第7話
***
〈家を燃やせ、自分のアパートだ。それから、この芝生もさっきの球戯場も、それから南H公園もI公園も全部だ〉
佐島は俺が命令に従わないことに腹を立て、すぐに泣き出すから俺は必然的に笑わないといけなくなる。
仕方がない。佐島は素直じゃないから自分の正直な欲望が分からないんだ。俺は誰よりも自由に選択することができる。人間はアニマル的な欲望を抑えることに特化し過ぎた。それゆえ心を病む。
佐島は自分の願望に従わず、望んでいない大学に入学し興味のない企業にエントリーシートを提出した。はっきりと陶芸をしたいと口にはしなかった。だから、俺は佐島の代わりに態度で示した。ずっと溜めて来た小遣いで電動ロクロを買い、佐島の貯金はなくなった。
〈俺の代わりに復讐を果たしてくれ〉
何にだよと俺は嘲笑する。佐島は楽な生き方をしていて羨ましい。この後に伯父が父を責め立て、父が俺に電話をかけてくることをもう忘れているんじゃないだろうか。
O球戯場は狙い目ではない。さっと通り過ぎたときには三時十五分になっていた。白昼だがやるしかないだろう。佐島の機嫌取りというわけではないが、俺は少なくとも佐島よりは自然体で、かつ欲求で動いている。欲望のままに生きなくてどうする? 人間もアニマルなのだから。
南H公園には今日最初に訪れてから二時間以上経過したにも関わらず、十ほどのテントがまだ残っていた。半分は帰り、残りは夜まで居座るのか。
雑草が高く生い茂る公園入り口に咲く桜は、公園を囲む塀付近に立っていることもあり、斜面の上にある。それゆえシートやテントもなく花見客とは無縁だった。素早く俺はその桜の足下の幹から生えている枝を足で蹴り折った。
〈小さいのが咲いていたのに〉
佐島の悲観する声が頭の中でした。小さいからこいつは同情するのか?
「胴吹き桜は開花宣言のときにも数えられない、認められない桜だ」
俺は手早くライターのフリントホイールを回して枝に点火した。それを桜の根元に落とす。宴会に夢中のテントの主たちが気づくわけはなかった。ただ、公園の隅で土いじりをしていた女の子がこっちを見て不思議そうにしている。
俺はあらゆる表情筋を使い、『笑顔』を作って手を振る。作り笑顔過ぎて癇癪筋も出ていたらしく佐島が〈まずい〉と一人ごちたが、女の子は無表情に手を振り返してくれた。再び土をスコップで掘る動作をはじめる。二時間以上やっても飽きないらしい。佐島も見習え。
足下で煙る白煙に追い立てられ、俺は公園を出る。乾燥していない木が燃えるときの青臭い強い煙が燻り、水分と炎の熱が対決したときの爆ぜる音が大きく鳴る。
俺は汗一つかかず颯爽と公園を後にする。背後で大人たちの談笑が大きくなった。これは火が消えたかもしれないなと思ったが、十メートルほど歩き去るとどっと慌ただしい人の叫び声が聞こえ、誰かが指示を出す怒声も混じりはじめる。心ときめくが、俺は断固として振り返らない。
次の公園はもっと楽しめそうだ。
南北に長いI公園は隣の道路の交通量が多いので、目撃されないように注意しなければならないが、信号付近を避ければ車は猛スピードで過ぎ去るだろう。問題はもし公園内で現場を目撃され、逃げられなかった場合だ。川を越えなければならないことも視野に入れる。春の川は冷水なので、できればそんなことは避けたいが。
I公園へは車道を歩いて行く。堂々と歩いて逆に不審者らしくないように見せる。車道からガードレールをまたいで桜並木に入り込む。
急に太陽が翳り、雲行きが怪しくなる。俺は雨を予感したが、佐島は俺が立ち止まるのを許さなかった。
〈さっさと歩いて、どこでもいいから火をつけてくれよD〉
標的も定められないのかと俺は呆れて、百五十本ある桜を吟味する。
