【第29話】ゆっくりと。

ゴポポポポポポ。

首を失ったメリッサの身体が水となり形を失って膨れ上がると、元からあった肉体の体積から数百倍にまで増加し、莫大な流水はそこからまた鋼鉄の鎧へと変化を遂げていった。


青いゴブリン姿も可憐なメイド姿も仮の姿だ。


ゴポポポポ。

メリッサ・ウールジュン、彼女は魔王である。


その変貌を目撃していた地上のグールたちは震え上がった。


魂を失い尊厳をも奪われた死者の獣たちには有りえないことだった。

火に飛び込む事すら怯えないグールたちの足が竦んでいる。


なぜ?脳を支配している百足たちには今起きてる生理現象の原因が分からなかった。


脳からはそんなこと体に命令していない。


虫には想像することもできないだろう。

一個の圧倒的な暴禍がとことん世界を震え上がらせ支配しようとした時代があったことなど。


この時代に生きている人間は覚えているのだ。


あの恐怖を、あの厄災を、脳だけにではなく身体の芯にまで刻み込んで。


「あの魚鱗象られた鎧姿は…まさか…」


「そんな…!私達【黄金の希望】が確かに倒し滅ぼしたはずなのに…!」


宙で震え上がった者が二人いた。


見間違える訳がない。

突如現れたそれは紛れもない【魔王】だった。


巨大化した身体は誰よりも早く大地に足を付ける。


ドスン!

地上のアスファルトが砕けて舞い上がり、グールたちが上に吹き飛んだ。

そのすべてがメリッサの魔法によって水に変えられてしまう。


地面に着地したはずなのにまるで浅い湖に着地したごとく水飛沫が立った。


魔王メリッサが飛沫の中に手をかけた。

水から抜けるとその手に錫杖が───


そしてブオン!と。


   ◆


クガクのナイフはゴブルの脳天を狙っていた。

磨かれた鋭い切っ先は用意に人の頭蓋骨を貫くことができる。


風よりも疾い一刃を仰向けに落下するゴブルに避けるすべはなかった。


あと一跳びで届く距離。

クガクは周囲の時間が止まったかのようにゆっくりと流れているよう感じた。


この世界ではクガクの思考だけが動いている。

何度か体験したことのある物事に超集中した先にある極地の瞬間だ。


落ちる瓦礫はスローに見えて、細かな塵や埃まで認識することができた。


(今の私は最高潮でさ…)


高まった集中力に頭は冴える。


(お前の反省後悔懺悔はいらない…。殺させろでさ…、失った私に…!)


音すら遅い世界でクガクは緑黒髪の男の唇が動くのを見た。


ラナ…。

そう呟いているのが分かった。


男の視線はずっと舞い降りるラナに向けられていた。


(お前らの関係はどうでもいいでさ。ああ…クソ…)

 

何かが風切る音が聞こえた。


刃が届きかける距離でクガクは気付いた。

───これは走馬灯か。


巨大な錫杖の先が彼女の背を叩きつける。


切っ先はゴブルの肌に突き刺さる寸前だった。


バキボキボキボキュバキ!

大事な線が断裂していく感触を鈍く感じながら彼女は腕を伸ばした。

あと数ミリセンチ、頑張れば───。

しかしそれ以上の速さと力で彼女の身体はナイフごと大地の方へ持っていかれた。


どれだけ疾かろうが。

魔王からしてみれば羽虫なのである。


   ◆


「黒の王!」


術式の魔王は錫杖を投げ捨て優しくコブルを巨大な両手でフワリと受け止めた。

ゴフルの斬られた腹部と胸部は重症だった。


「すぐに私が治療しますからね!」


言うと同時にザバァと魔王の巨体は清らかな水に流れて消えてしまった。

あとにはメイドの女がゴブルを膝枕する姿だけが残った。


「めちゃくちゃ痛い…」


「大腸出てますからね!安心してください!私がすぐに治しますから!」


役に立てるのが嬉しそうなメリッサはせっせっと魔法による治療を始めた。


まずは傷口が洗い流される。

もともと水魔法の得意なアークプリーストだった彼女はこういった治療が得意であった。


その間ゴブルは空を眺めていた。

天使はここから遠い地に落ちていく。


追って行きたかったが斬られた所が凄く痛くて断念した。


「あ、メリッサ…、敵は?」


「賊は倒しましたよ。フフフ、この私がです」


しかし錫杖を地上に叩き付けた位置にクガクの死体は残っていなかった。

クガクはとっさに【不縛斑獣】を錫杖相手に発動し、あの一瞬の中で体勢を整え叩き潰される前にそこから脱出していた。


(でも深手は与えました。直に死ぬでしょう)


メリッサの感じた手応え通りクガクの内蔵はいくつか潰れていた。


なのでグールの間からクガクがフラフラの歩みで現れ出てきたのは彼女にとって予想外のことだった。


「グプッ!グエッ!」と喀血しながら体と逆向く左足を引きずって歩く彼女が姿を見せる意図が分からなかった。

あの両足では自慢のスピードも死んでいるはずだ。


「剣を、忘れ、忘れた、だけでさぁ…」


クガクは小声でそう言うと二人に目をやることもなく横切って行こうとした。

殺気や敵意は感じなかった。


主を傷つけた者だがメリッサは動かなかった。


───怪物たちは常に力を試せる相手を求めている。

人外と化した教皇ラスが頑丈なマヤテラの出現に感謝したように、メリッサが最期に何かなそうと進める歩を止めようとしなかったのは十分に楽しませてくれたことに対する敬意であった。

ゴブルも何も言わなかった。


「ゲ、ポポポ…」


ドボドボドボ、一際大きな血溜まりができた。


よろよろと進んだ先にあった物は瓦礫に突き刺さっていたクガクが持つには多すぎる剣だった。

抜こうとしても手に力が入らないのだろうか何度も失敗して───

ようやく引き抜いてクガクは足を引きずりながら去っていく。


その後ろ姿は殺したければ殺してみろと言っているようであった。


「部下に欲しいかい…?」


クガクが何とか騎士団の団長を名乗っていたのをゴブルは覚えていた。


王には騎士団も必要だ。

彼女ならばゴブルの初めて作る黒の王騎士団の団長を任せてもいいと思ったが。


「いいえ。寝首を欠かれそうなので。行かせてあげてください」


メリッサは首を降った。

死にかけの女は死者の群れに消えていった。

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