(5)鏡の向こうの自分に見るもの

ここで、再び自他の問題に立ち戻り、自己の分身として客体化した自己という他者のうちに見るものは何か、ということについてお話ししてみたいと思います。

私は、ここ4年以上、鏡の中の女性化した自分と向き合い(あるいは、自己の意識の中だけで)長い時間をかけて語り合ってきました。いまや、この時間は私にとってかけがえの無いものとなっています。

私は、鏡の中の彼女(=自己)に見ているものは何だろう、といつも思います。

それは若いころの母の面影かもしれません。実際、ものすごく似ていて自分でもはっとすることがあります。

そして、鏡の中の彼女に対して、物悲しいような、切ないような、あるいは懐かしいような甘美で不思議な気持ちになります。さらに、このような気持ちを幼少期によく感じていたのを思い出します。端的にいえば、「彼女に甘えたい」という気持ちです。

このような思いはどこからやってくるのかと、自分の記憶をたどり続けたところ、どうやら、母親を喪失した3歳の頃に行き着くようです。ここで、「喪失した」というのは、実際に母親がどこかに行ってしまったということではなく、弟たちに彼女の占有権を奪われてしまったということです。長男には特有の嫉妬心というものが潜在的にあると聞いたことがありますが、私の思いはそういうものに近いのかもしれません。多分、幼少期からの満たされなかった思いがこのような形で現れているのでしょう。

あるいは、女性一般への甘美な「刷り込み」かもしれません。私は幼少期に女性に囲まれていました。母親の友人たちや仕事仲間、近所のお姉さん、親戚のおばさんや従姉妹たち、父親が連れていた女性たち(この辺は怖くて詮索していませんが)、というように多くの女性が周囲にいました。そして、子供である私に対して、一様に親切でした。ここで私に「女性は私に対して優しい存在」という固定観念が生まれてしまいました(実際は当然ながら必ずしもそうではないわけで、成長するにつれ、この固定観念に苦しめられることになります)。

今、鏡の中の彼女に感じているのはそうした幼少期の理想郷を失った喪失感なのかもしれません。

もっとも、それだけではありません。鏡の中に自己の本質が微笑んでいるような気もするのです。それは幼少期、もしかしたら、出生前に自己と渾然一体となっていたもの。生死を超えた存在の本質というべきもの。私はそれを取り戻そうとする旅をしていたのかもしれません。そして、その旅の終わりが見えてきたような気がします。

ここまで、私のAG論をお話しさせていただきました。AGの話にとどまらず、女装一般、さらには自己探求にまで話が広がってしまいました。独特すぎてわかりにくい話になったかと思いますが、ここまで読んでくれた皆様に感謝いたします。

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