S.A.(シルベスター・アクマニヤン)

赤川凌我

S.A.(シルベスター・アクマニヤン)

S.A.(シルベスター・アクマニヤン)

  シルベスターと言えば日本史にその名を刻んだ偉大な豪傑である。シルベスターと言えば外国人らしい名前なので日本人かどうか、彼を知らない者達はしばしば当惑した。シルベスターの名前は、赤川シルベスターである。彼の両親は外国かぶれ、殊に西洋かぶれであ英語が跋扈している現代国際社会において昵懇を生むようつけられた斬新な名前である。彼は統合失調感情障害であると高校時代に精神科において診察された。彼は中学二年生頃から社会で生きる事に名状しがたい苦心惨憺、戦々恐々を感じはじめ、それから3か月程経過した頃に遂に勉学に対して嫌悪感、倦怠感を感受し始めた。彼は堕落するところまで堕落しようと思った。それは彼が無頼派の大文豪達に憧憬していた事も些かは相関しているであろう。彼は中学二年になるまでは学校中で品行方正、成績優秀、眉目秀麗としてその定評が人口に膾炙していたのである。彼は自身の零落を渇望しながらも苦痛に慄然とし、自らの悲運に失意を感じるアンビバレントな傾向があった。

 彼はいつの間にか小説を執筆するようになった。とはいっても巧緻なく、凡才で、敬虔にも乏しかった当時の彼であるから粗製乱造を相次がせるのが通例であった。また彼はある時いつものように携帯ゲーム機でベッドに仰臥してネットサーフィンをしていた頃、母親に私室に無断で侵入された事がある。「あんたそんなので良いの?もう受験生でしょ?暗室でそんな機械触ると近視眼がさらに進むよ!」彼女は言った。それは紛れもなく正当な批判であった。そして当時彼は中学三年生になっていた。私生活では奇をてらうような事はなくなっていた。ただ落伍者として日々を懶惰に過ごしていた。彼は自分で作り出した人工の地獄に憤懣と悶着を感じていたのだ。何て無知蒙昧だろう。なんて諧謔、皮肉だろう。不幸な境遇から遁走する手段と環境を知悉していながら彼はそれらの行動をしなかった。受験勉強は遂に彼にとって焦眉の問題となっていた。彼は生来真面目で心優しい人間である。それは当然の成り行きであった。また思春期特有の驕慢さも無論彼は持っていた。しかし一番軽蔑すべきは自分であるという事はシルベスターはよく理解していた。彼の理解力は教師からも絶賛されていた事もある程だ。彼には勉強における初志貫徹が欠乏していた。また周囲に蔓延る言説も彼には金言名句ではなく甚だ空理空論のように彼には感じられた。思春期に精神的錯乱に合い、受験と言うライフイベントに懊悩する姿はそう珍奇な類例ではない。彼もそれは承知していた。

 シルベスターは理系の、県内のみならず日本国内でも著名な進学校に進学した。もっとも受験は彼が万全の状態で行われたものではない。持久力が彼には欠如していたのだ。荒唐無稽な自分の信条のせいで、無意識下でも彼は淪落していった。人付き合いも時間の変化とともに疎かになり、遂に彼の友達は皆無になった。彼もまた友達を嫌忌し、孤独を所望していた。「衆愚である凡人なんぞ、人生の質を低下させるだけだ」彼はどこかで仄聞したその言辞に当時は心から同意していた。彼は社会的に白痴になっていた。異性にも彼は嬲られた事がある。彼は友達を必要としない割には恋人を望んでいた。彼には特に当時は異性の好みはなかった。高校進学後はクラスメイトの異性に彼は恋をした。彼の顔面は元々端正な顔立ちで、美形ともとれるような相貌である。身長はやや低かったが特段卑屈に感じる容姿ではない。彼はその片思いの相手にある時告白した。するとその相手は「それはちょっと…付き合うのはちょっと….」彼の愛は灰燼となって遂に胡散霧消した。しかし彼女は友達としてなら良いと言及し、メールアプリでシルベスターと友達になった。しかしそれは彼女の愚弄であり、手練手管であった。彼女はシルベスターを罵詈雑言でネット上に発信した。シルベスターの告白という乾坤一擲を契機とし、彼女の中でなんでこんな陰気な奴に好かれるのかと憤怒が沸き、遂にそれが爆発したのだ。21世紀の技術的長足の進歩の弊害は矮小で脆弱な悪意、奸佞邪智が軽率なモラル感の所有者であれ昇華されやすくなった事だ。

 彼は遂に独立不羈に精神科に通院する事を決行した。最初の内は彼の病名は医師によりその名を伏せられたが彼は双極性障害と医師の手によってカルテに書かれていた。向精神薬は肥満などの副作用があるものだが、僥倖で彼にはその副作用はしばらくなかった。彼は多くの人々からその容貌を褒められた。中には阿諛追従の美辞麗句もあったのだが。しかし彼はそれまでの境涯、殊に数年間にフォーカスされた時間によって自信が持てなかった。自分は皆から謗られ、嫌われているのだという強迫観念を彼は払拭出来ずにいた。もうどうする事も彼には出来なかった。彼は自分の人生を幸福に転化させる為に他者の助太刀を必要としていたのである。

 模糊な現実を生きる中で彼は母親から塾に行くことを提案された。彼もそれを是認した。塾の講師は年配の男性であった。「お前は物書きが向いている」いつしか塾講師から彼はそう言われた事がある。彼は「そうでしょうか」と返答した。彼は昔から小説を書いているが自分の文才のなさに半ば絶望していたのである。高校進学後はほとんど小説も書いていなかった。その代わりに彼は古今東西の文学上の白眉の書物を貪り読むようになっていた。

 高校では中橋と原という生徒に彼は馬鹿にされていた。それはシルベスターによる日頃の暴挙にも一縷の非がある事はまず間違いない事である。彼はなまじ女子生徒に密かな人気がありその事も彼らからの反発心を滾らせるのに十分な要因があった。巷では嫉妬と言えば女に隷属する概念と言う固定観念があるが、それは大きなミスリード、大嘘である。男にも嫉妬はあるのである。作者は声高にそれを発信する。多くの人間の文明文化は、未だ、土着で、未開な事柄も跳梁しているに相違ない。高校での年少の土人どもの群衆と彼がレッテル張りをしていた連中は彼の脳髄をただただ苛立たせるものになっていたのである。また彼はもう孤独を愛してはいなかった。彼は孤独から絶望の精髄を見出した。それは彼にとって、彼の人生の歴史にとって大きな発見であった。

 彼の学業成績は双極性障害による症状かどうかは分からないが勉強に集中する事がおぼつかなく成りどんどんのっぴきならない程の劣等なものに凋落していた。精神における不良も体調不良と全く同じ事である事を彼の学業が十分に証左として成り立っていた。彼の人生の悉くが彼には何かを実証しているように思われた。もっとも彼自身にはそれを十分に吟味して作品なり論文なりに結実出来る程の実力は持っていなかった。中橋に彼は学校を退学するかも知れないと告白した。中橋はこう言った。「学校辞めるなよ。大学だって入ろうと思えばどんなレベルの低いものでも入れるだろ」シルベスターは純粋無垢であった。彼は自分を迫害した中橋の言葉に隷従した。それは盲目的な判断であった。シルベスターは高校一年時の修学旅行で長野に行った。スキーである。正直彼は乗り気ではなかった。スポーツと聞けば、全く食指が動かなくなるのだ。それは過去の最悪な経験による副次的な作用の成果に他ならなかった。彼は清濁併せ呑む経験を額面上は望んではいたがスポーツに関しては例外であった。スポーツを度外視した人生を彼は生きていたかった。

また彼は過去の女子生徒からの奸計から恋愛にはそこまで没入する事を禁忌としていた。彼の非恋愛主義の勃興期である。

スキー場では彼はスキーの指導員に「赤川、上手いじゃないか」と標準語で言われた。彼は嬉しくもなんともなかった。どうでも良い事、愚にもつかない事であった。それよりも彼は旅館の中で音楽を聴き、悦に入っていたかった。長野と言えばスキー外の遊山が彼は好んでいた。なのに、彼は自分の非業の運命を呪詛した。全ては彼自身の選択の集大成であった。彼は誰の陰謀によるものではなく、自分自身の手で奈落へと入っていったのだ。それはフロイトの言うデストルドー、死へと向かう衝動なのだと思う。

修学旅行は終焉を迎え、また高校生活が始まった。シルベスターの認知機能の障害はさらに深刻化し、周囲の学生からも赤川は痴呆だとの噂が流布するようになった。それを実感すると彼は更に高校退学の欲求に拍車をかけるようになり通信制高校に行く決意が凝固し、肥大化するようになっていった。その時分にも彼に好意を寄せていそうな異性からのアプローチを彼は受けたがどうせ勘違いなんだと彼はそれを黙殺していた。

高校二年生になった彼は読書において婉曲的な表現とあらゆる修辞と難解な語彙を愛好した。彼は他者への生暖かい配慮なんて代物は蛇蝎の如く嫌っていた。幼稚な心理である。また彼はフロイトの日本語で上梓された著作を読み耽るようになっていた。彼は先天的に繊細で心優しい人間である。小学生の頃にはいじめられっ子を助け、その子から慕われた事もある。しかしそれはモラトリアムの屈折、歪曲によって人格的に頗る荒廃の様相を呈した。カントはアプリオリな事を前提に掲げ彼の認識論を展開した。一部の哲学者は彼を歴史上最高の天才哲学者だと認めている。彼は小柄な体躯ではあったが。彼もまたカントの三批判書を読み、無手勝流の認識論を大理論として打ち立てようと思った。したがって哲学書も彼は読み耽るようになった。しかし彼の読解力は国語の偏差値22が物語るように壊滅的な代物であった。ただ彼は自己の神経の世界に逗留する事で自己陶酔に浸っていたのだ。知れば知る程彼は極めて人間的な男である。余計な斟酌もへつらいも懐柔もない、そんな御伽噺のような世界を彼は夢想していた。しかしそのような世界は所詮、机上の空論である。彼は自分の観念に対峙し、その都度絶望していた。自殺を考える事も頻繁にあった。

人間関係においてシルベスターは懸命に奔走する事はなかった。それが人生上の誤謬であることを彼は了解していた。しかしそれでも彼は、人間に恐怖をも感じていたのだ。高校二年の夏頃には統合失調症の症状とされる幻聴を聴くようになった。彼の悪口が横溢していた、街中でも学校でも雑踏でも電車でも塒でも。彼はやはりこういう時には洞察的な男である。精神科にその緊迫の現状を哀訴した。医師は統合失調症の疑いを持つようになった。彼は精神医学や心理学の勉強を開始した。それは危急存亡の彼の状況を顧慮すれば必ずしも不自然な事ではない。

「僕は自殺をしたい。こんな人生はもう嫌だ。なんで僕がこんな思いをしないといけないのか。僕が一体何をしたと言うのか。いや、全て僕が悪いのだ。僕は自分の異常を病気のせいだと思いたいらしいが結局それは全て身から出た錆だ。僕の非が裏目に出て、勝手に不幸になって、今度は何をすると言うのか。いい加減にしたまえ。君は天才かも知れないが今の時点では何の功績もないだろう。対人恐怖もその泥沼じゃこの先恋人はおろか朋友さえも出来やしない。君は変わらなければならない。絢爛豪華な文体がなんだ。耽美の小説が何だ。無頼が何だ。文学から一体何を僕は得た?文学は膏薬ではない。最初からそれはメシアではないのだ。文学青年になったは良いが、その前途には何がある?一切合財が君を苛つかせる。学校を辞める事はもう考えなくなった。それは自分の家族を落胆させない為、ただそれだけの理由だろう。精神病の研究は単なる口実だろう。義務感から始まる研究が良いものなのか?僕の実存的骨子とは何か?不条理な人生は全て僕が望んだ事だろう?その人生経験を文学に生かそうとは思わないのか?陰隠滅滅に服する、それも結構だが君には君にしか出来ない事がある事を忘れるなよ。恋人の好みも、特にない茫漠としたものから長身美人に変遷した。君は恋人が欲しいだろう。無理矢理でも良いから君は社会で堂々と、胸を張って生きられる自分になりたいだろう。君ならなれるよ。自信を持て。君の饒舌な喋りは今では刹那的で変則的なものだが、それを自分の意思で統御出来るようになれば、人間関係は変わる。問題は疲れやすい事だな。虚脱感がある事だな。その為に君はこれからも日記をしたためるのだ。そうして後で見返す。それが精神的に有効とされる認知行動療法だ」高校二年のシルベスターの日記にはこのような事が書かれていた。彼の赤裸々な思いを示そうとする粉骨砕身の努力がこの文書から伺える。彼もまた自分自身の責任を果たそうと東奔西走したいのだろう。色々と苦悩が錯綜する彼の胸中であるが確かに苦境にいても彼はしたたかであった。彼の知性の原子爆弾の如き爆発は人間精神の黎明の萌芽であった。

 


アクマニヤンという男がいる。彼は健常者であり、恋愛も青春も自由闊達に謳歌していた。彼の学生時代はおしなべて成績優秀で、結局彼は医学部に進学し、開業医となった。精神医療が非常にひっ迫している21世紀のご時世において医師の総数の増加というのは非常に社会貢献となっている。彼は高校時代プログラミングに没頭し、いくつかのプログラミングの賞も取った。彼は蒼然とした古来のものを忌避し、代わりにモダンなものを求めていた。古典などは嫌いではあったがそこは割り切って彼は成績優秀者としての名声をほしいままにしていた。アクマ二ヤンは女性からの人気も高く、教師からも好かれた事がある。彼女曰く「アクマニヤンは私の将来のお婿さん」らしい。彼は閉口するしかなかった。人気者としての悩みにはタイプでない異性からの恣意的な恋情、懸想を甘受する事が求められる点だ。人々の人気を勝ち得るのはSNSなどで換言するところのフォロワーのマネジメントに近いものがある。彼は中学卒業時に身長が180㎝あった、長身痩躯であった。高校生になると185㎝まで伸びた。おまけに成績が良く、人当たりも良い事、慇懃な性格、才能豊かな人だという事もあってそれが衆人環視の好意を鷲掴みにして、のみならずそれを助長させていた。

「お前なんで、そんなイケメンなんだよ」ある男とアクマニヤンとの対話。男は言った。

「遺伝のおかげかな。僕の両親は双方ともに美形なんだよ。まあでも僕のように恵まれた、寵児とも言える人間はそれほど滅多にいないものではないよ。それに重要なのは努力さ」

「お前よく俺が成績に悩んでいる事が分かったな」

「論理的なアナロジーでは当然だよ。単なる子供騙しだ。あらゆる技術は書物から培う事も出来れば人間関係からも涵養させることも出来る。そもそもこの日本に生まれた時点で国ガチャは大当たりだと思うよ。障害で苦悶する人々は障害年金や生活保護なんかも得られる。少子高齢化で知識人やジャーナリズムによって経済力が憂慮、危惧されているが、結局皆単純な想念であれ、腹心の形而上学的産物こそが重要だ」とアクマニヤンは閉栓と返した。

「何を言ってるんだよ、お前。お前はイケメンだけど中々難しい事も言うんだね。俺はそんな難しい本から抽出されたようなものは頭が悪くてついていけないや。まさにお前は他の追随を許さない男だな」

アクマ二ヤンは中傷とも無縁ではない。ある時彼は高校を廊下を歩いていたら見知らぬ男子学生がこちらを向き「おい!」と怒鳴った。顔面を見ると怒張の般若の形相である。

「僕に何か?」アクマ二ヤンは悠然と答えた。「そんなんじゃ駄目だぞ、きっと後悔するぞ。もっと他人を思え。上から目線で偉そうに。俺たちを蔑視しているのか?」

「何が」彼は電光石火に返す。「何が駄目なんだ。主格が省略されて良い日本語だけどね、何が?」

男は目を見開いた。そしてその後アクマ二ヤンを睨み、立ち去って行った。アクマ二ヤンはあの男はコミュニケーション障害だろうかと考えた。21世紀に入り、人間の類型には様々な侃々諤々の推察がなされていた。アクマ二ヤンはそれらの議論に興味がない訳ではなかった。彼はあの男を下司下郎としてシルベスターのように無条件に、無鉄砲に見下す事はしなかった。健常者と障害者の見事な対比である。平素からアクマ二ヤンは他者を嘲弄するような態度はおくびにも出さなかった。少なくとも彼はそう認識していた。しかしあの男の一挙手一投足を真摯に受け止めればその前提も盤石でないものとなる。彼はそこに一抹の不安を感じた。しかしその後すぐに気をそらした。悲観思考と倨傲が人生をローマ帝国の衰退の如く腐敗させるのは歴史が雄弁に証明している。彼は生まれてから誰からとも不和軋轢を生まなかったつもりだ。乱暴狼藉に該当しないよう、物心ついた時から彼は念頭に置いていた。その為に彼が乗り越えた艱難も枚挙に暇がない。



シルベスターは大学生になった。進学したのは都内の国立大学である。精神病の為、様々な辛酸を舐める思いを彼は受験勉強でしてきた。しかし彼は運命を乗り切ったのだ。迂闊な行動を自粛し、愚者の言説は馬耳東風、大学入学の吉報を得た時にはわずかながら彼の心は欣喜雀躍したのである。彼の他人に対する若気の至りである宇愚やお粗末な勧善懲悪はほとんど瓦解していた。彼はそうなった自分を内心誇りに感じていた。苦痛なくして結果はない。そして彼の座右の銘はゲーテだか誰かが言った、「時よ止まれ、お前は美しい」であった。やや浮世離れし、ピュアな彼の心はまだまだ更なる経験を欲していた。

彼は上京し、最初の内は聖地巡礼と称して多くの観光地を周遊したのだがすぐにそれも飽きてきた。そして過去の経験と日々の活動の困憊からか対人恐怖がまた彼の問題として彼の前途に佇立した。その厳めしい想像上の擬人的な佇まいに彼は空恐ろしさを感じた。僕はこいつに生殺与奪を握られている。こいつをどうにかしなければ僕の人生は永遠の弱者男性として生きる事になる、と彼は内心警鐘を鳴らす事になった。彼の身長は210㎝になっていた。彼の姿はどこにいても注目を浴びる程の卓抜の存在感を放っていたのだが彼自身はそれを意識していなかった。彼の眷属に長身はいなかった為彼はそれを神からのギフトだと捉えた。彼はメランコリックでヒステリックなところもまだ健在だったが静謐さもまた無意識の内に彼の性格面に同居していた。彼の一連の思想は人類史的に言えば曲解や齟齬を大いに包含していた。しかしそのような事は彼は気にも留めなかった。自分は自分、他人は他人だ。既存の杓子定規の規模がいかに社会や世界、歴史に拡大化されようと僕は僕のままでいる。ビートルズの曲でもレットイットビーってあるだろう。彼はよくこんなことを自分の中で反芻させていた。八面玲瓏、彼はそれを目指していた。数多の困難の中で多くの技能や精神的発達を遂げた彼は剛勇無双そのものだったが厳密に言えば彼は自身の持っているものに不満足感を感じていた。自分はまだまだ人として不十分であると感じていた。隣の芝は青く見えるとあるがその俗諺はこういった彼の状況を如実に表現する正鵠の如き言葉なのかも知れない。

友達も彼には出来た。彼は自分を一般の社会活動の中に闖入させた。大人の新参者としての彼はまだまだ初々しいものがあった。彼は自分自身を過大評価する事はなく、また精神病の症状からあまり劇的な興奮は抑制したかったが友人の馬鹿騒ぎに自らの存在を挿入する事を忌憚する事はなかった。無理の為、彼は大いに調子を崩す事はあったがそれでも彼は強く生きようとした。社会のレールから逸脱する事はもう彼はしたくなかったのである。

或記憶。友達の一人がシルベスターに言った。「お前、大人しそうだけど、話してみると案外面白いなあ。顔も美形で長身だし、絶対女にもてるよ。今までもモテていただろ?」

シルベスターはかぶりを振った。「いやいや、そんなことないよ。僕なんて産業廃棄物で異性からは汚物を見るような目で見られていたよ」

友達達は「絶対嘘だー」と異口同音に喚き散らし、間髪入れず爆笑した。シルベスターは自分のネタが好評らしい事から彼らと一緒に破顔した。

「本当さ。ちょっと問題があって友達すらいなくてさ。いわゆる陰キャってやつかな?あまり問題については話したくないけど、本当に人生が修行って感じだったよ。君らにもあるだろ?黒歴史ってやつが。僕は昔はチビでさ、本当にパッとしないやつだったんだ。顔面は整ってると言われる事は多かったけどさ、それだけじゃ不足だよなあ」

「その恭しい性格、憎めないねえ」

「あんまり褒めないでよ。恥ずかしい」

友達の一人が「お前可愛いなあ。でかくて可愛い」と言った。

「いや何言ってんの。僕は怪物さ。過去の傷も化膿してさ、対人恐怖もあってさ」

「対人恐怖?お前が?全然そんなことないでしょ。お前に対人恐怖があるなら俺も対人恐怖だわ。謙虚な姿勢は大事だけど嘘をつくのは良くないぜ」

シルベスターは自分について何も彼らに話さなかった。彼は敢然とただ微笑を禁じ得なかったがそれは彼らの無知に対する笑いも多少は含まれていた事を白状しなければならない。どんな壮麗な建造物も一朝一夕には出来ない。ローマは一日にしてならず。人間だって同様だろうと彼は思った。彼が薫陶を受けた歴史上の先達達も多分そうであっただろう。ニュートンも昔はいじめられっ子の劣等生だったようだし、アインシュタインも学校の成績には偏りがあったらしい。

彼らが自分の短所を見て目くじらを立てないのはもしかすると幸福な事かも知れないと彼は考え宇ようになった。彼は大学では数学を専攻する学生となっていた。研究室の教授からは「君は頭が良いから理解力は高いけど言語力は弱い」と言われた。当時の彼の言語能力は恐ろしいまでに破壊していた。病気の症状の為だ。彼は友人関係などでは健全そのものだったが何故か知的能力の、特に言語機能については明白な不調が散見されていた。講義のレポートでも担当教員から酷評されていた。おまけに日本語表現能力に問題があるという事で日本語表現という講義を受ける事を彼は大学側から正式に命じられていた。しかし思考を司るのは脳であり、成長を司るのも脳である。彼はどう演繹したって自分の本来の言語能力に夾雑物があるようには演繹出来なかった。

彼は社会そのものに悲憤慷慨することはなくなり、代わりに学問の世界に没頭した。オイラーやガウスなどの近代数学者が彼のお気に入りであった。ガロアも好きだった時代もあったが彼の享年である20歳を過ぎてからはおのずと興味を失った。シルベスターはガロアの業績よりも夭折の人生に憧れていて羨望していただけだったのだろう。彼は現代数学についてはあまり関心を示さなかった。もうほぼ現代数学というのは計算が主ではなく論理学に近いものがある。ゲーデルの不完全性定理から全ての命題が証明可能な訳ではない事が完璧に証明された。公理に誤りがなければ未来永劫正しいとされる数学でさえ完全無欠なものでない事が長い歴史の中で示された。それでもシルベスターは数学が好きであった。中学後期から高校時代の大部分は哲学に傾倒していた彼だが、何がきっかけで数学の道を極めようと志したのか、作者には定かではない。しかし彼が圧倒的な熱量を持って、無限の曠野を全力で疾走していたのは確かな事である。

シルベスターは数々の人間同士の諍いに対し、本を繙くように見ていた。それは大多数が小説の中での話ではあったが。金字塔とされる文学上の傑作は彼の人生に慧眼と審美眼と潤沢さをもたらした。そして妖艶さにも様々な種類が存在する事を彼は射抜いた。彼の感性は間違いなく加齢に伴い変化していた。少年期に読んで面白さを寸毫も見いだせなかった小説も今の彼が読めばえらく感動したというケースも沢山ある。

耐えがたいまでの人生に対する慟哭、咆哮。それに悩むのが賢者の正式な姿であるとシルベスターは確信していた。彼の祖父と祖母も彼の大学時代に死亡した。彼は内心で弔辞として「ありがとう。君たちが僕にくれたしたたかさは忘れない。引き継いでおくよ、君たちの強さを」と言った。祖父母は彼をよくドライブに連れていってくれた。シルベスターの出身地は和歌山である。和歌山と言えば風光明媚な自然と聖地熊野、那智の滝、その他いろいろの珠玉たる遺産のある素晴らしい土地である。シルベスターはしばらくの間はこの和歌山に怨嗟にも似た複雑怪奇な感情を抱いていた。が大学生になればそんな歪で極端な思考は根絶した。おそらく彼の中で整然さを望む理性がようやく台頭し始めてきたからだろう。

医師も状況に伴い変わった。今の彼の主治医は明るく爽やかな男性の医師である。やや傍若無人な点もあるその医師を彼は崇拝しなかったが統合失調感情障害を治してくれるのなら十分だと彼は思考していた。

彼が大学に入学して1年が経過した頃、彼は人間が自分に悪罵を言っているように感じるようになった。往来で彼を見た婦女子、若い連中、あらゆる人間が彼に怪訝な眼で見るようになった、と少なくとも彼は感じた。彼にはその被害数が山積すればするほど人間が未曽有なまでに魑魅魍魎に感じるようになった。遂には文字を読むことも全く不能になってしまった。大学の勉強は遅々として進まず業を煮やして精神科に行っても決定だとなるような対策案は医師との対談の中では浮かばなかった。森羅万象が彼を押しつぶそうと結託しているように彼には思えた。人間が苦しむ要因は枝葉末節にまで及ぶが精神病の症状がその例の一つであることを、自身を寡聞だと自認しているシルベスターにも分かっていた。彼は過去の一挙手一投足がこの被害の原因なのだと半ばこじつけの如く決めつけ、忸怩たる思いに沈没する事も日常茶飯事だった。専攻である数学の勉強にも彼は全く興味関心を示さなくなった。それは解析、代数、数論、線形代数、トポロジー、調和解析、数学基礎論などどの分野でも津々浦々に興味関心がなくなった。遂には何故自分は数学科などに進学したのだろうと不快悔恨の念に包まれる事も稀ではなくなった。色即是空、空即是色、彼は仏教に惑溺するようになった。現代医学でも治しがたい自分の障害を救うのは今や宗教しかないと彼は試みたのだ。いかなる異端邪教の宗教でも良かったが彼は手近な仏教を選択した。仏典を彼は読み、日頃から彼は瞑想を重んじるようになった。精神的迷妄や障害は己でコントロール出来ると思ったのだ。もはや科学的な統合失調感情障害の理論よりも自分の信じたいものを狂信する彼の姿は身近な人間からは奇異に感じられた。彼の対人関係はそうするうちに完全に喪失した。彼は内心その事に安堵していた。対人関係など煩わしい、孤独でも良いから僕は己の道の為に生きたい、と彼は確かにそう考えるようになった。リアルが精神病に包摂され、双方の性質は渾然一体になり、もはやそれは彼自身も聞いた事のない未知の様相を呈するようになっていった。

外出すると多くの有象無象が彼を嘲笑し、罵倒する。どのように居丈高に振る舞っても、宗教を弄しても彼はその苦痛から逃れる事がどうしても出来なかったのである。

彼はそこで実家に戻り家族に近況を話した。家族はそんな彼を受け入れた。昔は働く事を彼に強いた家族が満身創痍の彼を見て流石に憐憫の情が沸いたのだろう。彼は考える事に疲弊した。ほとほと嫌になったのだ。また嘔吐感もコントロール出来なくなり、彼はよく吐いた。吐瀉物が洗面台を覆った。また彼はよく泣いた。家族は彼のそんな様子を見て入院を考えていた。実家にいる事は本当に最善手なのかと懐疑が生じたからである。彼は昔は和歌山県の美しい自然を愛でるべく散文詩を作ったりしていたが、今はどんな自然を見ても何も浮かばなかった。悲哀なドラマや映画を見ても何らの惻隠の情を抱く事はなくなった。

自分への攻撃が軒並み偏執狂者のそれだという事を彼は理解していた。しかし余りにもその異常経験が長いと精神的に憔悴してしまい、次第に彼は正気ではなくなった。彼の父親も「お前は普通じゃない」と愕然とした表情で彼に言っていた。彼は碌に気が休まる事はなかった。嬲り殺すような統合失調感情障害の症状、休んでいる時も不甲斐なさと懈怠を恨む気持ちで碌に彼の精神を回復するという奏功を成す事はなかったのである。彼が烏合の衆として軽蔑していた健常者を思い、彼は歔欷した。心底彼らに対して申し訳ないと思うようになった。如何に健常者が神がかっているか。そして少数派である自分が日進月歩に努力してきた事が突如として無為に感じるようになっていた。必死の形相で矜持を形成し、自分自身が周囲の惑星を照らす恒星になろうと孤軍奮闘した事、そしてそれは今や惨めな現実となり帰ってきたのだ。本当はこの頃には彼の功績が認められていた。数学の論文や創作物が多くの人々の支持を集めるようになっていた。今や彼は時代のスーパースターであった。それでも彼は自分の状況が分からなかった。発狂して、死んでいったニーチェの如くであった。彼はまともに複雑思考する能力すらも失った。新進気鋭の若者も当然彼の事を知っていた。しかし明らかに若者が彼の事を知っているという事を彼が知覚すると、奇想天外で論理的過誤のある被害妄想を彼は語りだすのである。両親すらももう彼をまともに相手する事はなくなった。彼の母は健康だった頃の彼を思い、よくしくしくと泣いていた。彼女は誰よりもシルベスターの幸福を願い、彼に助力をひたむきに、たゆみなくむけていたのだ。シルベスターもそんな母親の姿を見て自殺欲求が沸いてきた。自分の存在意義とは何であろうか。統合失調感情障害は塵芥なのだろうか。僕は侏儒なのだろうか。も何も分からない。僕は心休まりたい。それでも本能に直結する思考はまだ彼には残っていた。

彼は見た。不可思議な冗談を言ってそれが受けたと分かったら恍惚の表情を浮かべる人々を。また彼はみた流水の奔流の如き弁舌で自らの賢明さを見せつける人間を。下らなかった。彼は認知症老人の境遇と同じような地獄を味わっていた。もう自分は弱者なのだ。それは幻影ではなく真実なのだ。彼は見た、紺碧の天を。林の濃緑の仮借なく照り返すその威力を。そして花鳥風月を。それでも彼の絶望は彼を絶えず毒していたのだ。彼を讒謗する医師もいた。しかし彼はもはや舌戦で自らを弁明する魂の余地などなかった。彼は入院すべきかどうか、彼の両親は多くの人に聞いて回った。一人暮らしは今の時点ではできない。刺激の多すぎる生活と蓄積したフラストレーションで彼はここまで落ちぶれたのか。それとも他に原因があるのか、彼らには判断しかねた。歴史上の稀有な天才でさえ、解決できなかった難攻不落の超難病をどうにかする事の出来る人間がいたらと彼らは祈った。そんな人間がいたら恐悦至極という言辞では足りない、五体投地して感謝の意を伝えたい、そう思う程の切迫具合であった。

遂に彼は精神病院送りになった。彼の通院していた医師の勧めで関東の精神病院に彼は入院した。病棟内はクレイジーな連中がざらにいた。彼はこのような状況で大丈夫だろうかと思った。彼を診た医者は彼の事を知能が高いと言った。出てくる食事はおしなべて貧相なものばかりだったが食欲不振の彼には好都合であった。月日が経つ内に彼には食欲も出始め、病院内で患者と雑談をする機会も多くなった。彼が驚愕したのが20歳になった自分よりだいぶ若いと思っていた患者が想定より高齢だった点だ。統合失調症の勉強会も催された。彼は厳密には統合失調感情障害だったが誤診の疑いと統合失調症と統合失調感情障害は重複する特徴が多いと説得され彼は何度かその勉強会に参加した。病院内では新参者だった自分もどうにか冷静に振る舞える自分に彼は精神病の回復をまざまざと感じた。入院した事が裏目に出て彼は盗聴器や監視カメラがしかけられているという彼が典型的だと認識していた被害妄想や馬鹿げた内容の幻聴、性的な意味や病的な賛美、悪口が横溢した幻聴を聴くようになった。病院は最早彼にとっていつの間にか不要な存在となっていた。大学には休学届を出していないので退院後は即座に彼は大学に戻る予定であった。

シルベスターは大学の健康診断を入院の関係で受けられなかったので精神病院から別の施設で健康診断を受ける事を大学から命じられた。そしてその施設に行って彼は身長を測ると、なんと本来の身長210㎝が170.9㎝と計測された。彼は困惑した。こんなはずじゃないと思った。昔言っていた病院の聞いたところ180㎝弱の職員に伸びたなと去年言われた。大学の182,3㎝と言っていた教員より余裕で高い。バイト先の職員よりも頭1.5個分は高い。僕が170㎝だとすればこの状況はおかしい、この証拠はおかしい。特にバイト先の職員は僕が170㎝なら計算上120㎝しかない事になる。僕を取り囲む世界そのものが間違っている。それとも身長計測の前提に間違いが、測定ミスがあるというのが合理的に考えた彼の結論であった。しかし170㎝なら日本の成人男性の平均値である。とりたててチビと揶揄されたりするような身長じゃない。彼はそれをわかっていながらも深く沈鬱な気分になった。世界がおかしいんだ。彼の中でその思いを確かなものにさせた端緒がまさしくそれであった。病院でも職員を驚かせないようにと一昨年に測った179㎝の値を言っている。もし僕の今回の身長が真理であるとすれば僕は大嘘つきである。どんな顔をして生きれば良いのか。健常者よりも自意識が過剰になっていた彼にとって、それは天変地異の如き重大問題であった。自分の体格に自信を持っていた事もあった事もその重大問題をより深くさせたのである。

