文学はおっぱいに勝てるのか〜あるいは、おっぱいから学ぶ文学理論

あきかん

おっぱいと文学の二分法

 文学っておっぱいに勝てるのかな。


 何をいきなり言い出すんですか、先輩。


 どう足掻いても文学はおっぱいに勝てないと思ってな。翔子はどう思う?


 わたしに聞きますか。それセクハラです。訴えます。


 翔子さん、セクハラっていうのはね……

 あぁ止めよう。そんな話をしたいわけではなくて。

 そう、おっぱい。おっぱいの話をしたいわけだよ俺は。文学を超越した存在としてのおっぱいについてを。


 先輩〜熱さにやられたんですか?前からヤバかったけれども本格的に精神科へ行ってみたらどうですか。


 翔子くん。それは精神病患者を差別している言動だよ。慎みなさい。


 ごめんなさい。


 よろしい。

 それでは話を戻すよ。


 戻すんかい!


 先ず最初は、文学についての定義だ。これを知ることで如何におっぱいが優れた存在であるかわかるだろう。


 私を無視する方向ですね。了解。


 文学とは虚構であるという意味から、想像的な著述であると定義できる。簡単に言えば、『事実』と『虚構』の二分法だ。

 わかる。君の言いたい事はよく分かる。文学とはそんな単純なものではないと言いたいのだろう。しかし、……いや、ちょっとまて。ワイシャツのボタンを外すな。見える。見えるから。って、おっぱいを寄せるな。翔子さん、何をしていらっしゃるのですか。


 ほら、先輩がおっぱいおっぱい五月蝿いから見たいのかなと思ってサービス。


 いや、サービスって。ありがとうございます。助かります。

 って違うからね。おっぱいと文学の話であっておっぱいが見たいわけではないですから。そんなに見せないで。君、あなたはDカップでしたよね。そんなに寄せて、谷間を見せて……。

 あぁ、これだよ。文学がおっぱいに勝てない一点目がこれだ。文学を『事実』と『虚構』の二分法と述べたけども、おっぱいとは『事実』と『虚構』を合わせ持つ存在なんだよ。

 翔子さん。君のDカップのおっぱいは実在する。しかし、それを見せられている私にとっては『事実』を超えてそこに浪漫があるのだ。

 君のその開けた胸元から見える谷間から、私はその先の乳首を、君の胸の感触を想像せざるを得ない。

 この強制力!この事実から虚構へと跳躍する躍動感を私は文学に見出す事ができないのだ。


 先輩〜何か難しそうに言ってるけど、先輩がただのムッツリスケベだって告白してるだけだよ。


 嘘だ……。他の人も同じように考えるのではないのか?


 たぶん、先輩だけだよ。


 いや待って。説明させて。

 ロシアの批評家ロマーン・ヤコブソンの言葉を借りると、文学とは『日常言語に加えられた組織的暴力』を表象するような著述である。ならば、おっぱいとは『日常言語でありながらも組織的暴力』であるとは言えないか。

 翔子くん。君が私に仕掛けた攻撃はまさに人の本能を利用した一種の組織的暴力と言えるだろう。しかしながらだ。おっぱいという言語は日常言語でもあるのだ。このおっぱいの持つ恒常的な暴力性に私は注目しているのだよ。

 決してゲスな気持ちから来ているわけではない。極めて文学的な問として、おっぱいに惹かれているのだ。


 もう良いですよ、先輩。とりあえず、映画見に行きましょ。あなたの好きなエロいヤツを。


 だから違うから。あの映画だってエロいんじゃなくてさ……

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