕を柔和に包み込んでくれたのが音楽であった。音楽は僕を見捨てなかった。音楽が僕の人生だった。



嘲笑

 統合失調症の僕が恐れる筆頭。それは嘲笑。幻聴や被害妄想に脚色された人々の鬼畜の表情。苦しんでいる時、何も悪いことをしていないのに嘲笑された。今でもされる。それは僕が奇異だからか?僕を淘汰しようとしているのか?これは集団的無意識の周到な手管なのか?分からない。分からないが辛い。それを相談できる相手も少ない。向精神薬は病気そのものを完治させなかった。今後もそうなのだろうか。絶望の中で、ただ沈みゆく。自棄を静謐に耐え忍ぶ。それが日本式のスタンダードなのだろうか。



認知行動療法

僕はただ書く。自分の心情を。自分の訴えを。包み隠さず。僕の言語には乱れがあり、僕の文章は空前の妖力を纏い、僕を嘲笑する。認知の歪みを治そう。その為に色々と表現をしよう。ひっそりと、粛々と、着実と。



三島由紀夫

 日本の文士。美しい文体。西洋と東洋の融合、その結実。多くの作品群、幅広い活動。個性を持たせる特徴的な一挙手一投足。三島由紀夫は真の天才である。彼は早熟の天才で小学生時代の文章も非常に立派なものであった。ノーベル文学賞の受賞に非常に近かった彼。ボディビルによる己の鍛錬、作品の闊達にして無手勝流の雰囲気。



芥川龍之介

英文学的な文章、豊富な古今東西の題材。詩的な語り口。近世を懸命に生き、懸命に創作を行った芥川。僕の彼の作品との最初の邂逅は高校の羅生門を読んでからである。少し古い表現や性格にして印象的なメタファー、洗練されたプロット。最高にクールだと僕は思った、芥川龍之介に。彼の眉目秀麗の写真や豊かな短編小説の一群を僕はこよなく愛した。そこには特に恋愛的、性的な意味はなかったが。太宰治が芥川に心底傾倒したように僕も芥川に心底傾倒した。僕の文学への熱中は15歳以後であり、文学史上の大傑作を耽読するようになった。自己治癒の為に、芸術探究の為に。国語の資料集は楽しかった。しかし僕は学校教育の枠にはまらない人間であったので高校の大部分の学業成績は華々しいものではなかった。統合失調症の症状もあって、二度目の高校入学時には基礎はしっかり出来ていると評されたり、学年トップクラスの成績だったのに、一気に集中できなくなった。僕の生活は既に、静かに破綻していた。その中で僕を絶えず見守ったのが文学であった。音楽もそうであった。芥川のような傑出した文章を書きたい、偉大な小説家になりたいというのが僕の胸に秘めた少年時代の夢であった。


罵詈雑言

 幻聴の罵詈雑言。それがなくても僕をあざ笑う人々の表情、目線は冷たく、僕を排斥しようとしている日本人の一団。僕はこの世にいらない存在。何の貢献も出来ない。誰も幸せに出来ない。人間は僕を迫害し、差別する。また罵詈雑言。矢のような発言が僕の胸に突き刺さる。苦しい。また若者が僕を見てせせら笑っている。僕はそんなに変なのか、そんなに不細工なのか、そんなに見世物にしたいのか。ごり押しか?ここはサーカス小屋か?僕が一体何をしたと言うんだ。いい加減にしてくれ。15歳から9年間。その絶望は強弱あれど、僕を殺そうと一切合切の陰謀を厚顔にも、臆面もなく実行している。僕はいつまで苦しめられるのか。人に、現実に、無意識に、脳髄に。



猟奇

自身の歪められた欲求、それに即した猟奇。少年Aは非常に自己演出的に犯行を行った。彼の異常な犯行は日本全土に伝搬した。良い事ではなかった事は確かだ。それは異常なナルシシズムによるものなのか、彼は先天的に怪物だったのだろうか、陰鬱な環境が彼をそのように醜く開花させたのか。彼の両親は慟哭したのだろうか、その全貌は一般市民の僕には知れた事ではない。


僕に好かれるなんて不幸な事さ

僕に好かれるなんて不幸な事さ。僕のような侏儒、白痴、馬鹿、愚鈍、薄らボケ、痴呆。僕がこの世に必要ない人間だって事くらい、僕は十分に承知している。恋愛なんてするべきじゃないのか。僕は社会からの自殺というニーズに反抗して、恋愛を、長身美人との逢瀬、長身美人との家庭の構築を夢想しているのだが。僕は疫病神。不幸をもたらすと分かっていながら何故しぶとく生きる?