メッセージアプリで連絡を取っていた母親にその事を話せば彼女は「お母さんはシルベスターが大きくても小さくても良い。幸せでいてくれればそれで良い」と言ってくれた。正気であれば彼はこの言葉に安心する筈なのだが当時の彼はそうは思わなかった。彼の世界文学は彼の所有物から始まっている。ビッグバンは彼自身の生命歴なのだ。重大な問題に思われる事はこのような極端な思考を視野に入れれば否めない訳ではない。

病院では彼は作業療法もした。彼は院内で論文を執筆していた。哲学の論文である。彼はこの頃専攻の数学よりも哲学に魅了され、過去の研究、耽読経験と博識さを活かして論文を書いていたのだ。また幻聴というのは統合失調症の思考の結果起こっている音である。彼がハイテンションで前向きであれば彼を礼賛する声が聴こえ、少しでも不安や恐怖があれば彼を罵倒する声、そして後悔が彼にあれば彼に懲罰を与える声、糾弾する声などが聴こえた。それらの系統発生はそれまでの彼の旧来の単調な幻聴の様式にはなかったものである。

以下は、病院内での彼と他人とのやりとりである。医師「そんなに病気の事を勉強しているのに心理検査は受けるつもりはないの?」

シルベスター「はい、今はその時期じゃないかな、と」

「何なら受けられる?」

「バウムテストとかですかね?」

また別場面。看護師「なんで他の心理検査を受けないんですか?」

「信用していないからです」とシルベスター。


病院内の患者「赤川さんモテるでしょ?背高いしかっこいいし」

シルベスター「それでも精神病だと意味ありませんよ。皆敬遠します」

病院内の患者「そんな事ないと思うけどなー」


また別場面。別の患者「僕は頭悪いから何も分からないし、惨めだ」

シルベスター「それは僕もそうですよ」

別の患者「そんなことないでしょ。喋り方からして頭良いし。もっと自信もって良いですよ」


高齢女性の患者「君はどうして入院したの?」

シルベスター「親が見かねて入院させたんです」

高齢女性の患者「君は親を憎んでいる?」

シルベスター「とんでもない。僕は親に感謝してます。こんな産業廃棄物の僕でも優しく奮然と行動してくれた。たとえその選択が間違ったものでなかったとしても僕は永劫に親を怨む事はないでしょう。親は僕にとって大切な存在です。僕が死んで悲しむのはまず誰よりも親や恋人でしょう」


講師役の医師「統合失調症は遺伝の病気ではないというのが最新の医学の見解です」

シルベスター「染色体に異常があるという事ですか?」作者傍白、症状か。

講師役の医師「いやいや違うよ。染色体は遺伝子関係あるじゃん」

シルベスター「そうですか」

講義後、講師役の医師「君そのTシャツかっこいいね」とシルベスターのレッドツェッペリンのアルバムジャケットの印刷されたTシャツを指して。

シルベスター「レッドツェッペリン、僕好きなんですよ。一番好きなアルバムはフィジカルグラフィティ」

別の患者「良いですね」

シルベスター「カシミールがあるから好きです」

別の患者「カシミール」、やや感動気味で。


そして大学へ彼は復学した。入院生活は、序盤は問題なかったが後半となればもう素晴らしく最悪であった。表面上は極楽を取り繕っていたパノプティコンのようなものだ。そして彼は休んでいた必修の英語の教員に休んでいたから講義の流れを教えてくれと頼んだ。すると彼は信じられない言葉を彼に打擲した。

「あなた頭悪いでしょ。入院するなら休学届を出さないと、そしてその書類を提出しないと。その書類がありますか?」

「ないです」シルベスターは言った。

「ならこの講義に参加しても皆の足を引っ張るだけだ。で、どうする?」

彼はこの言葉が非常に辛辣で愚昧なものに思えた。皆の足を引っ張る!なんて日本人的でゴミにも匹敵しない言葉だろう!彼は泣きそうになりながらこう答えた。

「なら帰ります」

「それが最適ですね」

シルベスターは敗北を喫したような面持ちで講義室を退出した。そして大学の保健室の職員にその心情を即興で、ざっくばらんに露呈させた。教員は如何にも冷静沈着だった。まずは事実関係を確かめないと、と言った。そしてそのあとには学部主任も顔を出し、僕の話を聞いた。学部主任が来るまでの会話内容は妄想や幻聴が入り混じっている場合は信用ならないかも知れないが少なくとも彼が知覚したのはこうだった。

保健室の職員「学生が教員にひどい事を言われたと言って泣きながら保健室に来たのですが。身長?健康診断では170㎝ですが。…それは分からないです。身長計がおかしいのかなあ。長身な学生だったって証言、ですか。とにかく事実関係を明らかにしないと」

そして学部主任が来てから、学部主任はシルベスターにこう言った。「一人の人間の言葉だけでそれだけ傷つくのは可哀そうですね。あなたの講義成績を私が採点しましたがあなたは成績優秀でしたよ。論文執筆をしたいのならこの大学の図書館資料を見てやれば良いと思いますよ」

シルベスター「僕はこの世にいらない存在です」

学部主任「そんなことないでしょう」

シルベスター「僕は統合失調症なんです。精神病院での時間はべてるの家の本を愛読していました」

学部主任「なつひさおとか幻聴さんとか?」

シルベスター「そうです」

彼女は心理学の教授だったので知っていたのだろう、とシルベスターは思った。

彼女との話をシルベスターは終えると彼は自宅へと帰った。今日は沢山泣こうと思った。泣いて発散できるもの、カタルシスを得られるものも確かに存在するのだからそれを利用しない手はない。今の僕は何もない。今までの人生は虚妄だ。身長もおかしい事になった。もう現実と妄想の境目が分からなくなった。僕は今後どうやって生きれば良いのだろう。数学者たちの肖像も今は昔ほどの感動を持って見つめなくなった。僕はどうやって生きていけば良いだとう、と彼は思った。そして押し黙ったまま自宅まで蒼白の表情、総毛立つような表情を浮かべて帰っていった。

シルベスターは宗教から関心が催眠術に移動した。彼は精神療法に、特にヒステリーに催眠術が有効だという事をしばしば本で学んでいた。そこで彼は催眠術について研究する為、そのノウハウを専門論文や本で学んだ。そしてある時以後は彼は自分に催眠術をかけられるようになった。この頃彼が最も尊敬していたのは統合失調症治療の巨峰にして総本山を創造した先駆者の一人であるブロイラーである。また彼はブロイラーのみならず歴史の面連な繋がりに貢献した御仁たちにいつの間にか敬服をしていた。

彼は自宅で催眠術を自分にかけた。彼の全感覚がまどろみ、まるで解脱したかのような異常な経験に彼は包まれた。すると部屋に溶解が3体出現した。彼らは明らかに現実の生態系では考えられない姿形をしていた。

妖怪1「我々を呼んだのはお前だな?名前は何と言う?」

シルベスター「シルベスターだ」

妖怪1「お前は何を抱えている?どんな闇を抱えている?」

シルベスター「統合失調感情障害という脳の異常さ」

妖怪2「脳の異常だってさ。それなら俺たちにも治せない事はないだろう」

妖怪3「そうだな、俺たちがお前をまずカウンセリングしてやろう」

シルベスター「恐悦至極に存じます。カウンセリングに良い思い出はないけれど」

妖怪1「お前は今までどんな治療をしてきた?」

シルベスター「認知行動療法とか、宗教に頼ったり、そして今は催眠術に頼ったり。正直僕はお前らをただの感覚の誤作動だと思っている。催眠術を自己流でかけたところで妖怪などは出現する筈がないし。そもそも統合失調症のシンドロームの症状に幻覚というものがある。中にはドアノブと会話をしたり、宇宙人とテレパシーが出来たりする患者もいるらしい。しかしこれらは常識的に考えれば実に馬鹿馬鹿しい問題だ。おそらく私見では全ての超常現象はこの統合失調症の性質によるところが多いと思うね」

妖怪3「まあそう思うのは勝手だが。しかしそれでも俺たちがお前にとって無用の長物って訳でもあるまい。たとえ幻覚であってもそれで体調が良くなるなら、人生が良くなるなら、と一念発起して俺たちを呼んだんだろう?」

シルベスター「そうだ。僕はいわばこの自分の統合失調感情障害という困難を克服する為には王道を闊歩する必要はないと思う。小径でも邪道でも良い。どんなものにもすがってみようってさ」

妖怪1「ちなみに俺たち3体の妖怪は皆3つ子だ。人間の世界でも似たような概念があるだろう。人間世界での法則が全く妖怪にも適用出来ない訳ではない事は留意してくれ。俺たちにだって出来ない事はある」

シルベスター「まあ全てが順風満帆にいかない事は僕にも分かっているよ」

妖怪2「しかしお前は良い相貌をしているな。それにガタイも良いし。女にモテるだろ?異性関係には苦労しなさそうだが」

シルベスター「いや、苦労するよ。今まで僕は恋人が出来た事がないし、女性にこっぴどく裏切られた経験もある。そんなことがあって僕の対人恐怖は加速度的に増していったのさ。時間の経過に従ってね」

妖怪1「お前は自分の仕事が正当に評価されて人々からの拍手喝采を得たいと考えているな?」

シルベスター「ははは、流石だな。何でもお見通しって訳か」

妖怪1「俺たちはテレパシーを持っているんだ。人間の心理を読み解く事なんて朝飯前だ。仮に対象者がどのような卓越した才能の持ち主であってもね。そうシルベスター、お前のような存在であってもだ」

シルベスター「僕の精神病を治すにはどうすれば良い?この先も君達とのいわゆるカウンセリングを受ければ良いのかい?」

妖怪1「そうだな、そうすれば必ず治してやろう」

シルベスター「しかしそんな上手い話があるだろうか。無論この方策を打ち立てたのは僕自身ではあるが、自分の中の理知的部分が妖怪なんかに頼ったら破滅すると言っている気がする。薬物中毒と同じだって、コールドターキーだって」

妖怪2「まあ俺たちの縦横な超自然の力をまずは試してもらおう」

すると部屋中が暖色系の光に包まれた。その中には続けざまにシルベスターの未来が見えるようになってきた。妖怪共の能力でその未来が軽微なものであれ何を意味しているか、その順列とは何かがシルベスターは理解出来るようになっていた。シルベスターは長身美人の恋人が出来ていた。175㎝以上の長身美人の恋人が。正直彼は自分は恋愛は諦めた方が良いと思っていたが未来は明るいらしい。しかも長身美人の法から彼は告白をされていた。また彼は民衆にインテリと認められるようになっていた。少し先では彼の業績が正当に理解、評価され、彼の創始した分野は多くの人々、協力者達によって高度に整備されていた。彼自身が人類文明の曙光として認められるようになっていた。彼は刮目してこれらの光景を見ていた。そして暖色系の光は次第に弱まり…

