この世界にある、すべての痛みを知りたい。

@walkwalk

第1話

僕の恋人は、ものすごく楽しそうに笑う。

顔をクシャクシャにさせて、大きな口を開けて。

ご飯を食べているときも、テレビを見ているときも、道端に何かが転がっているときも。いつも、顔をクシャクシャにして、笑う。


僕は、その笑顔と、笑いに何度、救われたかわからない。

つらいときも、苦しいときも、ストレスでどうにかなってしまいそうなときも、彼女の笑顔をみると、僕は前を向けた。

彼女は、僕にとって、生きるエネルギーを与えてくれる人だった。


だけど、ある日を境に、彼女は、笑わなくなった。

本当に、一切笑わなくなってしまった。

あの、僕の好きなクシャクシャにした笑いも、大きな口で笑う姿も、全てなくなった。



僕らは、同棲をしていたわけでも、毎日会っていたわけでもなかった。

会うとしたら、週に2回くらい。

平日の仕事終わりに、夜ご飯を食べて、些細なことを報告する時間と、休日に喫茶店で本を読む時間。僕たちは、この時間をなによりも大切にして育んでいた。


この時間は、特別なことはなくとも、たしかに僕たちの日常に、お互いが存在しているという、確固たる存在を認識する時間だった。

少なくとも、僕はそう思っていた。


誰かに必要とされる。

その感覚を初めて得たのが、君だった。

世の中には、こんなに必要とされることが、僕を安定的にしてくれて、君と一番いることが、僕にとって欲しいものの一番になるなんて。これまでの人生において、過去の自分からは想像もつかないようなことであったけれど、人の、いや僕だけかもしれないけれど、僕の求めていることが明確にこれだったと思えることは、なんとも素晴らしかった。


それは、きっと彼女にとってもそうで、彼女と僕はうまくいっていた。

僕はこの関係が続くと思っていた。


だけど今振り返ると片鱗はあったのだろう。

普段、賢く人工的な表現をすることに抵抗があった彼女から、人工的な無邪気さを感じさせる瞬間があったから。

「今日ね、大きな道をぼーっと歩いてたの。そうしたら、思わず笑っちゃうくらい大きなサルに出会ったの。」

「うん、、、。大きなサルがいたの?」

「違う違う、そんなわけないじゃない。笑

そうじゃなくて、誰かのお家の窓に、巨大なお猿さんのぬいぐるみがいたの!ぬいぐるみで、大きな猿って、なかなか見なくない?熊さんとかだったら、いそうだけど。」

「あー、たしかにね。」

「しかもね、巨大だったことも、そうなんだけど、顔がとってもユニークで! まつげがとっても綺麗に生えていて、擬人化した猿って感じだったの。きっと、猿が人間から進化するときに、お化粧したら、こうなるんだなって。笑」

「ハハハッ、擬人化した猿か。」


唐突によく分からないことを話して、僕に笑いかけた。

その笑いは、苦しさを悲しみを含んだ乾いた笑いに聞こえた。

唐突に無邪気さをまとった変わったことをする人だと示すような表現、態度。そのような態度に抵抗、なんなら嫌悪感を抱いていた彼女だと僕は思っていた。


彼女は、たしかによく笑った。

でもその笑いは、子どもがまだ出会ったことのない未知のものに対する好奇心を含んだような無邪気な笑いではなく、いろんなものごとを知ったうえで面白いとする笑いだった。

だから、彼女が無邪気さをまとうことというのは、それなりの理由があるように思ったけど、彼女の笑いが好きだったから深く言及しなかった。というか、できなかった。

なんとなく、そこに突っ込んだら、あとに引き返せなくなりそうな予感がした。

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