永劫料理

永劫に料理しよう。この暗鬱の中、この不自然の中。整合性の破壊。万象を料理しよう。そして高尚な御仁に捧げよう。超一流の料理を。その美味の追究。多くの存在を満足させよう。丹精込めて作った料理。様々なスパイスをかけて。灰色の嵐を乗り越え、群青の汐路をかいくぐり、紅蓮の血液を運搬し、永劫にまで続く、極上の料理を作ろう。これは神話である。



まだ日本は始まってすらいない。諸君は誤解している。パックス日本、これから日本の曙が始まるのだ。何をうなだれている?何を悲観している?時代の流れに追随する事に疲れた?否応ない滅亡へのハイウェイを疾駆するだって?下らない。曙はすぐそばにあるのに。君は盲目を演じる、大根役者。希望の光を、文明の勃興を迎合する事が人間の公理、第一義務だ。



狂気

狂気。僕は狂気を隷属させたぞ。精神病の発症を経て、様々の艱難を経て、狂気に慄いた時期もあったが立場は逆転した。狂気。なんて偉大な力なのだろう。



アニマルズ

社会階層の役割。動物たちが縦横に動く。知性を欠いた権力への阿諛。ただ一日を生きるのに必死な人々。ああ、構造の中での惨めさよ、侏儒を見下す優越感よ。



魂の燃焼。個人となった我が同級生。僕は彼らと遊んだ。普遍的なまどろみ。虚脱も倦怠もない人間関係。多くのものを僕は彼らからもらった。大人になって気づいたよ。統合失調症という理性に即さない大災害があっても。僕はやっと追憶の中で、優しく、人畜無害で、殊勝で、屈託ない、神聖な代物を見つけた。その代物は何か?炎である。人類最初の発見発明。



統合失調症は聴衆を前に壁を隔てる。統合失調症は人間の率直な心にも壁を隔てる。生きているようで生きていない。伝わるようで伝わらない。阿吽の呼吸はユートピア。壁は心の垣根として、吹きすさぶ爽涼な空気を、息をのむような絶景を、爛熟した分析の果ての溜飲を悉く根こそぎにした。


魔力の消失

 昔、本は若者の生活に多大な影響を及ぼしていた。現代はコンテンツの豊饒、そして集中力の低迷によって、じっくり文章を精読する若者は少なくなった。言語の、そしてそれに基づく芸術の、蒼然の情報の魔力が、容易く消失したのだ。しかし本は魔力をもたらす。魔力なんて素晴らしい。実はチートなのだ。漲る力を増長させる、絶好のチートなのだ。



晩熟

 浅ましい思慮、図体だけの少年達、威張り散らす教師、周囲を取り巻く豪傑の独善。私利私欲を味わう小柄な体躯の少年。小柄は彼の劣等感。しかし彼は大人になり巨人になった。彼にとって有象無象は遥かなる格下となり、哀れな跋扈を思い一種独特の感慨に彼は包まれた。一切合財が白くなった。辺りは消失の前途を受け入れる。



酸素欠乏

沈みゆく我が意識。空気の調節加減によって僕は死ぬ。ああ、無惨な死にざまを許してくれ。鬼気迫る、詩に対峙した我が表情。死とはこれほど恐ろしいものなのか。未知が既知となるこの刹那。人間の営みは我が死後にも続く、月は地球の周囲を好転し、重力は時空を歪める。僕はあらゆる手段でこの大惨事を回避しようと試みたが、いかんともしがたくこれに屈したのだ。我が友、我がご先祖、両親よ。僕を許したまえ。このような呆気ない最期を迎える生命体の一喜劇を、上手い具合に浄化させてくれ。骨身を削った僕の創作物より、この切迫した漆黒の罠、死の皮相な諧謔性こそ将来の不条理然としたアート体系に繋がるのだ。ああ、ようやく分かった。人間にとって壮大なテーマとなるべきもの。それは不条理。カフカも書いた、不条理だ。ようやく分かった。そして我が意識は分解されてゆく、粒となって、そして流転する空気となって、文化に根付く概念となって、我が魂は消えてゆくのだ。僕の末期に見るものがどれほど鮮明か。このエレガンス。呆気ないからこそ崇高な喜劇の顕現。