妖怪1「どうだ?お前の未来は?想定通りだったか?」

シルベスター「いや、全然想定通りではなかったよ。正直僕は自殺を考える程の袋小路にいると思っていたけど案外そうでもないらしい。良い光景を見せてくれてありがとう」

妖怪2「またお前は自分の身長について苦悩しているようだから言っておくけど、お前の身長は間違いなく210㎝はあるよ。過去の計測に問題があったんだなあ。ちょっと考えにくいけど、その確率はない訳ではない」

シルベスターははにかんだ。

シルベスター「そうか、それは良かった。僕は昔はパッとしない身長でさ。全然かっこよくなかったんだよ。同年代の人々の身長高い連中が羨ましくてさ。でも今や僕もまたかっこ良い、男なんだね」

妖怪2「そうだ、だから自信を持て。まあ妖怪にこんな事を言われるのはナンセンスに感じるだろうが、それでもお前は自身を持った方が良い」

少し休憩にしたいとシルベスターは思った。

シルベスター「少し休憩しようか。君たちは何か飲み物でも飲むかい?僕はコーヒーを入れるけど」

妖怪1.2.3「俺たちは麦茶で良いよ」

シルベスター「分かった。ちょっと待ってて」

シルベスターは物思いに耽りながら飲み物の準備をしていた。そうだ、僕は父親にジャイアント馬場みたいと呼ばれる程にガタイが良いのだ。そもそも僕が長身である事は現実が極めて明晰に物語っていたではないか。それを信じられず、小さなストレスや間違いに不安を感じていたのは誰だ、それは僕自身だ。僕自身の認識が僕自身の障害をより治りに九九させていた。それを妖怪3匹が解決した。僕に必要なのは僕の背中を押してくれる言葉だったのだ。そうだ、これからは本当の意味でリラックスして生きよう。コンフォートゾーンってやつだ。

シルベスター「お待たせ」

妖怪1.2.3「ああ」

妖怪達は紳士然としていた。彼らは姿こそあくどい感じではあるが、かなり落ち着いた大人な生命体に思えた。シルベスターは怪訝に思った事があったので彼らにそれを尋ねた。

シルベスター「君たちは何歳くらい?人間界の単位で言うと」

妖怪1「俺たちは年齢は同じだよ。314歳かな」

シルベスター「314?ちょっと考えられないな」

妖怪2「俺たちはクマムシのような奴だ。よっぽどのことがあっても死なないよ。普段は妖怪の世界、妖郷と呼ばれる場所にいるが。妖怪にも美形とかいてさ。俺たちは中の上の容姿さ、妖怪の中では」

シルベスター「なるほど、色々と事情があるんだね。僕ら人間が300歳も生きればもう史上空前の伝説になるだろうねえ。まあ聖書のようなものによって人間の限定性は緻密に決められたりしている訳だけど。でも人間界では最近宗教離れが多発していてね。特に先進国の間でね。希望を失って悲観主義や虚無主義、厭世主義に陥って悲劇的な末路を辿る者が後を絶たないんだ」

彼ら一同は総じて咽喉を鳴らして飲み物を飲んだ。

妖怪1「お前はちょっと人の目線を気にしすぎだ。皆どんな美男美女に対してもそこまで気は使わないし注視しないぞ。まあそれが精神病を精神病に至らしめる所以ではあるんだろうが」

シルベスター「僕も昔は人の目を気にしていなかったんだよ。でも思春期を経て、人生に不調を感じるようになってからは、真っ逆さまに落ちていった。でも実を言うと僕は堕落したかったのかも知れない。悲劇のキャラクターになりたかったのかも知れない。実は僕は超人に憧れた時期があってさ。永劫回帰を続ける自分の人生にイエスと言い、自分の意思で生き、人を超える事。それは僕が過去に勉強したニーチェの学説の一部だ。上手く説明は出来ないけど、僕はニーチェに邂逅する前から似たような発想で考えていたんだと思う。12歳とか10歳とかの時から。まあ先人の知識を借りるのは役に立つ事が多いよね、新たな独創も全くのオリジナルではあり得ないし、温故知新だったり、換骨奪胎だったり、そんな言葉が適用出来る。僕の人生に対する思想もそんなものだと思うよ」

妖怪3「俺たちは自分たちの生についてそこまで深く考える事はしないなあ。割と俺らはいい加減だよ。それでも何とか生きている。お前をリラックスさせていられることに俺は幸福を感じるよ」

シルベスター「妖怪でも喜怒哀楽はあるんだね」

妖怪3「そりゃそうだ。俺も久々に話相手が出来て嬉しいよ。今夜は俺たちはお前を楽しませてやるよ」

シルベスター「ところで精神病を治すのは何から始めれば良いと思う?まずは自分の人生や理論に自信を持ってリラックスする事かな?そして対人恐怖をなくすことかな?」

妖怪2「対人恐怖はつらいよなあ。お前の病気を思えばそれも無理からぬことではあるが。まあいつも罵倒されてびくびくしている姿は俺らの目から見ても相当不憫だよ」

シルベスター「やはり、そうか」

妖怪1「俺たちの世界でも同類に恐怖を感じる種は存在していてさ。そういった連中用の仕事だってある。でも大抵そんなやつらもすぐに治るよ。俺たちのテクノロジーで」

妖怪達とシルベスターとの会話は際限なく続いた。


シルベスターは妖怪達との意思疎通を終えて日常に帰っていった。妖怪達との会話は特筆すべき親切さがあった。それは現在の彼の精神科の医師にはない点であった。シルベスターが支離滅裂で撞着した事を言っても妖怪達はそれを批判したりはしなかった。現実の人間の中でこれほど安心感を得られた経験はシルベスターにはなかったのである。しかし精神科への診察はシルベスターの場合2週間に一度である。その内容をここに記しておこう。

医師「最近どうですか?」

シルベスター「通学の為、バスに乗っていたら老人に頭を叩かれました。僕は精神病で障害者であり、すなわち優先座席に座って良い弱者です。ヘルプマークでも必要でしょうか?あれ以来バスを利用するのが怖くて仕方がありません。対人恐怖というやつでしょうか。それと今回の診察内容もスマホのメモにまとめてきました」

医師「それを読んでみて」

シルベスター「幻聴が聴こえる。自分に対する悪口が主だ。若い女から多く悪口を言われている気がする。どうしても自信が持てない。今は静養に専念したい。酒池肉林とかじゃなくて泰平無事な日常が僕は欲しい。それと起立性調節障害か知らないけど朝起きられない。また運動もあまり出来ていない。読書は図書館に通い、トルストイ、カフカ、バルザック、プーシキン、それから日本の文豪の著作を読んでいる。僕はシェイクスピアとゲーテとディケンズがお気に入りだったがそこに最近カフカなども加わった。中学時代から文学に目覚めて小説や詩を書いたり読んだりしていたが今でこそ分かる文学的悟りなんてものもある。これは僕が成長した証だと思う。また外に出るのが怖いです。頭は以前よりは働くようになりましたがそれほど精密ではありません。もっと頭を使って頭を良くしたいですが、無理しすぎると精神病は脳の病気ですから悪化してしまいそうで怖いです。なんとかセルフマネジメントをして自分で自分の病状をコントロール出来るようになれば良いのですが、それは一筋縄ではいきません。もう精神病になって10年以上が経ちますが、まだ完治していません。寛解っぽくなった時はありますが、再発しては、落ち着いての繰り返しです。本当につらいです。自分の人生に希望はあるのかと思っています。誰かとの不和はないです。人間関係は希薄ですが。神社に行くと母親は僕の無病息災を祈ってくれたらしいです。それなのに僕は自分の事しか願わない。大願成就の神社で毎回自分のエゴイズム的な願いをしている有様です。僕も優しい人間になりたいです。どうにかして友達も恋人も欲しいです。しかし友達が出来ても、途中でその関係を維持するのが酷く煩わしく感じてしまいます。壊したくなります。そして極端な行動をして人間関係が例の如く破壊されるのです。恐ろしい話です」

医師「結構長かったね。そうか、幻聴はまだ聴こえるのか?薬はちゃんと飲んでる?睡眠はちゃんととれてる?食事はバランス良く出来てる?一人暮らしだとバランス考えるのもしんどいでしょ」

シルベスター「薬は飲まないと眠れないので毎日欠かさず飲んでいます。睡眠もとれています。食事も最近は意識的に野菜を取るようにしています。それから暴食にならない為に食べる量も意識的に減らしています。なんせこの間の血液検査が悪くて僕の母親から警笛が鳴らされましたからね。僕も苦しんで死にたくないですし、その辺はきちんとやっていくつもりです」

医師「今学校は行っているの?」

シルベスターはこの頃には大学三年生の21歳になっていた。進級の為の単位を何とか取る事が出来た。1年時に学生だった人物はキャンパス内で見られなくなっていた事が彼の印象に残っていた。

シルベスター「行っています。休みの日はがっつり休むようにしています。週に一度はご褒美デーとしてマックを食べたりしています。たまに実家に帰って落ち着いて過ごす時も長期休暇にはあります。音楽を聴いて心休まったりします。やはり最も好きなのはビートルズ、ブラックサバス、ピンクフロイドですかね、ちょっと古いですけど。彼らの曲をライブで演奏した事も僕にはあるんですよ。僕は左利きで右利き用のギターを弦逆に張って演奏していました。ジミヘンスタイルとか言われていました。しかしそのライブをした大学のサークルも最近では疎遠になりました。悲しい事ですなあ。また恋人についてですけど学内で僕が一目惚れした長身美人がいますよ。コロナ渦でマスクはしていましたがタイプでした。彼女の方をじっと凝視していると彼女も僕の方を凝視してくれました。これは別に好意という訳ではないのでしょうがそれでも僕は嬉しかったです。僕も恋愛をする資格があるのだと思いました。僕は30歳までには一人で死ぬだろうと思っていましたが案外生き延びて長身美人と結婚し、家庭を持つかも知れません」

医師「私生活の方は悪くないという訳だね。さしあたりは精神病の治療か。君も闘病に鋭意努力しているみたいで嬉しいよ。まだまだ診察の際の挨拶だとかに遠慮会釈がない事はまだ未熟だろうけど、それでも君は成長しているよ。今のカルテには前の病院の君の症状や様子が書かれているんだけど、君は全く成長していない訳ではないよ。なんとか、遮二無二、現実をじぶんなりに生き延びてやろうというバイタリティとバイオリズムがありますねえ」

シルベスター「薬はいつも通りですか?」

医師「そうだね、急に種類を変えるのは恣意的だし、量を妄りに増やすのも御法度だし、いつ批判されるかも分からない。精神医学会も昔よりかなり多くのデータから演繹、帰納されるようになって多くの事が氷解されてきているんだ。これは私の私見だけどね。きっと統合失調感情障害の完治方法も打ち立てられるよ」

