第35話

 左腕の動脈を浅く切り裂き、傷口を開いて透明なチューブを入れる。チューブの先に計測用の袋を取り付けて、後は血が流れるのを待つばかりであった。


 透明なチューブがみるみるうちに赤色になっていく様を見つめ、ラニはその異常さにようやく気付いて冷や汗をかいた。当のソリバは何事もなかったかのように腕を机の上に置いて、重力に従っていく自身の血液を、見るともなく見つめていた。


「それさ……痛いでしょ」


 ラニは苦虫を嚙み潰したような表情でつぶやく。


「もう慣れた」


 声の調子を一切変えずにソリバは言う。彼の左手首には、切り傷と思われる跡が多く残っていた。その傷跡の濃淡が縞模様のようになっており、ラニは思わず目を背けた。


「……兵隊さんって皆そうなの?」


「どうだろうか。少なくとも、俺の代わりはいくらでもいるが」




 重たい沈黙が下りる。暖炉の火が時々弾ける音と、血液が滴り落ちる音のみが響き、慣れない静寂が小屋の中を埋め尽くした。ラニは机に置いてあるホットミルクを傾けるも、すでにぬるくなってしまっている。


 ラニは、机の向かい側に座るソリバにさりげなく視線をやった。初対面のときから真面目そうな男だという印象はあったが、会話をしてみると、それは印象以上らしかった。眼鏡の硬い輪郭が良く似合う。短髪で声の大きいところも、衛兵らしかった。


 きっと正義感の強い人なのだろう。そうラニは見立てるが、どうも違和感があった。


 純粋な正義感とは程遠いような、傾いた視点。幼い子が抱くような未発達なもの。悪ではないが、正義でもないその心理を、ラニは子供ながらに感じていた。




「研究者、と言ったな」


 意外にも、その静寂を最初に破ったのはソリバの方だった。彼はラニの方を見ず、どこか虚空に目を向けていた。


「何の研究をしている?」


「考古学。ドワネスフには鉱山も多いけど、同時に遺跡も多いから。小さい頃に遊びに行って、興味を持ったんだ」


「……君、年齢はいくつなんだ」


「12歳だよ。3か月後にようやく13歳になるんだ」



 口調からは程遠い年齢に、ソリバはそっと溜息を吐いた。そんな小さな子供がたった一人で、こんな時間に見知らぬ男と会っていることなど、普通では考えられないことだった。しかし彼が平然とした様子で、一人であることに気にもかけない所を見るに、両親はとっくの昔にいなくなったのだろう。だがソリバは、その考えを一切表に出さなかった。



「今はここで、学会に発表するための作品を作っているんだ。太古の昔、文明時代の道具を再現したものだよ。その一つが、この銃ってやつなんだ」


 そう言うと、不意にラニは立ち上がり、壁際にそびえ立っている高い本棚から、一冊の分厚い書籍を手に取る。重たそうに両手で抱えて、机の上に広げると、そこには文明時代の予想図が描かれていた。


「知っているでしょ? 僕らが生まれるはるか四十万年前、今では考えられないような高度な文明が築かれたんだ。天にまで届く建物とか、遠くにいても会話できる装置とか。本当にあったのか怪しいって言う学者も少なくないけど、僕はあると思うんだよ」


 本を大きく広げて語るその姿は、夢を追う純粋な少年そのものであった。


「でもその文明時代は終わりを迎える。通説じゃ、創造神が目覚めたからだってされている。文明時代は、創造神が昼寝をしていた束の間だったんだ。その間に人間が成長しすぎて、慌てて消してしまったのだ……ってさ」


 ラニがページをめくると、そこには男が両手を広げて、小さな人間たちを薙ぎ払っている様子が描かれていた。その男が創造神を表しているのだろう。が、ラニはすぐに本を閉じてしまった。


「正直、こんな通説を真に受けている人たちはどうかしていると思ってる。だってそうでしょ。普通に考えて、信じられるはずがない。何の根拠もないし、確たる証拠も、証明方法もないなんておかしいよ。でも……」


 一呼吸置いて、ラニは呟くようにして言った。


「こんな説がまかり通っているのは、イファニオンの存在があるからなんだ。あの国の力は、確かに不可思議なものだよ。神のおかげです、なんて言われても納得がいってしまうほどに。でも、僕は学者なんだよ。論理で説明できなきゃ、それは目にしてないのと同義なんだ」


 最後の方は、ほとんど息が詰まっているかのようだった。




「なんで魔法なんて、存在してしまったんだ……」



 目の前の少年にかけてやるべき言葉を、ソリバは思いつかなかった。

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