長身の乙女達

愛しき、可憐な長身の乙女達。どうか幸せでいてくれ。僕はあなた方を苦しめる社会を変える。どんな卑劣な好敵手も、品性下劣で邪知暴虐の仇敵も、あなた方の幸福の為となるのであれば、打倒しよう。流れゆく愛の季節。僕は地獄を焼き払い、追い立て、極楽維持の養分としよう。善悪の食物連鎖。表裏一体の妙技。諸君が僕の世界であり、僕の全てだ。母と子と精霊、神域の三重複。長い四肢に、長身の体躯、大きく美を極限したその白銀の翼でまだ見ぬ未曽有の次元へ飛んでいっておくれ。



血塗れの野球

僕は小学生の折、少年野球チームに入っていた。あの全てがまっさらな僕の心。僕はテレビで一般に放映されていた野球アニメや身近な野球漫画を見て野球に没頭しようと一念発起した。しかしそれは地獄の始まり。僕は少年野球チームの前時代的な教育方針、指導方針と、低能の跋扈、頭が腐った大人を見た。差別や迫害は傲然と横行し、彼らは自身の欲望を無闇矢鱈に発散しようとしていた。いとわろし。練習は軍隊のようであり、指導者連中は白痴の無能であった。僕は早々に嫌気がさし、両親に野球チームを辞めたい懇願した。しかしそれは叶わなかった。そして遂に我慢できなくなり、今度は涙交じりに辞めたいと両親に懇願をすればやっと辞める事が出来た。これが僕の血塗られた悪夢である。僕はそれ以後、登山以外のスポーツに対して顕著な軽蔑と憎悪を抱くようになった。甚だしい欺瞞である。憎むべき文化の根深さである。人間はあのように堕落するのだ。



芸術家

真の奥義を獲得するプロフェッショナル。芸術の醍醐味とは何か。彼の個性とその精髄とは?芸術はどこから来たのか。芸術は何なのか。芸術はどこへ行くのか。


狂人

結局のところ、統合失調症は狂人か?そもそも別の生命体からは人間全般が狂人である。そのグラデーションに意味などあるのか。つまるところ、どんぐりの背比べだ。いわんや諍いも、軋轢も、狼藉の悉くも。時系列に関わらず。


少女陛下

多くのポーンを従える

少女陛下

君はどのようにして偉くなったのだろう?

君はチンパンジーと何が違うのだろう?


幼稚園時代は遊び放題

小学生時代は色気づき

中学生時代はSNSでROM専

高校時代は発信者

大学時代は人間の非情な品定め


君は何を得たのか?


多くのポーンを従える

少女陛下

君はどのようにして偉くなったのだろう?



多くの深緑が繁茂する郊外の土地。少女は威風堂々と歩く。そして症状は諧謔とブラックの意匠に包まれた。彼女は煩悶し、そして反抗心で道義を故意に踏み外した。彼女のそれまでの透明感のある人生、豪華な邸宅。異様な変化は、人々に勝手気ままな枕詞を使わせた。


多くのポーンを従える少女陛下

君はどのようにして偉くなったのだろう?

君はチンパンジーと何が違うのだろう?


お手伝い時代は軽薄な感覚で

アルバイト時代は如何にも驕慢に

会社員時代は既成概念に阿諛追従

フリーランス時代は無知の殉教者

老いぼれ時代は狂乱のだしぬけな爆発


君は何を得たのか?


多くのポーンを従える

少女陛下

君はどのようにして偉くなったのだろう?


今後も君は虹の上を歩くかの如き幻想でゆくのだろう

僕には一概に君を否定できないがね



21st Century Schizophrenia



歪曲のリアリズム

酸性雨、屈強な男の咆哮

子供達は欷歔し

失意は液状の毒となる

幻聴にまみれた苦痛のセール

商業はその恐怖を利用する

硬軟織り混ぜた統合失調症の奇術

21st century schizophrenia


眼光鋭い老害の跋扈

総毛立つ迫害の祝祭

狂気と感動のリバイバル

猜疑心と憎悪が彼の症状に

重層的な厚みを生んでいる

被害妄想はイノベーションを包摂する

労働に機能不全な弱者、不良品呼ばわり

漱石枕流、蜜月の夾雑物よ

21st century schizophrenia



僕はこの病的な殴り書きを見て、新時代のトレンドを先駆けてアップデート出来た気がしたのである。玄妙不可思議!


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DNA 赤川凌我 @ryogam85

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