シルベスター「僕も精神病の有効な治療法について考察した論文を書いた事があります。自分の中では新しい発見だったつもりです。僕も当事者の一人として出来る事を今後もやっていきたいです。ただ症状に懊悩し、つまらぬことに拘泥するのはもう嫌です。僕は聡明な男として世間一般に認知されたいのです。ところで関係ないですが僕って発達障害じゃないですよね?」

医師「発達障害じゃないよ、なんで?」

シルベスター「僕は昔医療従事者に発達障害をしきりに疑われた事があるんです。知能検査も受けていないのに」

医師「知能検査では現代の医療ではよっぽどの変な人か知的障害が疑われる人しか利用されないからね。ネットやテレビでIQがなんとかっていうのは大部分が信用ならないものとみて良いでしょう」

シルベスター「幻聴は治まるでしょうか?もう長い間闘病を続けていますが幻聴が途切れた事はついぞありません。僕は働けるでしょうか?バイトも今はやっていません。僕は社会できちんとやっていけるかどうか甚だ不安です。どうしていけば良いのか分からず泣く日もあります。大学の教員にもとんでもない罵詈雑言を言われました。弱者を更に嬲り殺そうとする健常者の神経はどうなっているんでしょうか?僕は本当に生きていて良いのでしょうか?自分の人生に生きる意味があるかどうかは分かりません。大体そういうのは死の寸前に分かるものだと思っています。僕は統合失調感情障害の完治に至りたい、でも至れない。どんなに努力しても、その事に焦りも感じます」

医師「健常者からの理解はまだまだだね。まずは精神病の概念自体も専ら健常者は知らないでしょう」


また別の場面。

シルベスター「最近は数学書と哲学書を読み耽る日々です。頑張りすぎて虚脱感に襲われる日も多々あります。そのせいで調子を崩してしまいます」

医師「君は知的に早熟だね、そんな本が分かるとは。君は多くの人に自分の考えが理解されないと言っているけどそれは君の考えが通常より傑出しているからだと思うよ。そんな早熟な君にはこのDVDを貸してあげよう。ずっと貸したかったものだけどね。マイケルムーアの映画だよ。これは映画の賞を受賞した程のドキュメンタリー映画の傑作だよ」

シルベスター「ありがとうございます」

医師「ところで君の幼年時代から少年時代はどうだったの?治療の参考にしたくて」

シルベスター「僕は和歌山県の田辺市に生まれました。父親は公務員で、母親は専業主婦でしたが今では母親は一生懸命に働いています。僕の母親は昔は怒る事が多かったように思います。それでも歳を重ねるにしたがい丸くなりましたが。僕は幼稚園では喧嘩好きの児童でした。園児を殴って問題になったこともあります。またその時は女子からもモテていました。なぜかは分かりませんが。僕はウルトラマンが好きでした。多くのコンテンツの奔流で中々享楽出来ました。その時は悩みなど微塵もなく。友達と馬鹿をやっていました。僕は小学生になると、いじめられっ子を助けたりしました。また野球チームにも入りました。僕は野球チームに入ったのは野球漫画を読んでからでしたが現実は土人や白痴しかいない地獄絵図のような場所でした。僕は野球の監督を撲殺したい気持ちを何とか必死に抑えていました。しばらくは好きな異性はいませんでした。僕が恋愛に興味を持ち始めたのは晩熟で19歳からの頃です。それまでは同性といる方が気が楽でしたし、女性は未知の生物、未知のメカニズムを持っている人間に思えました。僕は小学生の頃、ゲームもやっていました。

僕はゲームが今までずっと下手だったのですが小学生の頃は下手なりにやっていたと思います。当時の僕はかなり小柄でした。今では超大柄ですが当時は小柄で、女子からもよく可愛いと言われていました。可愛いと言われるのが嬉しくない男性もいるようですが僕はそれで愛されるのなら嬉しいと思います。それが愉悦に感じます、昔から。それからカードゲームやプラモデルにはまっていた時期もありましたね。アニメや漫画も楽しんでいました。おそらく僕らの世代はあまり二次元オタクに偏見がない世代だと思います。まあ高校に上がったらもうほとんどアニメや漫画は見なくなりましたが。小学生の頃は二次元のキャラに影響されてわざと低い声で喋ったり、彼らの行動を模倣したりと色々やっていました。当時の僕はそれがかっこいいと思っていたのです。勉強は全く振るいませんでした。簡単なテストでさえよく分かりませんでした。中学に上がれば勉強への熱が出て、成績優秀者になりましたが、まあ何事もタイミングですよね。昔劣等生で学校嫌いだった天才もいますからそれはそれで良いのでしょう。今の僕はプログラミングコードを作ったり自由にアットホームで話したりすると天才やギフテッドと言われるようになりましたが幼い頃は不世出の知能や才能を持っている人というよりは普通の児童でした。今でも必要時以外は普通を演じていますよ。もう板についてきました。

僕は幼稚園時代、喧嘩好きの腕白小僧でしたが小学生にあがると喧嘩の弱い、泣き虫の小児になりました、経験が浅く頑是なき存在でした。外で遊ぶのは中学までは好きでした。まだあの頃は近視眼も進んでおらず、眼鏡も当然かけていませんでした。大声で何かを喚いたり、山を散策して秘密基地を作ったり、予言の書を作ったり、カードゲームを作ったり、いろんな事をやってきました。漫画も描いたりしていましたが当時の僕の画才はまだ覚醒していませんでした。したがって多くの人の失笑を買う事が常でしたが僕はそれによって不思議と傷つく事はありませんでした。僕は運動も当時はよくできました。群の陸上競技大会に出た事もありますし、水泳にも抜擢された事もあります。

グロテスクなゲームをプレイしていた時もあります。バイオハザードとかね。別に性的倒錯という訳じゃないと思いますが、銃を用いて仇敵を駆逐するのは中々悦楽的でしたね。でも僕はかなり下手で、いつも友達の足をひっぱっていましたが。それでも楽しめていました。小学生の頃の僕は天真爛漫で他からの刺激を受けやすかったので積極的に模倣し、積極的に人生を楽しんでいました。それが僕の無手勝流でした。それがあるからこの今の僕があるのです。巨大な風采、満足です。時間というものは各々の人生と一蓮托生だと思います。過去も未来も現在も、一様に重要なのです」

 

シルベスターはある日風邪を引いた。クーラーのきいている部屋で口を開けて寝たのと、ユーチューブで朗読動画を多数アップしたのが災いしたらしい。彼は眩暈した。そして翌日はさらに症状が酷くなった。風邪だろうと思われた。熱も出た。彼は一日中横になったりした。また食欲もわかなかった。食べ物の味もよく分からなくなった。鼻水が大量に出た。大学も風邪が治るまで休むことに彼は決めた。するとその休み期間内に、彼の祖母から電話があった。

シルベスター「もしもし?」

祖母「シルベスターか?元気か?」

シルベスター「おお、お祖母ちゃん、ちょっと今風邪引いてる。それよりお爺ちゃんがコロナで入院したって本当?」

祖母「うん。救急車で搬送された、足の筋肉が弱まって立てなくなっていた。それよりシルベスターは最近何やってる?」

シルベスター「もう大学四年で残すところもあと僅か。卒業単位はきっちり取っているし、最近は数学より文学に傾倒しているよ。特に不条理文学の泰斗であるカフカだとか、ノーベル文学賞に最も近かった男である安部公房とか、シェイクスピアの戯曲、四台悲劇の戯曲とか、ゲーテの詩も読んでいるよ。もう僕は長い歳月をかけて自分の小説のネタを掴みかけている。高校時代は三島由紀夫や谷崎潤一郎、泉鏡花、中島敦などを読んで耽美的なリアリズムの文体を習得しようと躍起になった。そして今は不条理性を学んでる。そして統合失調症を筆頭とした狂気の経験、耽美、不条理、狂気、これらを合わせて僕は新たなジャンルの小説を書きたいと思っている。今まででも結構書いてきたけど、どの文学賞も受賞できなかったよ。箸にも棒にもかからない出来栄えさ。それでも今は戦略がある。僕はノーベル文学賞を受賞するような日本屈指の大文豪、大巨匠になりたい。今は小説を書くのみさ、無理をせず、書ける時に書いていく」

祖母「そうか、色々と勉強してるんだね。そう言えば最近外国人が和歌山県に殺到しているらしいよ。コロナからのインバウンドって言うのかなあ、最新観光テクノロジーである自動翻訳機の登場で多くの観光客が助けられているってニュースでやっていたよ。和歌山県も悪くないでしょう?ほらおばあちゃんらが昔シルベスターを色々とドライブに連れていったじゃない。最近はお爺ちゃんもお祖母ちゃんも体悪くしてしまってもう二度とドライブにはシルベスターを連れていけないけど」

シルベスター「ドライブ、懐かしいねえ。あの頃に撮った写真、僕のスマホに残っているよ。そう言えば僕の風邪はもう治りかけだよ。熱もないし。それでも外にはあまり出たくないけどね。対人恐怖もあるしさ。前はよく運動が精神的に顕著な効果を発揮するということで僕は運動していたけど。対人恐怖もいつになったら治るのかなあ。トラウマもあるし、やっぱりカウンセリングとか受けた方が良いかなあ」

祖母「シルベスターは元気そうに聴こえるけどな。ちょっと鼻声ではあるけど。対人恐怖にしろ、どんな症状にしろ、悪い状態がずっと続くわけじゃないと信奉して生きるしかないと思うわ。大丈夫、シルベスターなら。多くの人から愛されているし。こんな恵まれた環境にいる人は中々いないよ。高校もよく卒業出来たし、退学する事無く。それに大学ももうすぐ卒業かあ。早かったな。まあシルベスターにとっては長い時期のように感じるだろうけど。本当にこれまであんたはよく頑張って来たよ。一人暮らしも寂寥感があるというのにそれでもやってこれた。今やあんたは立派な、一人前の大人だよ」


彼が覚えている祖母との会話はこの辺りまでである。ところで君はアクマ二ヤン・ロビンスを知っているか?彼はハーフの日本国籍を持った白人日本人で、21世紀に建造された北海道の経済特区に両親の都合で移住し、それから猛烈に日本語の勉強を頑張って今やネイティブと同じように話せるようになった。彼は日本の大学の医学部を経て精神科医として身を立てられている。彼はシルベスターよりも20歳以上年上の生まれである。シルベスターは通院していた病院の都合で他の精神科に転院する事になったのだがその際にこのアクマ二ヤンがシルベスターの主治医になった。アクマ二ヤンは屈託ない性格で、笑顔の素敵な医者だった。また頗る体力のある男で、一週間のうち極力診察に時間を費やし、医学界にも皆勤である。彼はルックスも良く、前述のとおり185㎝の身長を有している。看護師たちからの恋慕を感じつつも彼には良妻賢母がいた。彼はその良妻賢母がいるだけで異性関係は満足であった。その異性とは彼が出会い、逢瀬を重ねたのは大学卒業後2年経った頃からである。彼女は非常に落ち着いた性格で、背丈は成人女性の平均より6㎝高いくらいで、学識もあった、人として十分な素質を兼備している女性でもあったのだ。彼は醜悪な巷でも言われているように勝ち組であった。

アクマ二ヤンはシルベスターのネット上での活動を知っていた。彼はネット上で肥大化した、シルベスターを見ていた。多くの創作物、そして学術論文、それらはシルベスターの甚大な才能を示すものであった。彼はシルベスターの才能を認めていた。精神疾患がありながらも彼のように才能あふれる人達を見ると彼は顔が綻ばずにはいられなかった。人間の精神疾患への理解はまた発展途上ではあるものの、確かに歴史は進歩している。日進月歩に。彼はシルベスターのエッセイのような記事が好きであった。シルベスターは卓越した、読者を魅了するような文学的な才能があるようにアクマ二ヤンには思われた。とにかくシルベスターのブログはコンテンツが豊富である。シルベスター自身の敷衍によれば  彼は20歳から現在のブログを書いているらしい。またシルベスターのブログを熱心に読んでくれているシルベスターの友達もいるらしい。アクマ二ヤンはシルベスターが本当の意味で孤独だとは思えなかった。自己表現能力もかなり優れているシルベスター。シルベスター自身は自分には言語能力に関する知能は遅滞していると言っていたがそれは謙遜か、単なるパフォーマンスであろうとアクマ二ヤンは思った。また小説も難しい用語が多様されている割には読者に読み進めたくなる魔術のようなものがあると思った。生前には評価されなくてもシルベスターは未来の世界では偉人、天才扱いされているだろうと彼は思った。学術論文も現代の学問の水準を遥かに超えており、これは理解されないのは当然だと彼は思った。中世の社会でスマホの概念を説明するのと同じような場違いさがシルベスターの人生には色濃く表れているように彼には思えた。

彼は非常に母親が好きである事も分かった。視点を変えればマザコンにも見える程の母親への依存っぷりである。しかしそれでもシルベスターは何とか強く生きようと、大人として気丈に、慇懃に生きようと必死になっている事はアクマ二ヤンには分かった。彼のコンテンツに感銘を受けるのと同時にアクマニヤンはこのシルベスターという青年に並大抵でない興味関心を抱くようになった。恋愛的な意味ではないにせよ、アクマ二ヤンはシルベスターの事を人間的に好きになっていた。もはや伝説を見ているような心持で彼は死るベスターとの診察を行う事が常であった。シルベスターは彼なりに社会への不平不満や悲憤があるようだったし、自分の頑迷さにも半ば呆れているようではあったがそれは永遠に続くものではない、とアクマニヤンは思った。


シルベスターは主治医がアクマ二ヤンに変わってからはまるで精神疾患になる前のような漲る元気を感じるようになっていた。多くの人々が彼を避けた。彼も多くの人から避けるようになっていた。SNSでは人間が怖いとずっと言っていた彼を周囲の人間はおかしく感じた。でも彼は主治医と話す間だけはストレスが少ない状態で会話が出来た。主治医は彼に失礼な事を言わないように細心の注意を払っていた。主治医は有能で診察上の極意と掟を完璧なまでに踏襲していた。主治医は彼を精神科医になりたいのならなれば良いと言った。もうその頃には彼は大学を卒業しており、しばらくの間休息期間を取っていた。統合失調感情障害とは統合失調症の症状と、双極性障害などの気分障害が同時に発言している病気である。シルベスターの幻聴はまだ続いていた。外に出ると通行人にキモイと言われるし、学生にもキモイと言われる。しかし鏡を見たりしていると昔と変わらない美形である。これは自分の認識がおかしいのかと思ったが母親に彼は自分の顔について聞いてもシルベスターは美形だと言われた。

精神科医になりたがっていた時期もシルベスターにはあった。それは昵懇だった昔の主治医に憧れていたからだ。その折に彼は精神科医になりたいと妄言めいたことを主治医に言うと主治医は是非なってくださいと彼に言った。精神疾患を持つ精神科医とは中々に剣呑な存在であるがそれで良いのかとシルベスターは思った。しかし彼はまだまだ医学以外の事を勉強したかった。特に数学や哲学を。したがってストレートで進学する際には関東の国立大学の数学科に入学した。彼にとって国立大学に病気を抱えながら入学できた事は極上の誇りであった。また、彼には自らを私小説として取材し小説にする習慣もあった。彼はジョンレノンと同じように自分の事を主に表現した。そして創作を続ける中で何人かの人々に褒められたりした事もあった。一部の人々の間では統合失調症みたいな精神疾患で、美形で、天才みたいな奴がいるとリアルでもネットでも話題になっていた。それは紛れもなくシルベスターの事であったが、彼は自分のそういった評判に気づいておらず、異性からの好意にも気づかない朴念仁であった。自分の思考で自分を生きづらくしているのが昔からの彼の終生であった。それでも主治医と彼との会話は非常に弛緩した、安心感のあるものであった。清冽な診察、ある種抒情的とも言えるような診察、音楽とも言えるような診察にシルベスターは感覚的陶酔を感じていた。

当然の事だが、主治医のアクマ二ヤンはこれまでのシルベスターの診察内容を知っていた。その上で彼に合うのはどのような治療法なのかを暗中模索していたのである。だいぶましになったとは言え、シルベスターには厚顔無恥で、頑迷固陋な性格的欠点がある。その事はシルベスター自身も自覚していた。その上で彼らは診察を行った。二人三脚での作業だ。シルベスターは今は働いていない。職業に貴賎なし、や同調圧力、集団主義などの日本人に特筆される要素からシルベスターはだいぶ焦っているようではあった、最初の内は。しかし次第に彼は自分のペースを保持出来るようになった。精神疾患によって狂わされた時計の針がやっと動き出した構図だ。シルベスターはネットでは針小棒大な発言をすることも昔は多かったが今は淡白で、控えめで、身の程にあった発信を絶えず継続しているのである。

シルベスターには年配で魅力的な主治医を得た。主治医もまた、シルベスターを患者の一人として尊重し、親身になってくれた。親も良い医者に出会えて良かったね、とシルベスターに言った。彼は本当に幸せであった。過去のあらゆる受難も無に帰した。そうする事で彼は自分の人生を溜飲に下げる事が出来たのである。ある意味彼は本当に、本質的な意味で超人になれたのである。少なくともどんな誤謬があれど彼はそれを感じていた。もう彼をこっぴどく詰問する連中もいない。それがシルベスターの清々しいまでの人生の絶景であった。

現代人は自分で考えたり、自分で行動したりする能力の持つ人間が減っていっていると聞く。それが正しい知見なのかどうかはシルベスターには定かではないが、彼は精神疾患を生き抜いて、自分で強く生きるだけの強さを遂に見出し、隷属させるようになった。最後に自分を救えるのは、本当に自分を救えるのは自分自身だけだ、だから僕はしっかりしないと、とシルベスターは常日頃から考えているのである。精神科のデイケアは死るベスターは利用しなかった。もう自分の力で自分の人生を御する事が出来る、彼の胸中ではその思いが泰然自若としていたのである。

それでもシルベスターにも落ち込む時はあった。それでも今の彼は自己を強く持つ事が出来ている。また彼は自分の小説を長く書いていた。シルベスターの物語はシルベスターに焦点を合わせ、出来るだけ彼の境遇やスタイルに合わせた一つの様式となっている。


ある朝シルベスターが目を覚めると自分の悪口がひっきりなしに聴こえるようになった。それまでは自分への悪口は夜頃に聴こえていたので彼は困惑した。ありとあらゆる人間の顔が邪悪なものに見えた。また不快な音、サイレンや黒板をひっかくような音、怒鳴る音も同時に聴こえた。それを彼はロビンスに相談した。

ロビンス(主治医)「最近の調子はどうだい?」

シルベスター「実は症状が突然変異しまして、自分の悪口のオンパレード、不快な音のせめぎあいなどが支配的です。時が経てば治るかと思って安静にしていましたがやがて、自分の思考は攻撃的なものになり、一般人を襲いたいと考えるようになりました。無論それがいけない事である事は分かっています。それだけに苦しいのです。先生、どうにかなりませんかね?」

ロビンス「入院はする気はない?入院すれば良くなると思うんだけど。けど君は入院に気が滅入るような思い出があるらしいね。強制はしないけど、昔の君と今の君は相当違うと思う」

シルベスター「考えておきます。僕の一存では僕にとって適切な道は選べそうにありません。また僕は肺臓も調子が悪くて、苦しいです」

そうしてシルベスターは診察を終えた。ロビンスは彼の薬の処方を変えた、緊急事態との事である。彼は自分を過去に傷つけたあらゆる人々の邪悪な意識が彼らとは関係のない多くの人間に憑依しているように感じた。一種のシャーマニズムのように。彼はシャーマニズムについて勉強するようになった。宗教学や民俗学についての本を読んだ。その間も異常な神経は続いた。彼は犯罪なんてしたくない、しかしこのままだと自分がおかしくなってしまいそうな気がした。今の状態でも十分におかしいのだが。独り言も増えた。また彼は日頃の病気のストレスをなくす為にホラー映画に耽溺するようになった。酒や異性関係など放埓な事柄に関わる事を彼は良しとしなかった。このままじゃいけない。自分の精神を何の抑制もなく、そしてこの症状を放っておいたら大変な事になる。僕は偉人としてではなく犯罪者として歴史にのる事になってしまう。

その頃の彼の診察名は統合失調感情障害ではなくなっていた、謎の奇病だとされていた。非定型統合失調症と呼ばれていた。ロビンスはシルベスターの病例を医学界にて発表し、同時に彼の洞察や分析の及ぶ範囲で彼に関しての考察を鮮やかなまでに展開した。「彼ほどの稀代の天才、これは彼の残した学術論文や創作を思慮すれば明らかであるが、彼を見殺しにするのは日本における大きな損失だ」とロビンスは語っていた。シルベスターはそんな事を知る由もない。彼は自分の悪口のみを脳の異常によって聴いていて、誉め言葉はほとんど聴かなくなった。誉め言葉を聴いていた時代もあったが今の彼にはそれはなかった。彼はますます引きこもるようになり、外出も滅多にしなくなった。ただパソコンを使い、ネットサーフィンをしたり、読書をしたり、小説を書いたりしていた。当時の彼の書いた小説は残っているが、支離滅裂で言葉のサラダばかりであり、文芸的にとてもじゃないが意味のあるものだとは作者には思えない。非定型統合失調症の活発化の機運に伴ってシルベスターは依然としてやるせない気分であった。家族も遠方にいて、彼らからの援助を受けられる筈もなかった。彼らは仕事で忙しく、関東に行けるだけの体力がなかったのだ。シルベスターは自分の意志で強く生きるしかない事をいつの日か悟るようになった。彼はその内寓話のような小説を書くようになった。私小説型からの転換である。それはフランツカフカや安部公房を意識したものである。自分を苦しめる存在のメタファーなど、実験的な作品を彼は書くようになっていた。

その頃の彼の知名度は最高潮を見せており、彼の論文や創作物は何らかの賞の受賞目前とされていた。このような状況の中で犯罪をするなんてことは島田清次郎の二番煎じである。きっと彼の名前は歴史の暗黒に消えていってしまうだろう。埋もれてしまうだろう。

そしてまたある朝、彼は目を覚ますと、もはや自分の話す言語すらも分からなくなっていた。古典力学的な、或いはユークリッド的な日常の秩序生前から突如として量子力学的な秩序に変化したかのように彼の思考のパラダイムそのものが変わっていた。彼自身もそれを自覚していた。コミュニケーションは全ての場合において正常に出来る訳ではなくなった。

