6
酷く憂鬱だ。昼下がりの五限目。僕は窓から空を仰いでいた。太陽はこれでもかと言うほど照りつけてくる。堪らなくなって顔を逸した。ここ、美術室は灼熱地獄である。日当たりは良いが、夏は最悪だ。しかもこの教室にはエアコンが無いのだ。サウナ状態の部屋で美術の授業である。もうとっくに汗だくだ。そして更に僕を憂鬱にさせる原因。それは教壇に立つ教師だ。
「みんな!暑いとは思うが、自分の作品に集中すれば、暑さなんてすぐに忘れられる。パッションを胸に、さぁ、制作に取り掛かっていこう!」
こいつのせいで更に暑苦しくなっているんじゃないかと疑ってしまう。そう、美術担任はあの飛鳥先生である。彼が美術の担任だったということに僕は驚きを隠せなかった。あの熱量、イメージとしてはどちらかと言うと美術と言うより体育なのだ。こういう偏見は良くないということを分かっているけれど、きっと彼もある程度ギャップ萌え(?)を狙っているのかもしれない。
さて、僕は今、卒業制作を作っている。評価は前回までの作品で既につけているため、今回は成績の評価に囚われず、自分らしさを全面に出して表現してほしい、彼はそう言った。
「受験シーズンで疲れてるだろうから、せめて美術の時間はリラックスして自分のやりたいことをやってくれ」
不覚にも優しいと思ってしまった。危ない危ない。彼の甘い罠に引っかかる所だった。自分が評価をつけるのが面倒くさいだけなんじゃないか。生徒にさも寄り添っているように思わせているのでは……そう考えてしまう自分が嫌になる。僕は人の好意を素直に受け止められないらしい。捻くれた考え方をしてしまうのだ。まぁ、相手は飛鳥先生だから、そう思ってしまうのも無理はない。
「どうだい、何か面白そうなアイデアを思いついたかい?」
にゅーっと横から顔が出てきた。飛鳥先生が僕の顔を覗き込んでいたのだ。開きっ放しのスケッチブックはまだ白紙のままで、案は一つも出ていない。
「まだ特に決まってないです。一応絵画にしようかなって」
「風景とか人物とかは?」
「そこはまだ」
塩対応で済ませると、了解と言って彼は隣の生徒に話しかけに行った。僕もそろそろ自分の作品に取り掛かろう、そう思ってもこの暑さだ、やる気なんて起きるわけがない。かと言って寝る気にもなれず、僕はずっと白紙と睨めっこしていた。白紙を見つめていれば、自然に構想が浮かぶ、そんなうまい話があるわけない。白から黒、ましてや他の鮮やかな色なんて生まれるはずがない。白は所詮白のままだ。
白紙を見ているといつも思ってしまう。これは僕の未来だって。まだ何も描かれていない。紙の真ん中に、鉛筆を一本立たせる。これが僕だ。突然、こんな白紙の世界に放り出された。これまでは誰かが道を描いてくれていた。道標も分かりやすく示してくれた。小さな分岐点はあった。でも、それは微々たるもので、何かが大きく変わるものではなかった。だから迷いなく選び、迷いなく捨てた。けれど、今は違う。もう僕は自分で選ばなければならない。誰かが決めてはくれない。それゆえ、僕を選ぶこと、他の選択肢を捨ててしまうことを恐れているのだ。人生は後戻りできない。たった一度きり。描いた線が僕の人生、背負うべきものなのだ。今後を大きく左右してしまうかもしれない。僕はきっと受け止められない。いつまで経っても、僕の未来は真っ白のままだ。この白さが怖いけれど、一歩を踏み出す勇気が湧いてこない。このまま白紙の上に突っ立っていれば、やがて僕はこの世界に呑まれてしまうのではないか。醜くもがけども、底なし沼のように引きずり込まれ、僕は空白に沈んでゆく——鉛筆がからりと倒れ、白紙に溺れた。
*
土曜日は怜の命日だった。昼間は暑いので、夕方、日が暮れてから墓参りに行くことにした。あのペンダントを身に着けて。あの頃の仲間を誘おうかと思ったけれど、やめにした。彼らだって受験勉強があるのだ。誘うのは気が引ける。それに彼らの中には、僕ほど鮮明に彼のことが残っていないだろうから。たった独りで墓地に向かう。夕暮れ時の墓地は普段なら怖いと感じるが、今回ばかりはそうじゃなかった。此処に親友が眠っている。そう考えると、全く恐怖は感じなかった。涼しい風が首を撫でる。彼が直ぐ側で出迎えてくれた、そんな気がした。
彼の墓は綺麗に掃除されていた。きっと怜の母親が来たのだろう。まだ新しい仏花も供えられていた。僕もその端に、小さいブーケ状の花を手向ける。それから、彼の好きだったサイダー缶を石段に置いた。手を合わせて祈る。そして彼に話しかける。怜、今年も来たぞ——と。こっちは受験勉強で大変だ。こんな時に怜がいたら、勉強教えてもらってたのにな。まだ進むべき道も分からず模索中。皆夢があってそれに向かって頑張ってるのに、僕だけいまだに足踏みを続けてる。馬鹿みたいだよな。笑ってくれ。……なぁ、そっちはどうだ。楽しくしてるか、怜。もう一度お前の笑顔が、見たい。悔やんでも、悔やみきれない。あの日、僕は——。
カラン、と何かが床に転がり、はっとする。サイダー缶が倒れたのかと思ったけれど、違うようだ。じゃあ、何が――と視線を下に落とした時。あぁ——僕はその音の正体に気づいた。転がったそれから、とくとくと中身が溢れ出す。何で、これが、こんなところに——。柑橘の香りがふわりと立ち上がる。もしかして——。ある仮説が脳裏を過る。そんなことが、あるだろうか。仮に、そうだったとして、一体どうして——。分からなかった。けれど、ここに立ち止まっていちゃ駄目だ、そう思った。僕はある場所に向かって動き出した。
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