トチノキ

コトノハザマ

トチノキ

 流れてゆく緑の天蓋の中を走る。


 木漏れ日の瞬きが増したかと思えば、あっという間に視界が開けた。山道を抜けたのだ。

 左手には渓流が迫り、右手には疎らな集落が見える。家々の周りにある棚田の色はまだ青く、収穫のときが未だかなり先であることを表していた。


「半月ほど遅いんだったな、ここいらは」

「え…、何?」

 男の言葉は同行者の反応を期待したものではなかったから、女の問いには何も返さなかった。


 女はしばらく男の横顔を眺めていたが、やがてつまらなそうに視線を窓に向けた。女の手が動き、かすかなモーター音が鳴ったかと思うと、新鮮な空気と川音が車内に流れ込む。

「いい天気。空気も澄んでるわ」

 安いドラマのセリフのようだ、と男は感じた。

(いかんな、どうも皮肉趣味に陥っているらしい)

 男は首を軽く振って、運転に意識を戻す。

 だがそうして皮肉趣味を振り払っても、常に頭に重く蔓延る雑念が今の男にはあった。


『当社もね、一般向け戸建てに力を入れることになったんだよ』

 男の上司がそう、異動話を切り出した。

 勤める中堅の建設会社が政権交代のあおりを受けて、それまでの公共工事オンリーから業態の見直しを迫られたは昨年のこと。

 悩みに悩んだのであろう経営陣が選んだのは、事業縮小やリストラではなく新規事業開拓と従業員の配置転換だった。


 長野営業所長兼営業所準備室長――これが会社から提示された、男の新しい役職であった。

『ほら、君は出身が長野だろう?土地勘もあるし、悪い話じゃないと思うのだが』

 就職氷河期と言われる世代の男にとって、従業員を守る選択をした会社と経営陣には当然感謝の気持ちがある。

 だが同年代、いや数年先んじているどの同僚よりも会社に貢献しているという自負のあった男にとって、都心を離れ地方都市に転勤するというのは、都落ち以外の何物でもなかった。

 だから上司からその“栄転”を告げられたとき、男は大きな怒りと悔しさと失望を感じたが、プライドを優先させるには身に付いたしがらみが多すぎた。

『…謹んで、お受けいたします』

 絞り出した声は、表面上は完璧な辞令への受諾の体を為していた。


 似た景色を数分眺めながら走り、男はハンドルを右に切った。2人を乗せた車は、小さな砕石敷きの駐車場へと足を止める。

「寄る所って、ここ?」

「ああ。少しだけ坂を歩くぞ」

 近くの民家のものだろうか、駐車場に隣接して据えられた黒く輝く墓石を横目に、2人は坂を上っていく。


 男の目的のものは駐車場から既に見えてはいたが、背にした山の緑に紛れていて女には認識できていなかったようだ。パンプスの足元を気にして俯き加減で歩いていた女がふと顔を上げ、すぐさま驚きを隠さぬ調子で言った。

「うわぁ、大きい木ね」

 2人の眼前に聳えるのは大きい……いや、巨大と言っていいトチノキであった。


(かれこれ20年ぶりになるが、変わっていないな)

 男は久々に対面したその木を、懐かしさのこもった目で見据えた。

 それは男がまだ丸坊主で詰襟を着込み、日々学び舎に通っていた頃のこと。実家から少し離れたこの地に聳える巨木は、男の青い春における話し相手であったのだ。

 自転車を駆ってこの木の下に通い、様々なことを語りかけたことを男は思い出す。将来大物になる夢を、教師の愚かさへの不満を、同級生が如何に幼いかという嘲りを、自分に理解を示さぬ両親へのもどかしさを。


 男はそこまで思い返して、やめた。自意識の高い早熟な子供にありがちな、根拠のない自信に満ちた増上慢に顔が火照りそうだったからだ。

(今になってみれば、なんとも青臭かったな。……だが真剣だった)

 男は“男の子”の夢や自分への盲信をそのまま抱き続けているほど子供ではなかったが、それを笑ってしまえるほど枯れてもいなかった。

 岩と見紛うほどのゴツゴツとした肌に触れながら、男は木に問いかける。俺は、自分が馬鹿にしていたつまらない大人そのものになってやしないか。お前に話しかけていた理想には届かずとも、当時の“俺”を失望させない程度の男になっているだろうか。


 男の沈んだ気持ちとは裏腹に、女は何が楽しいのかトチノキの周りを時折嬌声を上げながら歩き回っている。

 不思議な女だ、と男は思う。

 転勤の話は、何日か経ってから告げた。すぐに伝えなかったのは、別れることが嫌だったからだと後になって気づいた。

 その気づきを、男は軽い驚きとともに受け入れた。付き合ってから、数年。思った以上に、女の存在は大きくなっていたのだ。


 告げられた側といえば、驚きも怒りもせず「いつからなの?」とだけ聞いてきた。夏過ぎだと答えると、今度は「じゃあ準備期間は余裕ね!」と。

 別れ話など出す気配も無くあっさりと東京での生活を捨てた女を、男は改めて見やる。そのライフスタンスを体現するように、女はくるくると軽やかに木の根元を飛び回っていた。


 なんとなく女の後を付いて樹の周りを歩いていると、突然女が樹上を見ながら声を上げた。

「あ!ねぇ、あれキノコじゃない?」

 女の視線を追うと、根元から4メートルほどの高さに明らかに木の肌とは色も質感も違うこんもりとした塊があるのに気がついた。

 よくよく見ると、女の言う通りやはりそれはキノコらしい。大人の一抱えもありそうなその株は、男が今まで実際に目にしたどのキノコよりも大きく、ある種の威容をたたえていた。


(以前は、なかったように思うが…)

 男の目には、それが年経た体にまとわりつくしがらみのように感じた。

 一見、枝ぶりも豊かで、青々とした葉も茂り、依然として豊かな生命力に溢れているようなこの木も、老いて枯れ行く運命からは逃れられないのか。


 立ち尽くしている男に、女の無邪気な声が届く。

「ねぇ、あのキノコ美味しそうじゃない?お鍋に入れたら何人分になるかしら」

 自分の内心とはかけ離れた女の言葉に、男は面食らった。“蛤に海松”とまでは行かずとも、あまりに雰囲気を読まない言葉ではないか。


 憮然として女を見やると、まっすぐ男を見上げる女の目と視線があった。その瞳があまりに真っ直ぐで、透き通っていて。

 途端に男は、自分のセンチな気持ちがなにやら矮小なものに感じだした。同時に、ひどく可笑しな気分にもなってくる。

「……確かに、美味そうだ」

「でしょう?あー、なんだかお腹空いちゃった。ねぇ、どこかで軽く食べていかない?」

「…ああ、そうだな。親父もお袋も4時頃までは帰ってこないだろうし。歩いて行けるすぐ近くに、ドライブインがあったはずだ。」

 自転車でこの木に会いに来ていた頃、どれだけ入れても鳴く成長期の腹を抑えるために、たまに寄っていたドライブイン。


 まだ、あの鮭定食はあるだろうか。大きな釜で炊かれた地元の米に、皮はカリカリと香ばしく身はジューシーな、絶妙の焼き加減の鮭。

 正反対な…だからこそ“合う”のかもしれないパートナーと共に戻ってきた今の自分には、どんな味に感じるだろう。


 男は女の手を取り、ドライブインのある方向へ向けて一歩、踏み出した。

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