母親はそんな彼を心配して地元に講演に来た心理学者の話を聞いたり、彼以外の精神障害者の話を聞いたりして勉強した。母親はもう60台間近になっていた。シルベスターの危険な立場と健気な彼の母親の関係を思えば、作者は余りにも空しすぎて泣いてしまいそうになる。何故、シルベスターが一体何をしたと言うのだろう。

彼は地獄的な日々を過ごしていた。そんな中、ある日彼はこんな夢を見た。如来と対話をしたのだ。その一部始終を話そう。

如来「やあやあ、よく来たね。私は如来。君は現世での生活に疲れてしまったようだ。ここは夢という形式をとってはいるがニルヴァーナだよ。君の今の病気、非定型統合失調症はきっと良くなるよ。今は不安だろうけど、きっと良くなる。今まで辛かったね。よく頑張ったね。君は過去に妖怪と対話をしていたようだけど、それは実は幻覚の類ではないよ、21世紀の医学では突拍子もない妄想は全て幻覚と論断してしまう傾向があるけど妖怪の場合はそうではない」

シルベスター「いや、僕は頑張ってきたという訳ではないよ。僕はいつも怠けてしまっている。学歴も難関大学卒業じゃないし、今は何の頭も働かない。論文や創作物の作成にも取り組んでみたけど全然駄目だ。僕は現実のあらゆるものに絶望している。もうこの先生きていけるだけの気力がない。異性達も僕の事を見下し、弱者男性なんて言っているしさ。そう言えば如来さんが出てきたという事は過去の僕の仏教の勉強が発露されているという事なのかな?夢は無意識の産物だとフロイトは言っていたし。でも如来さんが夢と言う形式をとったニルヴァーナと言っている。ううん、分からん」

如来「今は分からなくても良いよ。今の君は人生に疲れている。私には分かる。でも自死したり犯罪をするような真似をやってはいけないよ」

シルベスター「でも、今の僕はもう限界で、張り裂けそうだよ。この奇病の原因も現代医学の諸理論じゃ理解出来ないと聞くし。ロビンス先生も僕に対して決定的な金言を言おうとはしない。変に刺激して、僕が最悪の行動を誘発する可能性を極限まで減らしたいのがまるわかりだが」

如来「君は現実世界では交信不可能な思考の形式を取っている。このニルヴァーナにおいては一般の人間の思考形式を存在者に馴染ませる設定が施されているから何の問題もなく意思疎通は出来るが、君は現実ではもはや廃人だと思われている。分かるような言葉や論理を使わないし、容貌は超長身の美形ではあるがとんでもなく危ない人物だと思われている。それは余りにも可哀そうな話だ。だから私はそのような可哀そうな君を助けたい。君の使命は既に果たせたよ、多くの学問上、芸術上の分野の創始、革命。未来の君は大勢の人から丁重に扱われて、憧れて、羨ましがられて、流行を生み、現代の偉人の成功例として教科書にのるようになるよ」

シルベスター「それはありがたいね。本当ならね。でも今の僕はただひたすら辛くて。自分から意識を変えようと思ってホラー動画なんかも見るけど、それも逆効果で。もう僕には友達が一人もいない。昔の友達は悉く僕から離れていったよ。家族のみが僕を心配してくれる。特にお母さんに。でもそれもいつまで続くか、家族だって不老不死じゃないんだ。もう間もなく死ぬ。それなのに僕はいつまでも弱いままでいるのか。こんな人生生きるのが辛い。無論家族の死は多くの人が経験するものだと思う。それでも僕は家族の死を想像すると悲しい。僕の命で持って彼らを長生きさせたい。本当に辛いんだ。こんな僕に優しくしてくれる存在がいてくれるのが救いだが、最近の僕の奇病の発生ぶり、発狂ぶりは多くの人を当惑させている。僕は正気になりたい。このニルヴァーナでそれが可能だろうか、如来さん」

如来「可能だよ、君がそれを本気で臨んでいるのならね。君は多くの行動を取ってきた。その行動力や理解力、思考力、記憶力は今や皆の羨望の的だ。しかし今の君にはそれが実感できないだろうと私には分かる。現実に戻ると君の神経はまた変に、歪になってしまう、そんな事態は避けなければならない。少し私とここで話をしていかないか?ここでなら君は休まるよ。現実でも1年間は昏睡状態、植物状態になるだろうが、それでも構わないだろ?人生は長いんだ、君には社会に出る為の準備期間が必要だ」

シルベスター「紀伊の国

       大きくうねる潮騒が

       我の耳にてこびりつく

       多くの人の幻影が

       我を待とうと

       狂気の潮を拭い去り

      故人の轍もまた新なるものとして

      文化の肥やしになるだろう

これが今僕がパッと浮かんだ詩だ。詩の出来については色々あるだろうが、僕は実は詩人でもあるんだ。そうだ、このニルヴァーナでは僕自身の傷の慰撫の為にこのような取り組みもしていっても良いのではないか?」

如来「まあ、悪くない詩だね」

シルベスター「ところで如来さんは人間社会の事どこまで知っているの?」

如来「あらゆる歴史を知っているよ。戦争、紛争、内戦。偉人、伝説、宗教、聖書、学問、芸術、などなど。でもそれをここでひけらかすのはあまり好きじゃない。君も今はしないだろうけど自分の知識を意気揚々とひけらかさない方が良いよ。能ある鷹は爪を隠すと言うだろう?」

シルベスター「僕はいつまで生きられるか分からないけど、了解、肝に銘じるよ。ところで、対人恐怖はどうやって治す?」

如来「対人恐怖は実は君にはないよ」

シルベスター「そんなことはないだろう。僕は対人恐怖によって今まで大損をしてきたんだ。それによって視野狭窄にもなっているしさ。それの発端は精神病だった訳だけど。今の僕の奇病は、かなり複雑化、難治化しているね。最初の形態の病気の期間が長かった、それを現実の危うさが僕の奇病へとプロモーションさせたんだと思う。まあ僕は精神科医じゃないからちゃんとした分析は出来ないね。僕は自分が精神科医になりたいなんて非現実的な事をいったりしていたけど、今はそんな事考えていないよ。それに学校ってのは僕にあまり合う所じゃないね。学生をやる勇気も若さも、今やもう足りないからね」

如来「私が生きた紀元前のインドでは今よりももっと高齢の人々が大学に通っていた。今よりももっと大きな、威厳のある存在だった。今の日本の大学よりもね。それが時代の変遷や文化体系などによって若い人々にも門が開かれるようになった。まあでも精神科医になるというのは悪くないと思うよ。君の意識が覚めればやってみても良いんじゃないかな。でも今の君には慰安が必要だ。ゆっくり、じっくり休みなさい。人生について私が開口一番に言えるのはそれだけだよ。骨折した人に持久走を矯正する人がいないように、君も今は障害があるんだから、しかもかなり重度の。だから休んだ方が良いよ」

シルベスター「これまで僕のような人々がニルヴァーナに来た事があるかい?」

如来「あるよ。君みたいな人はたくさんいるよ。今ではその大部分が現世での命を全うしてもっと高次の世界で平穏無事な日常を送っているよ。現実とは違って、仏になって、かなり地位が上がれば、もう変な煩悩なんてなくなるし、単純なものも楽しめるようになる。難しい事と簡易な事との線引きがなされなくなる。多くのものの境界がなくなり、全知全能になる。今生きている人々にはそれを理解してほしいけど。そんな都合の良い思想を標榜する連中は時代齟齬だとかで碌に相手にされないだろうが。それこそオウム真理教の如き、危ないカルト宗教的目線で見られる事不可避だろうね」

シルベスター「なるほど仏の世界には色々あるんだね。それこそキリスト教の世界とはまた別に。でもキリスト教の宗教はどうなの?そうすると真理じゃない?」

如来「キリスト教の宗教はあながちまちがいでもない、真理だよ。でも多くの超自然や支配するものは複雑に入り組んでいてそれを人間の限られた知能で理解する事は難しい。いや、別に君を見下している訳じゃないよ、でも生き物には限界があるんだよ」

そこでアクマ二ヤンが唐突にニルヴァーナに闖入する。

アクマニヤン「やあ、赤川さん。如来さんもどうも」

シルベスター「先生!」

アクマニヤン「どうして私がここに侵入したのかと言うとね、赤川さん、君の体が現実でヒトラーのような独裁者になって大暴れしているんだ。私は赤川さんの夢の世界へ移動させる国家上秘密の機械を用いて赤川さんの夢の世界に来たんだ」

シルベスター「なんか筒井康隆のパプリカを思い出す怒涛の展開ですね」

如来「ここは夢じゃない。君が誰だか知らないが嘘をつくな!」

アクマニヤン「少なくとも機械の性質上、理論的にはここは夢だが、いささか未開の地であるから断定的な事は言えないな。でもこの如来はシルベスター、君にとって優しい言葉を言ってくれタロウ?それは君の願望に即したものなんだ。となるとやはり無意識の世界、夢だと推理する事は難しくないんじゃないか?」

シルベスター「確かに、一理あるかも。でも僕はそれならどうすれば良いんですか?」

アクマニヤン「私は現実で大暴れしている君とこの夢の中の君の気質を逆転させ、この夢の中で暴虐の君を殺害する。無論これは私たち医者が議論の末に得た結論だ。罪に問い、罰せられる事はそれゆえないんだ。さて君、この薬を飲みなさい」

アクマニヤンは薬をシルベスターに渡す。

如来「やめなさい!やめろお!」

シルベスターは急速に心変わりをしたのだ。無論彼にとって如来とのやり取りは心地よかったが今の彼にはアクマニヤンの言葉が正しいように思われた。それは合理的に思考したからではなかった、理性も感性も超えた、新たに獲得された彼の感覚が真理か虚偽かを見極められるようになっていた。

そしてシルベスターは薬を飲んだ。すると即座にシルベスターの視点がアクマニヤンからのものに変わった。アクマニヤンは暴虐のシルベスターを銃で殺害した。マシンガンで殺害した。アクマニヤンは慣れた手つきで暴虐のシルベスターに蜂の巣の如き弾丸を打ち込んだ。暴虐のシルベスターは血まみれになり、絶命した。

その光景が終わると宿主のシルベスターは夢の彼の体に戻った。如来はいなくなっていた。少し口惜しい感じがしたがそれは仕方なかった。如来は誰かからの手管であるに相違ないと彼は思った。そしてシルベスターとアクマニヤンの了解のもと彼らは現実の世界に戻った。現実の世界では何故か彼らの行いの一部始終を知っているかのような人々が彼らを厚く出迎えた。彼らの顔面は喜々としていた。そしてシルベスターは自分の人生と自分自身とを真の意味で受け入れる事が出来たのである。この熱狂の中でシルベスターは言いようのない幸福感を味わい、それはそれ以後の彼の人生で永遠に続いた。また奇病は治っていた。しかし奇病のメカニズムや統合失調症全般のメカニズムはまだ明らかにされていなかった。それを思えば若干不条理であるし、ニルヴァーナで死んだ菩薩の悲劇性も若干は認められるものであった。




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S.A.(シルベスター・アクマニヤン) 赤川凌我 @ryogam85

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