無音の響き (2)

「あ、原田さん、こんにちは」

「妖怪退散」

 原田と呼ばれた男は、ヒカリの声をあっさりと聞き流して、「よう」と軽く右手を上げた。

 原田れいは、ヒカリと同じ工学部機械工学科の、二年上の先輩だ。男子にしては少し長めの髪をゆるく首の後ろで括り、ダメージジーンズを嫌味なく着こなしている姿はそこそこ絵になっていて、一回生女子の間で一時「カッコイイ上回生がいる」と噂になった人物だ。

 だが、学科の新歓コンパでの顔合わせ以来、ヒカリは原田のことを天敵だと公言して憚らない。一応、については、後日「すまなかった」との謝罪を受けてとりあえず手打ちにしているが、とにかく彼は、調子がよすぎる、調子に乗りすぎる、とても年長者とは思えない。こんな人間相手に丁寧語なんて使っていられるか、と雑に対応すればするほどヒカリに対する彼の口調は馴れ馴れしくなり、そのことが余計に彼女の神経を逆撫でする、という見事な悪循環である。

 そもそも一般教養を中心に履修する一回生と、専門の授業が大半を占める三回生とでは、広いキャンパス内で顔を合わせる機会などあまりないはずだった。だが、どういうわけかヒカリと原田は同じタイミングで同じ場所に居合わせることが多く、そのたびにヒカリの眉間の皺は深さを増し、挙げ句の果てに、学部の違う茉莉までもが原田と顔見知りになってしまっている、という有様だった。

 原田の登場を受けあからさまに嫌そうな表情を見せるヒカリに対し、彼は至極愉快そうな笑みを返したかと思えば、一転して真面目な表情で茉莉のほうに向き直った。

「確かに、自分宛じゃないものを勝手に開けるのは問題だけど、でも、松山さんは他人のものを粗末にするような人じゃないだろ?」

 その言葉に、茉莉の表情が、ぱあっと明るくなる。

 心の中のもやもやを、第三者に、特にこの男に炙り出されてしまったことに、ヒカリは思いきり顔をしかめた。

「盗み聞きとは、よいご趣味で」

「一方的に聞かせておいて、随分な言いぐさだな」

 原田が憮然と二人の背後を指差した。

 綺麗に刈り込まれた植え込みの向こう側にもベンチがあったことを、二人はすぐに思い出した。

「内緒の話ならもっと場所を選べよな」

「すみません」

 素直に頭を下げる茉莉に向かって、原田は少し慌てて両手を振った。

「いや、松山さんが謝ることじゃないから。毒舌家を気取る短絡馬鹿に反論しただけだからさ」

 彼はそうニヤリと笑うと、歯軋りせんばかりのヒカリを華麗に無視して、涼しい顔で茉莉の手元を指差した。

「それよりも、そのオルゴール、俺にもちょっと見せてくれないか?」

「いいですよ」

 手渡されたオルゴールに真剣な眼差しを向ける原田を、ヒカリは意趣返しも露骨に、盛大に鼻でわらう。

「最初から折れてた、って、どこの世界に、好きな相手に不良品をプレゼントする阿呆がいる?」

「なら、破片が無いのをどう説明するんだ?」

「それは……」

 茉莉が失くしたから、と続けようとして、さしものヒカリも躊躇った。先刻この男が言ったように、茉莉は他人のものをいい加減に扱うような人間ではないのだ。

 ヒカリが、ぐ、と言葉を呑み込んださまを見て、原田が微かに笑う。

 腹立たしい、とヒカリは思った。口論相手を言い負かしたのだから、もっと根性悪い顔で喜べばいいものを、何だその上から見下ろさんばかりの尊大な微笑みは、と。

「察するに、箱を開けて、中身がオルゴールだと知って、何の曲だろう、ってハンドルを回したら音が飛んでいて、慌てて箱や袋の中を確認したけど、破片は既にどこにも無かった、ってところじゃないの?」

「凄い! 一字一句そのとおりです! 原田さんってば、シャーロック・ホームズみたい!」

 いやいやそれほどでも、と調子のよい返事を茉莉に投げてから、再び原田はヒカリのほうを向いた。

「さっき雛方自身が言っただろ。送り主が不良品を用意するはずがない、って。だが、現にオルゴールは壊れている。ならば、自分が壊したのかもしれない、って、ありがちな思考の流れじゃねーか? 松山さんがそう考えたのは無理もないし、雛方もそれで悩んでいたんだろ?」

 返す言葉が見つからずむっとするヒカリをよそに、原田はオルゴールのハンドルを回し始めた。

 シリンダの回転とともに、懐かしい旋律が小箱を震わせる。メロディに合わせて、原田が小さな声で歌いだした。

「うさぎ美味しい……」

「うさぎ追いし」

 咄嗟にそう訂正をかけてから、ヒカリは「しまった」と歯軋りをした。原田の満足げな表情を見る限り、どうやら今のはツッコミ待ちのボケであったらしい。

 二人の水面下の戦いに気づかない茉莉が、にっこりと曲名を補足した。

「『ふるさと』って歌ですよね」

「そうそう、平和なタイトルのわりに、ウサギ狩ったりコブナ釣ったり、サバイバルな歌詞のやつだ」

 そう上機嫌でオルゴールを回していた原田が、突然その手を止めた。やにわに難しい顔でじっとオルゴールを見つめる。

 やがて、原田はゆっくりと顔を上げた。

「二人とも、少し時間はあるか?」

「無い」

 ヒカリは自己ベストを更新する勢いで即答を返す。その脇腹を、茉莉があきれ顔で突っついた。

「無いことないでしょ。今日は四コマ目まで空いてる、って言ってたのに。……で、原田さん、どうしたんですか?」

「ちょっとおかしなことに気がついたんだけど、一緒に来てくれないか」

「あ、はい」

 真剣な顔で頷いた茉莉を尻目に、ヒカリは「じゃ」と挨拶を放って回れ右をした。そのまま一人さっさとこの場から立ち去ろうとするが、間髪を入れず繰り出された茉莉のタックルに阻まれる。

「ちょ、ちょっと、ヒカリ! ヒカリも一緒に行こうよ!」

「アレに付き合うぐらいなら、オオアリクイと戯れるほうがマシだ」

「オオアリクイでもコアリクイでも何でもいいけど、ヒカリの先輩でしょ。ヒカリがいないと気まずいよー」

 茉莉がひそひそと懇願するも、ヒカリには考えを曲げる気などさらさら無い。

「知らん」

 と、頑なな背中に、心底愉快そうな原田の笑い声が投げかけられた。

「自分が気づけなかった事実に、俺が気づいたということが面白くないんだろ。まったく、ケツの穴の小せぇ奴だ」

「他人に向かってケツとか言うなヘンタイ!」

 ヒカリの怒鳴り声が辺りに響き渡る。

 うっかり振り返ってしまったヒカリの視線の先で、原田が得意げに口の端を上げた。

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