第3話


 目覚めたのは実家のベッドの上だった。

 えっ、何故? 生き返った?

 思わず首に触った。痕がない。手も拘束された痕がない。白くて滑らかで爪先まで手入れされた何の傷痕もない手を見る。


 ドアがノックされて見覚えのある侍女が入って来た。

「イヴリンお嬢様、おはようございます」

 サマヴィル伯爵邸の、結婚するまで私付きだった侍女が、当然のようにテキパキと朝の支度をしてくれる。

 鏡に映る髪を下ろした令嬢の姿の自分に、目を見開いたまま声が出ない。


 支度が出来上がる頃に侍女頭が来て告げた。

「今日はイヴリンお嬢様はキルデア侯爵邸においでになるご予定です。くれぐれも粗相のないようにと旦那様と奥様からご伝言を頂いております」

「え……」

 口から零れそうになる疑問を両手で塞ぐ。

「き、今日はいつだったかしら?」

「秋の末月三日でございます」

 結婚式は冬の始月五日だった。


 私はただ生き返っただけではなかった。時間が少し巻き戻ったのだ。スタンリー様と婚約していて、結婚式が目の前に迫っている、この時間に──。


 スタンリー様が生きていることを、実際にこの目で確かめて安堵する。

 まだ死んでいない。黒髪に薄青の瞳でノーブルで整った顔形の方。優しく微笑んで私を見る目。そう、ペットのように──。


「お父様、私は──」

 父に縋って結婚を止めたい。

「優しそうな方だ。お前はまだ子供だし、安心して甘えればいい」

「はい……」

 父親には言えない。あの男は結婚式の夜、言うんだ。

『私が君を愛することはない』

 そして彼は殺された。



  ◇◇


 ツインのベッド。側に居ても手も出さない夫。私は子供なのかしら。魅力がないのかしら。

「スタンリー様。私を抱いて下さい」

「イヴリン。君は私が言ったことが分からないんだね」

 彼はベッドの上に起き上がって説明する。ツインのベッドに別れて。

「いいかい。無性愛とは──」

 どうしてこんなに遠いのだろう。そう感じるのだろう。手を伸ばしても届かぬほどに遠く感じる。彼の身体が。彼の熱が。


「好意を抱くことはあっても、その相手に性的に惹かれないんだ」


「でも、このままだとあなたは殺されるのよ!」

「どうしたんだ、夢でも見たのかい」


 薄物の夜着のボタンを外して、肩から滑り落とす。下着を身に着けていない。

 裸になって抱いてと言った。

 とても恥ずかしい。声が掠れて震える。一度目だと出来ない事だ。

「イヴリン、止めなさい」

 しかし彼は私に夜着を着せかけると、私から逃げた。

 ああ、とうとう部屋を出て行ってしまった。余計に距離が遠くなってしまった。




「うっうっうっ。スタンリー様は私なんか好きじゃないんだわ。こうなったら悪女になってやる。男を引っ掛けて子供を作るのよ。あの人どんな顔をするかしら」

 十七歳は行動的なのよ。それがどっちに向かうかなんて気分次第よ。


「酔っぱらっているのか、イヴリン。離縁されてしまうぞ」

 スタンリー様の異母弟のケネスが私を宥める。

「それでいいわ」

 私は大人しくないのよ。やけっぱちなのよ。

 学校に行って、私に毒をくれたあの男から先に引っ掛けてやろうか。いざとなったらどうなるか分からないけれど。


「イヴリンは何を飲んでいるんだい」

「苺をブランデーで漬け込んだお酒なの。実家で作っているのよ。イチゴの香りがして、甘くて美味しいわよ」

 透明な赤で甘いイチゴの香りがする、実家から送って来た苺酒の所為で、気が大きくなっているんだわ。

「一口いかが」

「ふうん……。これは俺にはちょっと」

 ケネス様は一口飲んで顔を顰める。殿方にはちょっと甘すぎるかしら。

「そうね、私くらいしか飲まないわ」

 どうせ子供用のお酒だわ。


「イヴリン」

 スタンリー様に呼ばれる。

「酔っぱらっているね。もうお休み」

 頭をポンポンと撫でる手。でも私はペットじゃないし。それに、その手は私を抱き寄せるんじゃなくて、引き止める為の手なのよね。これ以上近付けない為の手なのよね。


 このままではこの人は殺されてしまう。私はこの屋敷に取り残されるんだわ。そして警吏が来て牢屋に入れられて死刑になるんだわ。

 あんな目に遇うのはもう嫌。誰がこの人を殺したんだろう。

 そうだわ、あのブランデーをスタンリー様が飲まなければいいんだわ。

 私は書斎にあったブランデーを捨てた。そしてそのことに少し安心した。



 もう少ししたら学校に行って卒業試験を受けて、友人達とおしゃべりをするの。それから頑張ってあの男を誘惑しようかしら。

 でも、そんな気持ちはとうに無くなった。あの男が私に毒を渡した時から。


 それよりもっと建設的な何かを──。

 仕事をしたいと言ったらスタンリー様は許してくれるだろうか。もっと学びたいと言ったら許してくれるだろうか。何かした方がいいわ。建設的に──。



 ディナーの食前酒にスタンリー様はいつものワインを飲む。毒入りのブランデーじゃない。書斎のブランデーは私が捨てたから。私には苺酒が出たので飲んだ。


「ぐっ」

「イヴリン?」

 喉が焼け付くように熱い。身体が痺れる。頭の中がぐちゃぐちゃになって、もう何も分からなくなった。

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