前線の花嫁
宮野 智羽
運命と過去の願い
『綺麗なお嫁さんになりたい』
小学校の七夕行事で、短冊にそんなことを書いたのをふと思い出した。
痛む体をフローリングから持ち上げる。
熱を帯びた箇所を冷やすなんて応急処置はとうの昔にやめてしまっていた。
カラカラと音を立ててベランダへと通じる窓を開ける。
天気は生憎の曇天で、天の川はおろか月さえ見えない。
しかし私には、雲の向こうの織姫と彦星のことを気遣っている余裕はなかった。
何故急にあんなしょうもない願いを思い出したのだろうか。
『綺麗なお嫁さん』
今思えば、なんとも幼稚な夢だ。
日本語としても不自然だっただろう。
でもあの頃の私は真剣だったし、それが叶うと信じていた。
だけど現実は非情である。
高校に入ってすぐの頃、私は初めて彼氏というものができた。
当時所属していたバスケ部のエースで、優しくてカッコいい先輩だった。
初めてのキスも初体験も彼に捧げた。
……いや違う。
正確には奪われたのだ。
告白を受け入れたその日に彼の自宅に連れ込まれ、抵抗虚しく身体を重ねてしまった。
それがきっかけで男性不信になってしまい、私は誰にも心を開かないまま高校を卒業した。
その後、惰性で入った大学で今の夫と出会った。
男性不信だった私の心を優しく根気よく解きほぐしてくれた彼は、まさに理想の男性像だった。
私は次第に彼のことを運命だと信じるようになった。
そして、大学を卒業すると同時に私たちは結婚した。
それが地獄の始まりだった。
結婚して3年経ったある日を境に彼は本性を現した。
きっかけが何だったかは覚えていない。
ただ、あの時殴られた場所よりも心の方が痛かったから、きっと何かしら酷いことを言われたんだろう。
彼は暴力を振るう人だった。
最初の頃こそ我慢していたが、日を追うごとにエスカレートしていくそれに私は耐えられなくなった。
離婚を切り出すと、夫は逆上し包丁を取り出してきた。
それから私は抵抗することをやめた。
ただひたすらに毎日自分の命を守ることに必死だった。
何時間ぐらいそうしていたのだろうか。
夜といえど夏場に長袖でベランダに立ち続けていると暑さでクラクラしてくる。
「……もう戻ろ」
ベランダに立っていると良からぬことを考えてしまう。
ここはマンションの5階だから頭から飛び降りれば8割ぐらいの確率で即死だろう。
でもそれはダメだ。
自殺というのは周りに多大な迷惑をかける行為だと聞いたことがある。
…私が死んだら悲しんでくれる人はいるのだろうか。
両親とは結婚の件で大喧嘩をし、随分前に疎遠になってしまった。
学生時代は塞ぎ込んでいたこともあり、友人と呼べるような人もいない。
そこまで気づいてしまっては、上手く足が動かない。
窓枠にかけた手は力が抜けてだらんと垂れ下がった。
ベランダの手すりに背を預ける。
このまま少し身を乗り出せば__
ゆっくりゆっくり力を込める。
もう正常な判断ができるほどの余裕が私には残されていなかった。
死ぬときはやっぱり痛いのかな。
それとも一瞬なのかな。
色々考えているうちに、いつの間にか上の階のベランダを見上げることができるまで体を傾けていた。
目を瞑ってさらに体重を後ろにかける。
一定の所まで傾けると、急に背中に何も感じなくなった。
「あ…」
その瞬間、ふわりと体が浮く感覚に襲われた。
風を切る音の後にドンという鈍い音が辺りに響く。
不思議と痛みは感じなかったが、私は目を開ける間もなく意識を失った。
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