〈選ぶのなら人目につかない孤立した桜を燃やすべきだ〉
佐島の臆病風だ。
桜は一本ずつ植えられており、車道と川に挟まれている。燃やしても大した被害にはならない。火が大きくなるとすれば、それは川沿いに生えている雑草のせいであって、桜が激しく燃焼するからではないだろう。一番簡単なのは、雑草に火をつけその延焼を利用して桜を燃やすことだ。だが、事件に発展させるのならば桜を狙った犯行だと警察に分からせる方が胸がすく。佐島もそうだろう? 春は『みんなが浮かれて幸せな季節』なんかじゃないと訴えるんだ。月別の自殺者数は三月、四月、五月に多いらしいじゃないか。一日で百人を超えることもあるんだからな。
〈D、自殺なんて言わないでくれよ〉
「ビビリが。いい加減にしろ」
俺が自殺志願者に見えるのか? もし見えるのだとしたら、それはすべてお前の姿であって俺の姿ではない。
佐島の根性なしが。I公園は一・五キロもあるんだから、じっくり歩いて吟味すればいいだろう。
胴吹き桜はさっきマッチのように使用した。今度は根元ではなく花に直接ライターを押しつけてみるか。
あまり北上すると遊具が増えて親子連れの花見客も増えてくる。公園を直線距離で三分の一程度歩いてギャラリーを確認する。
南に三人組のサラリーマンのおじさん花見客がいる。隣の車道は信号がないので常に車は走り去る場所だ。東の川は水量が少ない。
胸躍らせながらライターを点けたとき、火が揺らめいた。風ではない。手の甲に水滴が降ってきたので雨だと分かった。
おじさんのうちの一人が俺の手元を見ている。こんなときのために、タバコが役に立つ。本当は吸いたくなかったが仕方がない。佐島なら咽ていたところを、俺は佐島ではないとぐっと堪えて肺に煙を送り込む。おじさんは凝視をやめない。ほかの二人が談笑しているのに、一人だけ俺の愚行を予感しているようだった。仕方がない。見せつけてやるか。
〈まさか〉
放火なんてタバコのポイ捨てのようなものだ。タバコがまだ長いうちにおじさんに見えるように雑草に向かって投げ捨てた。おじさんがあっと口を開けた。落ちたタバコが燃えうつらないか冷や冷やしている。俺はそのすきに桜の花びらをライターの炎であぶった。花びらはイカが焼かれて身を捩るより早く、黄色、黒と変色しほとんど火だけになった。茎から幹に燃え移るのはもっと時間がかかりそうだ。
「おい、お前なにしとんねん!」
案の上おじさんに怒鳴られた。特に驚かないが、火のついた花が焼け落ちてしまって残念だ。仕方なく幹も火であぶる。幹は表面が乾燥している分燃えやすく、香ばしく燃え始める。ライターを次々幹に押しつけると根性焼きをしているようで、急に嫌な気分になる。
おじさんと、異変を感じた残る二人も俺のすぐ後ろにいた。
俺は冷静におじさんたちを躱し、雑草で足元の悪い公園を北に向かって走る。川を渡るなら今だが、もう少し先でもいいだろう。雨粒が大きく断続的になる。慌てて振り返る。追ってきたおじさんを心配したのではなく、勢いづいてきた桜の炎を見やった。雨で台無しにするには惜しかった。おじさんは雨でスーツが台無しになると俺の追跡を断念し、身体を執拗に手で拭っている。
俺はずぶ濡れになりながら、あらん限りに声を張り上げた。雄々しい雄叫びではなく明らかな奇声だったが、楽しいと口に出すよりはしっかりとした悪意の意思表明ができた。桜の火は雨に消し止められるかもしれないが、まだ百四十九本もある。
ある程度距離を置いて、雨がやむのを待つ。じっとしていられなくなった佐島が泣き言を言いはじめる。
〈寒いから早く帰ろうよ〉
お前は小学生か。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます