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彼が死んだのは、忘れもしない、灼熱の真夏日。あの日も僕と怜を含めて数人はいつもと何ら変わらず遊んでいたのだ。近くの大きな森の中を探検していた時、川の渓流を見つけ、そこで遊んだ。流れもそんなに急じゃない川で、川幅も広く、遊びがいがあったのだ。その日は彼以外は早く切り上げた。彼と最後まで残っていた僕は一緒に帰ろうと言ったのだが、やらないといけないことがあるから、と僕に先に帰るように言った。その用事が何だったのかは分からなかったが、彼も独りで何かをしたいのだろうと納得して、僕は彼を置いて帰った。それが間違いだったのかもしれない。あの時僕が彼のそばにいてやれば、あんな事は起きなかったのかもしれない。後悔してももう遅い。既に起こってしまったことなのだから。またなと手を振って彼の方を振り向いた時の彼のあの表情が、彼の生きている姿を見た最期になってしまった。もう一生『またな』の約束も果たされることはなくなったのだ。
翌日、母さんの呼ぶ声で、寝不足の目を擦りながら一階に降りると、彼女が泣き腫らして充血した目をこちらに向けて、静かに言った。
怜くんが、亡くなったって。
たったそれだけの言葉で、僕は総てを悟った。もう彼と一緒に笑い合うことはできないのだと。漆黒が刳みを増してゆく。完成された世界が割れてしまった。欠片は脆くもはらはらと崩れ落ちる。手を伸ばそうとするも届かない。目の前にあったサインに気づかなかったから。見落としてしまったから。彼との未来はもうない。思い描いた二人の道は真っ黒に塗り潰された。
彼の死は事故死だった。これはニュースで聞いたことだが、彼は渓流の下流辺りに引っかかっていたらしい。岩場から足を踏み外して、そのまま急な流れに巻き込まれてしまった不慮の事故。しかし、その責任の一端は僕にもあるように思えた。もし、僕があの時彼を待っていたら、彼を無理にでも連れて帰ろうとすればこんなことにはならなかったのだ。僕のせいで彼は死んだんじゃないか、そう責める声が今にも聞こえてきそうな気がして、僕は気が気でなかった。
通夜の際、彼の母親が僕の方に来て、
「どうか、最後に怜に会ってやって」
震える声で言った。どうして一緒にいてやらなかったんだ、などと責められるのでないかと恐々としていたのだが、彼女からそのような恨み言、罵声を浴びせられることはなかった。彼女が白い布を外すと、彼の顔が現れた。眠っているのかと思った。それほど安らかで、口元に微笑を浮かべているようだった。でも、その肌の異様なまでの白さ、血が通っていない蝋人形のように透き通った色味が、彼が永久の眠りについたということを知らしめていた。怜の母親に、お別れを言ってやってねと言われたけれど、気の利いた言葉が思いつかず、皆は一言ずつ、ありがとうとか、さよならとか、あばよと口々に言った。ごめんとは言えなかった。言うのが怖かった。彼女は彼の顔をまた覆うと、仲良くしてくれて本当にありがとうね、怜の分まで生きてやってねと何度も言った。とうとう最後まで非難の言葉はなかった。
家に帰るとどっと溜まった疲れが襲ってきた。彼の死に際のあの表情が脳裏を掠め、死という漠然としたもの自体への恐怖が募った。苦しくはなかったのだろうか。彼は水死にしては不自然なほど穏やかな顔で死んでいた。彼は、楽に死ぬことができたのだろうか。そして波紋のように静かに広がり、浸透してゆく悲しみ。皆の前では流せなかった涙。留まることなく、頬を伝う。もう彼はいない、その事実に打ちのめされる。大事な一欠片の崩潰。ぽっかりとできた空洞。其処にとくとくと注がれる涙。きっとそんなものでは到底埋め合わせしきれないほど、大きな喪失だった。その夜一晩かけて僕は泣いた。悲しみが和らぐなんてことはなかったけれど、泣いていると楽だった。自分の思い総ての代弁をしてくれているみたいだった。そんなことを思いながら、布団を水浸しにした。
暑さが和らいできた頃、怜の兄貴が我が家に来た。形見分けで、僕にも怜の私物を分けてくれるというのだ。迷惑かもしれないけれど、と彼は充血した目をこちらに向けて言ったが、僕は迷わず欲しいと言った。彼の生きた証、彼を感じる何かが欲しかった。あの温もり、優しさ、匂いを忘れたくなかったから。彼が渡してくれたのはペンダントだった。怜のお気に入りのものらしく、よく着けていたものだった。シルバーの片翼が光に反射して時折七色に煌めく。彼はよく陽光にかざして遊んでいた。
こんな高そうなもの貰えない、と言うと
「爽くんのこと、怜がよく教えてくれたんだ。怜もきっと喜ぶと思うから、どうか貰ってやってほしい」
と言って彼は僕の首にそれをかけた。怜が持っていたもの、それを今僕が身に着けている、怜が近くにいるような気がして目頭が熱くなった。ありがたく受け取ることにした。彼の存在が埋もれてしまわない、それだけで安心感があった。仏壇に線香を上げた時、遺影の彼の屈託のない笑みがふっと緩んだ、そんな気がしたのは僕の気のせいだったのだろうか。
*
あれから、もう六年が経つのだ。歳月というのは早いものだと実感する。あの日がつい昨日のような、あの鮮明さはもう残っていないにせよ、何かトリガーがあればすぐに記憶から引っ張り出せてしまう、そんな記憶の数々。『夏の大冒険』――怜と僕が主人公の物語だ。自由帳を開いて、どんなお話にしようかと休み時間になる度に彼と相談した。
「大きな翼を持つ鳥に乗ってどこまでも旅をする、なんてのはどう?」
という彼の意見を採用して、宿題そっちのけで書いては彼に読んでもらった。彼が面白いと言ってくれるのが嬉しくって筆が止まらなかった。こんな日がいつまでも続けばいいのに、そう強く願っていたのは、僕も同じだった。けれど、あんな事が起こってしまって、僕らの物語の続きは永久に書けなくなった。あの日を境に、僕は物語を書くことをやめた。僕のことを唯一認めてくれた人はもういない。今後僕がどんなに素晴らしいものを生み出したとしても、彼はもう笑ってはくれないから。もう僕に物語を紡ぐ価値はないんだ、そう思ったから――。ボードに飾ってある片翼のペンダントに手を伸ばす。美しい思い出にはならなかった。残酷、それこそがあの夏に相応しい言葉で、忌まわしき、懐かしき記憶が今もなお僕の胸の奥で反響している。彼は片翼の鳥だった。彼は不器用だった。空を上手に飛べず墜死し、大人になることはなかった。それだけのこと。世界を見渡せば数多ある事例のうちのたった一つで、でもそのたった一つが僕の人生にずっと影を落としている。あの夏という檻に囚われているのはきっと彼だけではない。僕もだ。片翼が鈍色の光を放ち、しゃらりと揺れた。
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